「国のあり方を決める権利は国民が持っている」からその国民が国のあり方を決めることができるとなる(選挙)。他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従って一票を投じることが、個々の国民の自由意思の表明ということになる。
他方、この国は国際社会に於いて「自由主義経済」の旗手だそうだ。「自由主義」はもっぱら「資本主義」に語られ、その「自由」は政治民主主義と紐つけられ解釈される。その「自由」は「危害原理(他者に危害を加えない)」にのみ制限される。
「自由主義」は経済や国家である以前に、個人の意思や本性に存在していれば、経済や国家にその「自由」を演繹しても構わないかもしれない。個人が「大人」であれば可能だろう。その「大人」の意思の総意を民主主義というなら、民主主義の上に資本主義を重ねることができる。
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個人が「子供」だったらどうだろうか?「子供」はわがままである。他者に危害を加えることによって自己都合を押し通すこともある。そのわがままを「自由」とは言わない。
他者に危害を加えることを良しとする風潮。それは積極的でなくとも消極的に「無視」したり「遠ざけたり」、「隠したり」「騙したり」「嘘をついたり」することが今の社会に蔓延している(陰湿ないじめに近い)。
「助けない、教えない、関わらない」の「非韓三原則」を支持します。 pic.twitter.com/yWrfWOGpjo
— 山田宏 自民党参議院議員 (@yamazogaikuzo) 2019年7月6日
(新聞社も国会議員も「子供化」)
子供の「自由」の上に資本主義が胡座をかくためには、「自由」は経済的自由主義や政治的イデオロギーの内に留めおき、決して個人の独立した思想の上にあってはならないとしてきた(その「自由」は一握りの者のためにある=強者はさらなる自由を求め、弱者は平等を叫ぶ「新自由主義」)。ゆえに個人の思想よりも集団的意識を重んじ、日本古来の伝統や国粋ばかりを吹聴鼓舞し、国際社会に於いて日本の存在を神聖視し剰えその意識の発露たる同調と排除(差別)を社会に蔓延させる、危うさを含んだ幼い思考である(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。その幼さは過去の歴史に於いて「(大)日本主義」となって立ち現れた。東亜の諸民族の帝国主義からの解放と言いながら、その上から目線は同様にそれらの人々の「日本化(同化)」でしかなかった。
「自由主義の埒外へ一歩でも踏み出した宗教意識は、やがて日本主義の埒内に収容される」(戸坂潤)となる。
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個人の独立した思想よりも集団の意識が再び今の日本を支配しつつある。個人の思想が国家によって制限されないこと(憲法第19条「内心の自由」)を倒置し、国家によって侵され支配される個人の内心を是とする意識はまさに「日本主義の埒内に収容される」ことである(共謀罪)。その「日本主義」は科学的考証に値する思想と言うべきものではなく、
”「国史」の日本主義的「認識」でしかない。だから結局、一切の日本主義は淘汰され統一されて、〔絶対〕主義にまで帰着しなければならず、又現にそうなりつつあるのである。(戸坂潤)”
「国史」の日本主義的「認識」は科学的「史学」さえ歪曲し「国論」として罷り通るようになる。日本の歴史を書いたとする『日本国紀』(百田尚樹)が「史学」と何らの接点も持たない所以である。しかし、そういった細かな日本主義は今や「日本国って凄い・日本人って素晴らしい」と呪文のようにメディアによってばら撒かれ、それらは束ねられると(大)日本主義的「認識」には十分になり得る。そんな「認識」程度に政治が動くゆえ「(大)日本主義」の徒花がまたその花芽を脹らましつつある。
「認識」は論理でも思想・哲学でもなく、子供のわがままや自己愛であって良い。「国のあり方を決める権利は国民が持っている」のその権利に縛られるべき為政者が逆にあり方を決め、国民を縛りにかかって、思想なき認識(私事)はやがて、絶対主義・独裁に陥るのである。「わたくしがそう思えば憲法」「恥ずかしい憲法」などと憲法すらその(私事)下に置く。
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自らの思想が国家によって制限されないこと(憲法第19条「内心の自由」)に「危害原理」を当てて制限しようとする国家とは一体何なのだろうか?「修身(国民道徳・国家道徳)」を国民全体に涵養することが『日本を取り戻す』(教育勅語の復権)などと、個人と国家の関係を転倒させようとする者に「棄権」を以って、フリーハンドを持たせてはならない。個人の内心の覚醒を阻み、覚醒自体に「恥を知れ」と一蹴する者は八紘一宇なる幼さを含んだ危うい思考を振りまいている。それが徒花で終わったことを歴史に学ぼうとしない。その「恥」の「恥」たるが何かも知らない者が、恥部を晒したままの裸の王様と共にテレビに映し出される。
古色蒼然とした日本主義的「認識」に巻かれることなく、憲法に保証された内心の自由に従って一票を投じることでしか「民主主義」は達成できない。「こんな人たち」と国民に指をさす子供が「棄権」によって選ばれて良い筈がない。
大人ならば自己の良心に従って必ず投票されたし。
(おわり)
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