2019年06月06日

「憂患」考



「憂患に生き安楽に死す」(無敵國外患者、國恒亡、然後知生於憂患而死於安楽 / 孟子-告子下[15])

松下政経塾・レポート「日本人の意識と安全(江口元気/卒塾生)」で引用され、「対抗する国や外国からの脅威がない場合にはしぜん安逸にながれて、遂には必ず滅亡するものである。国家にせよ、個人にせよ、憂患の中にあってこそはじめて生き抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招くということがよくわかるのである。」と括られている。

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「対抗する国や外国からの脅威がない場合」、日本人の内なる意識は「平和慣れしてしまって」「安寧にながれ」る傾向があり、それでは日本国が存続することはできないと言う。この脅威とは「対抗する国や外国からの」軍事的脅威である。

正常性バイアス、同調性バイアス、同化性バイアスの三つのバイアスが我々日本人に顕著であり、これらが「慣れ」を助長し脅威に鈍することになるという。

災害、犯罪、疫痢についてはそうかもしれない。だからと言って「対抗する国や外国からの脅威」を「憂患に生き」で論じることについては一考を要する。

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戦争を以てしか脅威に立ち向かえなかった歴史の悪しき教訓から戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認から成る平和主義が憲法に規定されている。ゆえに「対抗する国や外国からの脅威」が潜在しても憲法の少なくとも戦争放棄の理念は貫き通し、戦後74年間、我が国は他国と戦火を交えることがなかった。戦争こそ国家ばかりか人間にとっての最大のリスクと過去の歴史から学んだからこそ、我々の先人たち(特に戦中世代)は戦争を以てしか脅威に立ち向かえなかった過去の轍は二度と踏むまいと決意し、話し合いを基調とする外交努力を営々と重ねてきた。すなわち「対抗する国や外国からの脅威」を最小化すべく外交力を最大化することを憲法の平和主義は政治に求めている。

戦争に戦う平和主義を放棄し、戦争で戦う武力主義を肯定する「普通の国」になることは至って簡単である。戦争に戦うがゆえに話し合うことよりも、戦争で戦う(危機を招来する)ことも前提で軍備を行うことの方が至って簡単だ。言語による交渉力は不要で、カネと技術とヒト(命)を投下し「対抗する国や外国からの脅威」と常に軍事で脅かし見かけでも拮抗させていれば良いからだ。核武装はその最たる備えである。北の首領の国がこれを率先している。

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戦中世代が社会から消え、この国の戦後外交の意義を正しく理解できない者が政治の中枢に居座っている。彼らは、平和主義を「平和慣れしてしまって」「安寧にながれ」ると、平成の時代感に当てて過去に追い遣ろうとしている。平和主義を貫くために尽くした先人たちの途方もない外交努力を彼らは知らないし(先の天皇はこの努力をされた)、その力量や技量を備えようともしない。保守の本分は外交にあり、話し合うことが正常を保つことだと心得ていた筈だ。ところが、いつの間にかその本分を忘れ、その努力や技量がないことを棚に上げて、「平和」があたかも所与かのように「慣れ」とか「安寧」と言って退ける。

政治家や官僚の外交力の劣化が著しい。いや、彼らを上に置く我々もめっきり思考力が衰えているのかもしれない。政治や行政の不祥事・不法行為は後を絶たないばかりか、何ら反省することもなく、寧ろ我々国民のバイアスを悪用し「慣れ」を助長し本来であれば国家の危機であることまで自覚させないようにマスコミを総動員して「慣れ」させるよう仕向けている。その最たるが原発事故である。食べて応援、笑えば取り憑かない、深く考えない方が気が楽だと仕向ける。

「対抗する国や外国からの脅威」=外患を煽るだけ煽って、内憂に目を向けさせない。個よりも、民族や国家にアイデンティティを託さなければ不安でならない人々が増大している。結婚はおろか一年後の自分さえ判らない非正規労働の人々たちに、どう自分に自信を持てと言うのだろうか?非正規労働も労働選択の自由などと嘯いて、働かせる側の論理に与する政治が自分に自信が持てなくなった人々を増産し、ヘイトまがいの嫌韓・反中の言行に駆り立て(ナチスがユダヤ人を排斥したと同じ差別主義である)、他方「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と夜郎自大なアイデンティティで洗脳し、政治に無関心にさせれば、政治権力はなおさらフリーハンドとなる。

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憂患の中にあってこそはじめて生き抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招く(「憂患に生き安楽に死す」)と孟子は説き、松下政経塾では「対抗する国や外国からの脅威」に照らして意義を見出している。

他方、悪が己に差し向けた「わずらい」が憂患であり、己がこれに臨むのであれば軽く受け苦痛(いたみ)を減じ、他人に現れるなら寛大に処すべきである、と内村鑑三は「塵埃(ちり)と梁木(うつばり)」(大正3年5月10日『聖書之研究』166号)で説いている。自分の欠点は塵のように小さくとも、これを梁木(うつばり)のように大きなものとして見、他人の過失は梁木(うつばり)のように大きくてもこれを塵のように小さなものとして見るべきで、自己は厳密に責め、他人を責めるは寛大であるべきとする。他人を議する(裁く)やり方で自己も議せられ、他人を量(はか)るやり方で自己も量られる・・と。

聖書研究から導かれた言葉であるが、「対抗する国や外国からの脅威」を憂患とし「梁木(うつばり)のように大きく」他人を議したり量ったりすれば、同じように自己も議され量られるということである。悪がそう差し向け、その通り、戦争という人が人を殺め合う行いに行きつくのである。

戦国時代の儒学者の教えから学ぶは戦(いくさ)の「梁木(うつばり)」の理であり、草莽崛起(吉田松陰)、奇兵隊(高杉晋作)、巡り巡って、「戦争するしかないじゃないですか」(丸山穂高)となる。「梁木(うつばり)」の理で「戦争」と言ったところで、「人を殺すしかないじゃないですか」と同じことである。その上「おっぱいを揉みたい」とか言ったそうだが、人を殺しついでに性的欲求も満たす。戦争・戦場ならそれらは全てOKと丸山議員の頭の中では整理がついているのだろう。それが彼なりの正常バイアスならば、先の戦争で従軍慰安婦など存在しないなどとその口が言えるか?

むべなるかな。その丸山議員は松下政経塾出身。憂患に生きようが塗炭の苦しみに喘いだ、それどころか、憂患に生きれば生きるほど、その相手から「梁木(うつばり)」の理で原爆を落とされ虫けらのように市民が殺された過去すら知らないようだ。他人を議する(裁く)やり方で自己も議せられ、他人を量(はか)るやり方で自己も量られる・・。

ゆえに、「憂患に生き安楽に死す」を「対抗する国や外国からの脅威」に当て、遠くない将来に「戦争するしかないじゃないですか」が正常バイアスとなることこそ、人間としての危機であると言いたい。そう意識するかしないかは人間としての己があるかないかである。日本人とか日本国ではなく、人間とは何かが今問われているのである。

(おわり)

posted by ihagee at 18:07| 政治