28日の施政方針演説で安倍首相は「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と明治天皇の御製(和歌)を引用した。
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「日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに力を合わせることで乗り越えてきた」とし、少子高齢化や激動する国際情勢など直面する課題に立ち向かう決意を訴えた。(時事通信社報)
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しかし、この歌がいかに政治(権力)に利用されてきたかを過去の歴史から知れば、安倍首相がこの難しい歌を敢えて引用した意図がはっきりする。そんな「力を合わせること」などという心優しげなことではなく、我々はこの引用を緩く受け取ってはならない。
「大義に生き、国家の事を以って憂えまた喜びとする臣民の本領は、平素より私心を去り、尽忠報国のまことに生きるところにある。然らずしては、事ある時に当たって大和心の雄々しさは発揮されるものではない(後述「臣民の道」から)」が、この歌に過去歴史が重ねた政治的意味である。「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」を以て政治が「臣民の道」を国民に強要した過去の歴史を、報道機関は重々知っていながらわれわれに伝えようとしない。
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「臣民」なる戦前の観念は、現憲法に保障された「個人の尊重(尊厳)、幸福追求権及び公共の福祉(第13条)」や「思想・信条の自由(第19条)」を大きく制約し、「国あっての人」に大転換しようとする自民党憲法改正草案に極めて符号する。新憲法を以て、「国家が先に来て国民が後に来る」という戦前の国体観念に引き戻そうということである。
『国家が先に来て、国民が後に来るとなると、国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。だけど国家なんていうものは肉体を持たない架空の約束だから、結局は、政治家を含む公務員が自分の価値観や判断を「国家」の名で押し付けることになる。だから、…歴史の教訓に逆行する、おバカな発想ですよ。』(小林節・伊藤真『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす』106頁より)
「歴史の教訓に逆行する、おバカな発想」も、その発想を実践に移せば、国民の多大なる不幸=戦争、が到来することは、過去の歴史が証明している。歴史を教訓とすべきなのに、その「おバカな発想」の原本たる「臣民の道」「国体の本義」を、「おバカな」安倍政権は大事と思い、また同じ轍を辿ろうとするということである。
どんな不祥事が起きようと、安倍首相・安倍政権がビクともしないのは、すでに彼らの中で憲法など無視して、『国家が先に来て、国民が後に来る』で何事も押し切ってしまえ、と実践に移しているからかもしれない。所詮は架空の約束たる国家だから、官僚も行政も国家の都合で必要とあれば不正すら平気で行う。責任の所在すら曖昧で、行政府の長すらその身を以って責任を取らない、マスコミもこの不正を「不適切」などと誤魔化し過小化しようとする。
最初から結論ありき、国民への説明などなくて良い、という国会での与党の態度を見ていれば『国家が先に来て、国民が後に来る』をおおっぴらに実践していると、思わざるを得ない。偽り・騙し・隠し・脅すのも最初から結論ありきのための七つ道具である。「国家が先に来て」だから誰も国民は口出し出来ないだろう、「絆」と言えば簡単に長きに巻かれる国民だ、「日本国って素晴らしい」と日々唱えさせていれば全体に個を預けてしまう薄弱な国民だ、とタカをくくっている。この傲慢ゆえに、図に乗って、明治天皇の歌を施政方針演説で安倍首相は引用したのだろう。いずれ憲法を改正し堂々と『国家が先に来て、国民が後に来る』にしてやる!と。
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臣民の道(しんみんのみち)は、 第3次近衛内閣時(昭和16年)に文部省教学局より刊行された著作である。 個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。

第二章の「 國體と臣民の道」では刊行前年の皇紀2600年記念祝典に関連し、古事記など様々な史料を引用して神国たる所以や忠君について述べている。それを踏まえ「臣民の道の實踐に於いて億兆これ一でなければならぬ」として万民の一心同体を強調し、徹底した家族国家観のもと「我等はまた大御心を奉體し、父祖の心を繼ぎ、各々先だつて憂へ後れて樂しむ心掛けを以つて率先躬行し、愈々私を忘れ和衷協同して、不斷に忠孝の道を全うすべきである」と説き、そのくだりで、「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」が登場するのである。
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我等の祖先は、肇国以来歴代の天皇の大御心を奉じ、明き浄き直き誠の心を以って仕えまつり、「海ゆかば水漬くかばね、山行かば草むすかばね」の言立も雄々しく、「大君の醜の御楯と出で立つ我は」と勇み立ち、努め励んで来た。明治天皇の御製には、 しきしまの大和心のおおしさはことある時ぞあらわれにける と詠ませられてある。皇運扶翼の赤誠は、国家の危機に際し赫々と発露する。かつて亜欧の天地を席巻した元が、その余勢を駆って我が国をも併呑せんと泊まり来たった時、我が国民は如何にしてこの国家を防衛し、光輝ある歴史を守ったか。御身を以って国難に代らんと御祈願あらせられた亀山上皇の御軫念は申すも畏し、菅原長成の草した返牒案や宏覚禅師の祈願文に現われている如く、国民は我が国こそ万邦に優れたる神国なりとの自覚に奮い立ち、北条時宗は終始烈々たる気魄を以って率先国難に当たり、一般国民もまた老若男女を問わず身を挺して国の護りに就き、挙国一致、力戦奮闘してよくこの強敵を撃破したのであった。
(第二章の「國體と臣民の道」より)
(しきしまの大和心のおおしさはことある時ぞあらわれにける「臣民の道」)
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すなわち「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と明治天皇の御製(和歌)を以て、 個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いたのである。その実践すべきとする具体例は「臣民の道」第三章にあるが、「国体の本義」がその基となっている。
この考え方は、あらゆる場所で国家権力による強制をともなって広められ、実践に移された結果、兵士の生命を軽視した無謀な戦術や自決の強要などによって、戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となったことは歴史の証明するところ。従軍慰安婦だろうが徴用工だろうが、国体とか臣民とか言う限り、全て国民の義務としてあの時代には肯定されていた。義務であって単に「強制」なる言葉の定義がなかっただけで、実質は国家による強要であり、結果として人権を侵害したことに他ならない。
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要するに、安倍首相はこの歌を施政方針演説に引用することによって、あの時代のあの歴史をまた辿ろうとしているのである。未来志向と言いながら、過去の悪しき轍を辿ろうとするのであるからやはり「おバカ」とし言いようがないが、付き合わされる我々にとっては、バカでは済まない。バカにはさっさと辞めてもらうしかない。
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「我々国民としては我々の先祖が踏み越えて来た険阻なる幾山河、幾多の艱難辛苦を思い、その築き上げて来た輝かしい成果を振返って大いに大和心を奮起し、この難局克服に官民協力して邁進せねばならぬ。(時局を衝く 財界人縦横談・昭和15年)」
安倍首相の「日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに力を合わせることで乗り越えてきた」が重なる。(拙稿「私たちはどこまで階段を登っていますか?」)
安倍首相のマイブーム「やまとのこころ・大和心」はこんなところに淵源がある。その背景も行き着く先も上述の通り。歴史がその道の誤りをしっかり証明している。その誤りの頂点に安倍首相の尊敬して止まない祖父(岸信介)がいる。隔世遺伝でまたしても誤りを極めようとしているのか。
それにしても、安倍という人は気味が悪い。キツネ憑きに取り憑かれているに違いない。霊験あらたかな薬でそうなったのか、キツネ憑きのこの国の自称最高責任者は今やキツネの友達としか話をしない。そして遂に精神にも異状をきたし「狐憑きにかかるものは、狐のおらざるに常に目に狐の形を見、耳に狐の声を聞き(中略)狐憑きは、狐の夢を実現するものと心得てよろしい。(拙稿『キツネ憑きの話(「戦争に戦う」が「戦争で戦う」になる)』)
そのキツネの女房殿から一献いかがなどと「やまとのこころ」を注がれて、うっとりと我々はそのこころに聞き入ってはならない。われわれもキツネに取り憑かれる。
臣民などお断りである。
(おわり)
追記:
「臣民の道」、しかし、大御心と奉じる「天皇」はその道に居ない。日本会議はそれでも勝手に天皇を奉じて前時代的精神主義を受け継ぐことだろう。誰もいない御簾の向こうからあたかもご託宣があるかに、その声を借りて、かつて安倍晴明が朝廷において精神的支配者となったように、宗教的な呪術・祭祀でこの国の裏の秩序を支配し続けるつもりらしい。言うまでもなくこれはカルトである。そして表の秩序はこの国の宗主国たる米国への忠誠だったり、この国の権益を外国に売り渡したりと、大日本主義とは真逆でもある。
「国家が先に来て、国民が後に来る」、だからと言って、大御心と奉じる「天皇」はその道に居ない、となればソ連型の国家社会主義である。事実、足かけ5年以上に及ぶ指数連動型上場投資信託(ETF)の買い入れで、日銀は主要上場企業の株式に対する影響力を強め、事実上の企業公有化が進んでいる。共謀罪やら通信傍受やら、国家による国民の監視も旧ソ連並みになりつつある。右どころか左である。
つまり、安倍政権・政治なるものを俯瞰すると、論ずるに値する整合性もない支離滅裂しかない。場当たり・思いつきで、こっちを齧り、あっちを齧りと食い散らかす。スローガンやらアドバルーンや矢をやたら打ち上げたり飛ばしたりするが何のためにもなっていない、明確なイデオロギーたるものもなく、カルトの匂い芬々と、大衆の鬱屈した空気に舞い上がってふわふわと漂う綿ぼこりにすぎないのかもしれない。
到底、まともな対話や討論ができる相手でもない、こんな綿ぼこり相手にまともに論じようとすると、バカらしくなる。とても疲労する。きっと、安倍晋三という人の精神構造がこちらの理解を困難にしているのだろう。承認願望やら功名心やらコンプレックスやら。しかし、安倍晋三という人の天然な、嘘八百・糠に釘・馬耳東風・豆腐に鎹・暖簾に腕押しぶりは、最大の強みである。「何を言っても無駄だ」とドォと無力感・脱力感に捕らわれる人々、「民主党時代は〜、韓国がぁ〜」と見下したりバッシングする相手がいれば「俺らって凄い・日本国って素晴らしい」と自分では何一つ誇れることがないのに気分ばかり夜郎自大な人々を、大量に生産する。その脱力感やら無力感やら尊大さが入り混じって空気となって、綿ぼこりたる彼を意味もなくふわふわといつまでも舞い上げているのである。
金子勝氏(慶応義塾大学経済学部教授)は「脱力化ポピュリズム・無力化ポピュリズム」と分析したが、我々国民の政治への無関心・諦めこそ、民主主義を破壊する。そして、この国がガラガラと音を立てて壊れていくことだけは確実に理解できる。
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