2019年01月31日

愛子と愛国



「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と、昨日(1月28日)に召集された通常国会施政方針演説で、安倍首相は明治天皇が詠んだ和歌を引用した。

「日本(ヤマト)の防人となる沖縄人(うちなーんちゅ)で良いはずがない。」は、故翁長前沖縄県知事の言葉。

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「大和心」は言うまでもなく、その言葉に付随する「あるべき民族観」を示す(拙稿「やまとのこころ」)。それは、やまと=本土、沖縄=本土の防人、あるいは、LGBT(「性の多様性」)を切り捨てたり、「こんな人たちに負けない」と他者=国民の異なる意見に指を突き立てる、といった、「あるべき民族観」を前提とする差別意識である。

憲法の下、同じ日本国民であるはずなのに、沖縄人を人間の盾(防人)、沖縄を『力強い砦』と犠牲にして「日本(やまと)を盛り立てる=をゝしさ」なる考え方が「大和心・やまとのこころ」に象徴される差別主義である。大和なる軍艦を差し向け民間人ごと沖縄を本土(やまと)防衛の砦としたのも「やまとのこころ」であり、辺野古の基地問題で、再び沖縄を米国との矢面に立たせようとしている。(拙稿「沖縄の人々は本土の<防人>なのか?」)

「大和心のをゝしさ」などと、うちなーんちゅの心の傷に塩を擦り込むようなことをよくも言うものだと憤る。

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江戸時代・国文学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み桜に物の哀れなる日本文化の美意識や価値観を見出したとされている。多分にそれは後人によって政治的に解釈され、ヤマザクラに象徴性を持たせ国花の如く紋章や名前に付け軍人の行動規範や総国民の価値観に適用し始めたのは、大正時代である。山中の様々な木々に混ざって清楚且つ奥ゆかしいヤマザクラの佇まいを宣長は日本人の精神の象徴の一つとして詠んだ迄で、大正時代になって、清楚・奥ゆかしさとは真逆のこれぞとばかりに爛漫と咲くが如くナショナリズムの発揚に宣長のヤマザクラを借用した。『日本人本来の「心」を取り戻す』象徴として「やまとのこころ」に桜を重ね、散る桜・大和魂と、若者たちに爆弾を抱かせて無為無謀な特攻に駆り立てたのも、その「大和心・やまとのこころ」である。(拙稿「梓(あずさ)とサクラ」)

安倍という人は歴史から何一つ学ぼうとしない。「大和心・やまとのこころ」に命を奪われた者、組み伏せられた者に対して、何の心も持たない。心を説きながら、こころというものが何か全く判っていない。

「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」が「愛国」だと思っているのだろう。

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かつて私は学生に問うた、「『愛子』の『愛』はどういう意味ですか?」学生たちは口をそろえて言った、「愛される」と。
(寿岳章子著「日本語と女(岩波新書)」より)

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「(誰からも)愛される子」であって欲しいと願って親がその子供に「愛子」と名付ける場合が多いだろう。

「愛」という漢字の成り立ちは、頭を一生懸命巡らせる人の象形と心臓の象形と足の象形の組み合わせだそうだ。


(出典:OK漢字/漢和/語源辞典)

つまり、相手のために心を巡らせその気持ちを相手に運ぶ、意味となるとのこと。従って、その意味における用法は、「愛する」「愛(め)でる」という具合に能動的に用いる。したがって、「愛される」という受動的な意味はその漢字の語源にはない。

「愛される」客体としての私よりも、他者を「愛する」ことができるという主体として私が、「(誰をも)愛する子」なのかもしれない。見返りも求めないその最たる「愛」は母親が自分の子供に対していだく強い愛(母性愛)だろう。

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では「『愛国』の『愛』とはどういう意味ですか?」と学生に問うたら、百人が百人こう答えるだろう。「国を『愛する』ことです」と。

この答えでの「国」とは自国のこと。つまり「自国を愛する」となる。近頃、民放のバラエティ番組で氾濫している「日本国って素晴らしい」という自国愛の過剰なまでの強調は、他面、排外主義に裏打ちされている。隣国・他民族(の人々)を下に見ることによって(他よりも)「素晴らしい」と言うことは、一種、自惚れた自愛である。「自愛」には、自分の利益を大事にすること、利己、という意味がある。自己保存や自己の幸福を求める意味もあるが、過ぎると自己陶酔に陥る。

しかし、「愛」そのものの意味は、他者を「愛する」ことができるという主体として私である。他者とは世界中の国々と人々であろう。もし「愛国」をその意味で理解しようとすれば、内外を問わずすべての人を平等に愛することができる私が前提であれば自然、我々もこの国もそれらの人々から愛されるということになる。わが国の平和主義外交の基調は「全方位外交」「善隣友好外交」とかつて呼ばれていた。憲法の平和主義の理念を灯台とした外交を繰り広げ、国際社会における日本国の存在意義を高めていた時期があった。ところが、そうやって積み上げて来た意義をかなぐり捨てて、世界中のどの国とも変わらない戦争のできる「普通の国」に率先してなろうとしているのが安倍政権である。「押し付け」であろうと、他のどの国も欲しくても得られない平和主義なる奇貨を憲法に得た日本国が、その奇貨を捨てようとしているわけである。「愛する」に代えて「憎む」を主体とする私は、やはり他からも憎まれる客体にしかなり得ない。武力をちらつかせながら外交を行うしかなくなるということだ。

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人を敬い,また人を愛するということは、非常に大切なことではないかと思います。そしてこの子供にも,この孟子の言葉にあるように、人を敬い、人からも敬われ、人を愛し、人からも愛される、そのように育ってほしいという私たちの願いが、この名前には込められております(皇太子殿下会見・平成14年)。

「愛子」と名付けた内親王には、他者を「愛する」ことができるという主体としての私であって欲しいという願いが託されている。天皇が日本国の憲法上の象徴であるからには、「愛国」も同じく憲法が高らかに謳っている平和主義を以て、内外を問わずすべての人を平等に愛することができる私・日本国であることを願いたい。だからこそ、「大和心・やまとのこころ」などと偏狭且つ他者を差別するような自己愛であってはならない筈だ。「大和心・やまとのこころ」を是とする明治憲法やら「神の国」などを「日本を取り戻す(日本主義)」などと言って恋い焦がれる首相は、現憲法の下では居てもらっては困るのである(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。

現憲法を「みっともない」と平気で蔑む安倍首相。憲法に縛られるべき立場の者が憲法を縛りにかかる(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)。憲法を「新興宗教」と言い、憲法を守ることを、「新興宗教」に毒されることと喩える与党議員(稲田朋美衆議院議員・自民)(拙稿「憲法という新興宗教(稲田朋美衆議院議員・自民)」)。

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いくら現実主義だからと、憲法に掲げた平和主義の理念を我々国民はあきらめるわけにはいかない。人類にとって未だ達成し得ない崇高な理念を憲法で追及する世界でも稀有な国であり、その使命を課せられている我々であることを逆に誇りに思わなくてはならない。世界の多くの国のように武力主義の「普通の国」になるのは簡単なこと。誇りにも何もならない。

憲法に掲げた平和主義の理念は、戦死者がその命に代えてこの世に託した遺言でもある(拙稿「憲法は戦死者の遺言(俳優 鈴木瑞穂氏)」)。

「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」がいかに、こころなき引用か。戦死者の遺言を踏みにじることか。憤る。

(おわり)


posted by ihagee at 01:57| 政治