2019年01月25日

やまとのこころ



政府や政治家と結びつき特権的な利益を得る、すなわち、政商。

福島県会津若松市の老舗「末廣酒造」が醸造した日本酒「やまとのこころ」

長州(山口)の米(安倍明恵プロデュース)を会津で酒に仕込み、ダボス会議に合わせてスイス・ダボスで開かれた日本の食文化紹介イベント「ジャパン・ナイト」で安倍首相自らが宣伝し酒宴を催した(日刊ゲンダイDIGITAL記事)。

魔力を政治に借りるか?それも「長州」の。贔屓の引き倒しとならぬか、要らぬ心配をする。

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やまとのこころ、
「やまと」とは「瑞穂(みずほ)」「大八洲国 ( おおやしまぐに )」と並んで、日本国の美称だが、その言葉に付随する「あるべき民族観」は明治維新に「薩長土肥」を中心とした藩閥によって作られ、その通り、「やまと」=錦の御旗の下に、朝敵として滅ぼされたのが会津藩であった。そして、第一次政権時、福島第一原発の津波、冷却機能喪失対策の必要性を否定した張本人が安倍首相であり、結果は甚大な原発事故に至った。その原発事故すら「アンダーコントロール」と過少化しさらには踏み台にして東京オリンピックを招致した。それが「美しい国」なのだそうだ。安倍首相なりのあらたなこの国の美称である。

ここまで踏みつけられて、「なぜ?」としか言いようがない。

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「信念の魔力」(拙稿「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」)と満州国の政商だった曽祖父は書き遺した。結局は人の心に宿すものだ、私はそう理解する。長い時間の経過と積み上げた歴史が魂(こころ)となり、信念となって必然と働きかけるゆえの魔力である。

「かつて長州の酒米を会津の酒屋が使うことはあり得なかった」(安倍首相)は、歴史観についてのご都合なワンポイントのショートカットであり、なぜ「あり得ない」ことなのか深く考えることもなく、女房殿との一時の話題作りのために、政治でサラリと「あり」にしてしまう。「やまとのこころ」のこころとは、他者のこころの痛みやわだかまりを知らぬこころなのか・・

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((政府は)「確認せず」がやまとのこころなのか・・)

こころの痛みやわだかまり、一つは福島、そして一つは沖縄 ・・・「緑の地球、青い海のため投資する(安倍首相・ダボス会議)」といいながら、辺野古の青い海に嘘をつき土を投げ入れる。そのこころが「やまとのこころ」なのか・・

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そんな浅はかで浅ましいこころからは、信念も魔力も生まれまい。仏作って魂入れず、ただの木偶である。本当にこころというものがあるのなら何を今直ちにすべきか答えは明瞭である。老舗の酒蔵などではなく、福島の子供たち一人一人のいのちに手を差し伸べるべきだろう。沖縄のために米国と向かい合うべきであろう。オリンピックだ、万博だ、カジノだなどとは「こころあらば」ならないはずだ。

私の家祖は会津。戸籍上の身分まで剥奪され、追われた先の斗南・函館で粒々辛苦を重ねた。郷関を片時も忘れぬようにと、若い頃、苦学し下駄の鼻緒をすげて磨り減った歯を祖父は生涯治さなかった。その先祖を「下駄に踏まれた会奸」と蔑んだのは他ならぬ長州である。

「やまとのこころ」、「巴(ともゑ)の酒」ほど、美味くはあるまい。

(おわり)

posted by ihagee at 04:13| 日記