2019年01月18日

約束と正義



日韓関係が悪化している。と言っても個人と個人の関係ではなく国家間の関係に於いて互いの国の政治が媒介している。

従軍慰安婦・徴用工問題では「国家間の約束を守らない国」としてわが国の報道メディアの論調は韓国に非があるということで一致しているようだ。こういう時こそ、相手の国のメディアの論調に耳を貸す必要がある。「天は一枚の舌と二個の耳とを人間に與えた。」である。

"一枚の舌に対して二つの耳、それ故に君がしゃべる分量の二倍聞け。 Two ears to one tongue, therefore hear
twice as much as you speak. (拙稿「一枚の舌と二個の耳」)"

中指(怒を掌る)を圧迫し黙って先ずは相手の言い分を聞いてみることだ。

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そして、2019年1月4日付中央日報/日本語版(ユン・ソルヨン/東京特派員)記事が目に入った。
【グローバルアイ】約束を守る国・日本、正義が重要な国・韓国

「約束を守る国」なる日本を象徴的にあらわす話として、昨年10月、福岡で開かれた実業団駅伝マラソン大会でのある場面が引用されていた。競技途中で骨折出血し到底走れる状況でなくなったにも関わらず、棄権せず四つん這いで次の走者に襷を渡した女子選手についてである。選手生命にも関わると選手の所属するチーム(岩谷産業)の監督は大会役員に「止めてくれ」と告げたが、本人の意思でしか棄権は認められず、この選手は襷を渡すという「約束」を完徹した。

『原監督は「これはもう、駅伝の光と影を見ましたよね」と切り出し「やっぱり仲間の絆。これを、たすきが渡らなかったら次の走者は失格になりますからね。影のほう『ここまでやらなきゃいけないのか!』というようなね。視聴者の方も感じた方もいらっしゃると思いますけど。でもこれが駅伝なんですよね」と語った。』
(出典:青学大・原監督「駅伝の光と影を見た」 女子駅伝アクシデントに言及(サンケイスポーツ) - goo ニュース)

光=絆/約束、影=犠牲。仲間の絆・約束を守ることは時として自らを犠牲にすることでもある。ドラマを感じ美しいと思う人もいれば、美談するべき話ではないすぐに止めなくてはならないと思う人もいる。が、おそらく多くの日本人は「でもこれが駅伝」とドラマを感じることだろう。

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「約束を守る国・日本」のその約束観は「仲間の絆」にある。東日本大震災直後に「絆(きずな)」という言葉が世の中に氾濫した。その主体は国民であり客体は明らかに仲間の総体たる日本国だった。

犬や馬など動物を繋ぎとめておく綱を絆し(ほだし)と言う。だから、この「絆(きずな)」という言葉が言霊であるなら、我々は犬や馬のように繋ぎ止めて置かれるということになる。国家という頸木に繋がれる意識は連帯感・共感・同情として大震災後の国民相互の助け合いに必要だということだった。



そして、直後「絆(きずな)」は一人歩きを始める。



国家への忠義という「大義」に国民は繋がれるべき存在であると、個人は自ずと存在せず国家との相対関係によってのみ人として存在すべきだとする改憲案を持つ、自由民主党が政権を担っている。(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)

この考えに従えば、自らの犠牲も顧みず約束を守った「人」として、上述の話は「美談」以外にあり得ない。駅伝を戦争に置き換えたら、犠牲は美化される。

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一旦交わした国と国の間の約束は何としても守れ、と約束を守ろうとしない韓国を日本は非難する。この約束が「仲間の絆」でその絆を相手は破った、ゆえにもはや仲間ではない。ということなのだろう。

その義が何であれ一旦決まったことであれば「真心を尽くして仕える」精神を「至誠」と座右の銘とする安倍晋三氏であれば、至誠を示さない韓国は非難に値するということだ。(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)

彼ら韓国人も我々と同じ「大義」に繋がれているのならそうだろう。「大義」と彼らを繋いだ時代もあった(大日本帝国が大韓帝国を併合し支配下に置いた時代)。そして、今は米国を中心とする安全保障上の日米韓の同盟関係である。その限りに於いてこの論理は正しいのだろう(私はそう考えないが)。

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しかし、「正義が重要な国・韓国」であれば、韓国は我々が思うようには「至誠」を理解しない。

「正義」は儒教の用語。「正利にして為す、之を事と謂い、正義にして為す、之を行と謂ふ」と『荀子』では「正名」に関連して正義が言及されている。

儒教の政治哲学における正義概念を展開しているのが韓国である。ひとつひとつの事物と行為はそれにふさわしい名称と一致させることであるが「正名」であり、それが社会全体の「道」となる。「道(正名)」が定まって初めてその道に「礼」を払う、ここに「正義」が生まれるという、プロセスである。漢族と満州族、そして日本との関係で征服・植民・統合の憂目にあってきた朝鮮民族にとって、「道(正名)」は人倫上の地位に固有の本分が履行されることであって、君・臣とか父・子という関係が変われば都度、「道(正名)」を求め、事実、政権が変わる度に「道(正名)」が改まるを繰り返している。

万世一系の天皇の下に単一民族(本当はそうでないが)として海を以って界としてきたわが国において、「道」は「神道(一般民衆にとっては八百万神)」なる絶対であった。長く相対化させられるような外因がなかったからである(戦後レジームとは主に米国との相対化)。「天祖無ければ国民無く、家長無ければ家族立たず、敬神の念・祭祀の禮は我が国民道徳の根抵なり」と、君・臣とか父・子という関係は千年変わらず、「大義」に当然の如く「正義」が含まれてきた。その絶対正義の旗印が錦の御旗であり、それを掲げて天子(絶対君主)に叛逆する者(朝敵)を征討するは、安倍政権のバックボーンたる日本会議のテーゼであり、我々も知らずして「絆(きずな)」という言葉の内に、絶対的なるものへの帰属意識を受け入れている。錦の御旗は星条旗に代わり、正義もそれに準じ、ゆえに、正義云々とその旗の絶対性を疑ってかかるよりも、「約束を守る」ことが美徳であると我々は思うのである。日米安保に代表される戦後レジームがそれであり、憲法第9条に代表される平和主義を「約束を守る」ことにおいて邪魔な徒花とみなすのが安倍政権である。安倍総理の繰り言である「戦後レジームからの脱却」は平和主義からの脱却であっても、決して日米安保体制からの脱却ではなく、むしろ「戦後レジームの深化」でもある。その中で古色蒼然たる「大義と至誠」を日本民族の精神性として残そうとする、内なるレジームがあるという陽羨鵞籠的摩訶不思議さである。

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「正義」という言葉は、欧米の"justice"なる概念に相当する訳語として現れたものでもある。

「正義」のイコンとして正義の女神(ユースティティア)がある。ユースティティア(Jūstitia)つまり、 justiceの語源となっているこのイコンは銅像となって裁判所などに置かれているが、その通り「正義」が象徴化されている。

正義の女神(ユースティティア)は手に「正邪を測る天秤」を持つ。つまり、正邪は常に天秤に載せられ衡量(adjust)されるということだ。そして剣は「力」を象徴し、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力(パンセ)」となる。英米法系の判例法主義でもある。




「正義とは、己れにふさわしきものを所有し、己れにふさわしきように行為することなり。」(プラトン 「国家」)と、やはり、常に求めることである点で、「仲間の絆」といった「仲間」も「絆し」も存在しない。わが国が「約束を守る」ことを社会の基本とするのは、この天秤のない成文法主義の法体系にあるからだ。

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韓国も成文法主義にあるが、その儒教的政治概念ゆえに「道(正名)」は改まるを繰り返している。彼らにとっての摂理なのである。これは我々がどんなに否定しようが、朝鮮民族の遺伝子であれば仕方ない。そして、星条旗なる御旗に正義があるのかと、文在寅(ムン・ジェイン)政権は米政権と距離を置き始めている。米国と共通の価値観を有すると壮語してやまない安倍政権とは対照的である。

「約束」と「正義」、このままでは折り合うことはない。「正邪を測る天秤」は国際社会では正義であっても、この女神が絶対普遍な約束をもたらすものではない。絶対普遍な約束とは「正邪」も存在しない自然の摂理でしかないからだ。

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珊瑚は光を食べるという。その食べた光でコロニーを形成し多くの生き物たちのサンクチュアリーとなっている。「正邪」も存在しないこの自然の摂理こそ美しい。その影一つない光の世界に土を放り込んで闇にすることは、自然への冒涜であると、ローラさんは訴えている。米国と価値観(正義)を共有するという「約束」云々の政治に彼女は意見しているのではない。自然が与えた珊瑚の生存理由を徒らに奪う行為に反対しているのである。

「珊瑚は移植した」などと、嘘までついて守る「約束」のどこに正義があるというのだろうか?

その「約束」が果たして正義に値するものであるのか?と「道(正名)」を求め直している韓国の試行錯誤ぶりを笑ったり、節操がないと嘲ってはならない。この先に現れる正義は予定調和的な「お約束の正義」よりもよほど実を伴っているかもしれないからだ。

「お約束」だからと珊瑚にまで嘘をついて正義ぶる方がよほど悲しい存在ではないのか?日米安保条約がその「約束」で疑うことなき「正義」とかざして、自国民を虐げる(自治権を奪う)、それでも「約束を守る」ことが大切だと言う。件の駅伝の話で言えば、いくら次の選手に襷を渡すことが約束であっても、選手生命を心配して「止めてくれ」と訴えた監督の方が余程、正義がある。もし、二度と走れない体になったら取り返しがつかない。そんな体と引き換えても走り通すことが約束ならその約束の「正邪」を問い直すことである。

だから、たかが珊瑚と言うなかれ、珊瑚を我々国民の生命財産に置き換えてみれば、どんなことを意味しているか・・。ローラさんはそこまで言わないが、そこまで思いを至すのは戦中世代を親に持つ者たちの洞察でなければならない。94,000人もの一般市民が沖縄戦で犠牲になった。その人々の灰が珊瑚となって海の中で結晶しているように思えてならない。その上に土を投げることの意味である。

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我々も韓国に対しては「正邪を測る天秤」つまり「互いの話し合い」で折り合う寛容さが必要だろう。頑なに大義名分に拘り結果として、大怪我(軍事的紛争)となれば取り返しがつかない。マスコミの嫌韓煽動に乗ることなく、「止めろ」と政治に自制を促すべきである。それが大人の国家としての矜持ではないかと思う。

その意味で、中央日報の棘のない冷静な観察眼には考えさせられた。

(おわり)

posted by ihagee at 10:28| 政治