みなさんもそうだろうが、YahooやGoogleのポータルニュースに目を通すのが日課となっている。
しかし、ここ数年、政権寄りの記事ばかりが目につく。その政権寄りも時として是々非々ならまだしも、是ばかりである。是ばかりの記事は産経系(産経新聞・FNN PRIME・夕刊フジ(zakzak)等々)に占められている。無料記事が多いゆえか、掲載閲覧ランク(アクセス・コメント)ではいつも上位である。
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一つの公的な主題については大概、異なる立場の意見がある。私が社会人になりたての頃、先輩諸氏からUSA Today(英字)のディベート記事を読むように言われたが、紙面で異論を対等な条件でたたかわせ読者に判断を委ねることが、民主主義の討論だと判った。
こういった記事ではどちらかの意見に傾斜した伝え方はしない。読者の見識を信頼するからである。
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ところが、上述のポータルサイトで最も目につく産経系の記事はどれもそうではない。ある方向に常に読み手の意識を傾斜・陽動させるレトリックが巧妙に散りばめられ、異なる意見が存在することを伝えるよりも、異なる意見があること自体を問題視する。つまり、「みんなそう思っている・そう思わない方がおかしい」と民族主義的な同調バイアスを高めることに主眼が置かれている。無料記事をポータルサイトに氾濫させることで多数者(みんな)を装う。大勢を繕って体制に従わない方がおかしいとの意識を醸成する。それも無批判無定見な迎合である。コメント欄はこの野次馬的迎合者で荒れ放題である。差別を焚きつけ、コメント欄で差別の煽動を許すのも、記事の狙いだとすれば由々しき事である。差別のためには常に誹謗中傷する相手(韓国や中国、そして沖縄)を用意する。曰く、「彼らが悪い」。個人的には何の恨みつらみもない人々を平気で罵倒するヤカラも増える。同じ国民でありながら非国民と侮蔑する空気を生む。
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「テレビの偏向報道を監視する団体、放送法遵守を求める視聴者の会(放送法遵守を求める視聴者の会)」というのがある。一見、公正中立な報道を求める団体かと錯覚する。しかし、放送法(倫理)と電波法(総務省の許認可権限)を盾に、報道機関の本来あるべき使命(権力を監視すること)を弱め、表現報道の自由・(国民の)知る権利に箍をかけることがこの会の活動の本旨であるとしか私には思えない。
産経新聞に「阿比留瑠比の極言御免」なる連載記事があるが、権力を監視することは報道機関の本分ではないと結論付けている(「反権力がマスコミの本分なのか 岸井成格氏らが「真実を伝え、権力を監視する姿勢を貫く」と豪語する違和感」)。曰く、事実を可能な限り客観的に伝えることこそ使命であって、権力を監視する姿勢はその結果に過ぎないからだそうだ。
『少なくとも「真実はわれにあり」とばかりの上から目線で権力を監視することや、とにかく反権力の姿勢をとることがジャーナリズムの本分だとは思えない。(阿比留氏)』と言うが、「事実を可能な限り客観的に伝える」との使命は果たして、産経新聞記事にあるのだろうか?
その「事実」にハーフトゥルーズの世界を持ち込むことが最も多いのはその産経新聞でもある。
「報道機関を名乗る資格はない」「無慈悲な連中だ」「日本人として恥だ」など悪意を含む棘(ヘイト)を散りばめた記事のどこに、「事実を可能な限り客観的に伝える」全体があると言うのだろうか?(沖縄県内で起きた交通事故(昨年12月9日)をめぐり、産経新聞が「米兵が日本人を救出した」と伝え、米兵の行為を報じなかったとして地元紙の沖縄タイムスと琉球新報を「報道機関を名乗る資格はない」と批判した記事・後に産経側に事実誤認があったと判明)。(拙稿「棘(ヘイト)を必要としない記者の目」)
棘(ヘイト)を必要としない記者の目こそ必要とされるべきで、その目は棘(ヘイト)に向けられるべきである。事実上の移民法である「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案」など、差別主義的政策が目立つ現政権のその差別の棘に目を向けることが、どうして「反権力」となるのか?権力云々ではない、人権の立場でモノを言うことである。一人の人間として。
そして、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶体に腐敗する(ジョン・アクトン)」という過去の経験(歴史)から帰納した普遍則は、権力はいつの時代にも監視されるべき対象であることを示している。その絶体的な腐敗は安倍長期政権も逃れようがない。腐敗を監視する主体は国民であり国民の知る権利の行使である。「上から目線で(阿比留氏)」は「偉そうに・格好つけて」と言いたいのだろう。憲法で保証されている国民の知る権利の行使に「上から目線」か否かは全く関係ない。当然の権利の行使がなぜ「反権力の姿勢」なのか?当然と権力を監視する姿勢を、あたかも政治権力そのものを否定する無政府主義者のごとく「反権力の姿勢」と括りあげ、「上から目線で」と論旨とは関係のない主観を混ぜ込むのはこの阿比留氏一流の印象操作且つ棘話法である。「反権力の姿勢」なるレッテル貼りは「反社会分子・非国民」なるいわれなき差別主義(差別を助長するような全体の空気)に発展する。「こんな人たちには負けない」と国家に意見する国民に指を突き立てる為政者を誕生させる。

治安維持法の下で差別主義が横行した歴史(個の思想信条の自由を奪取し、国体なる全体主義にまとめ上げる)を忘れてはならない。その先は「進め一億火の玉だ」と戦争である。「一億◯◯」なるスローガンを次々と掲げる現政権にその兆しはある。
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ゆえに『「真実はわれにあり」とばかりに(阿比留氏)』も、間違った言い方である。真実は「われにあり」か否かではなく、政治権力に嘘偽りがないかを常にチェックする(ファクトチェック)「われ」と言うべきである。その「われ」が国民一人一人でありその国民の知る権利の側に立つ報道機関という意味である。したがって、阿比留氏が言うような、政治権力の存在を否定し、エゴイズムや独善を気取る「われ」とはイコールではないのである。
『少なくとも「真実はわれにあり」とばかりの上から目線で権力を監視することや、とにかく反権力の姿勢をとる』との言い方はあたかも政治権力の存在を否定し、エゴイズムや独善を気取る「われ」と錯覚させる。これも阿比留氏一流の印象操作且つ棘話法である。社会的立場や身分まで侵されながら、岸井成格氏はそんなお気軽なポーズをしていたのではなく、ひたすら報道の自由・国民の知る権利を追求していたのである。
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その国民の知る権利の側に報道機関はある筈だ。だから、阿比留氏の「(報道機関は)権力を監視することが本分ではない」は全くの誤りである。この「権力は腐敗する」という普遍則に目を向けずして何を以って報道機関の使命・本分と言うのだろうか?
「権力は腐敗する」は例外なき普遍則である。しかし、これを否定する者がいる。独裁や絶体的権力を待望する者にとって「腐敗」は辞書に存在しないのであろう。不都合な歴史事実もサラッとなかったことに修正してしまう歴史修正主義者でもある。その者の行動パターンに共通するのは、「あらかじめ決めていた結論に一部分の事実をはめ込み、逆にその結論と矛盾する事実はすべて無視し」「小さな誤認や食い違いを、歴史をひっくり返す大発見とはやし」「当時は不可能だった対応がなかったのはそれがなかった証拠とし」「相手には厳密な証明を求めるのに、自分の意見には因果関係を証明せず、ハーフトゥルーズの世界をつくりあげる」(滝川義人氏指摘)だそうだが、明確な根拠も示さず何かと「民主党時代は・・」とあげつらったり、従軍慰安婦や南京虐殺について「小さな誤認や食い違い」を持ち込んで、全否定=最初からなかったことにするのもこの行動パターンである。
そういう者に限って、数値が間違っているなどと言うが、では、一体、何人を以って線引きをしようと言うのか!百人以下なら慰安婦にしたり虐殺したりしても不問とでも言うのか!百人だろうと千人だろうと人権を蹂躙した事実は動かしようがない。人権とは人数の多寡に比例するものではない、一人であろうと人権であり、ひと一人に対する人権蹂躙とてその人にとっては悲劇でしかない。
先年も、「あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」との都立横網町公園(墨田区)にある関東大震災碑文の六千余名という数を「根拠が希薄(古賀俊昭都議(自民))」として、小池知事が、都立横網町公園(墨田区)で9月1日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったが、これも、「小さな誤認や食い違い」を持ち込んで、全否定=最初からなかったことにする行動パターンである。
この行動パターンが国際社会でも通用するかと勘違いし、サンフランシスコ市議会で慰安婦像設置に関する公聴会にまで押し寄せて、元慰安婦の女性を名指して「従軍慰安婦は全て捏造だ。あの売春婦は嘘つきだ」と叫んだ日本人がいた。
カンポス市議は「恥を知れ Shame on you!」と四度繰り返した。「自分たちが過去の事実を否定していることに。ここにおられるリーおばさんに個人攻撃を行ったことに。日本政府が事実否定に加担していれば、二重の悪意であり、加害した上に侮辱しているのですから。」
こんな馬鹿げた行動は、恥以外の何ものでもない。先ず以って恥を知るべきことである。
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そして権力側が公文書や統計上の事実まで自ら改竄してしまえば、「事実を可能な限り客観的に伝える」という前提すら成り立たない。安倍政権下では「事実」が虚飾・粉飾・改ざんされてきた。だからこそ、権力を監視することは報道機関の使命・本分である必要がある。安倍政権であれば尚更。
虚飾・粉飾・改ざんされた「事実」なるものを疑いもせずに伝える姿勢(いわゆる「大本営発表」)こそ大問題であろう。繰り返すが、阿比留氏の「(報道機関は)権力を監視することが本分ではない」は全くの誤りである。
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YahooやGoogleのポータルニュースに目を通すと同時に、外電にも目を通して欲しい。Googleの自動翻訳を使えば、それなりに日本語で外側から見た我が国の有様が見えてくる。立ち位置を変えて自らを客観視する習慣をつけなくてはならない。(拙稿「立ち位置を知ること」)
我々日本人・日本国がいかに国際社会で語られていないか知るだろう。「日本人って凄い、日本国って素晴らしい」のテレビでの連日の大唱和も、一歩日本の外に出れば聞こえない。まさに井の中の蛙の鳴き競いである。どの国にも凄い人はいるし、素晴らしい場所もある。それだけの事だ。優劣などつけようがない。
国際社会で共有する問題(特に人権)や課題を知り、受け売りではない自分なりの見識・立ち位置を持つ事。スマホの落し物ゲームに没頭し、バラエティ・芸能ネタにうつつを抜かして、気づかぬうちに死んでたなんていう事にもなりかねない(「奇譚「黄泉交通」(その1)」)。
(おわり)
追記:
JOC竹田会長 五輪招致で汚職に関与容疑でフランスで(刑事訴追に向けた)捜査開始とフランス・ルモンド紙が速報。オリンピックに暗雲。
フランス司法当局の捜査は数年来続いており、ルモンド紙の速報はその最終段階(刑事訴追に向けた)に移ったことを意味している。(拙稿「東京、リオ五輪で買収と結論 (英ガーディアン紙報道)」「違和感が現実になる」)
再追記:
年初6日に放送されたNHKの『日曜討論』で安倍総理大臣は辺野古の新基地建設工事について、「いま、土砂が投入されている映像がございましたが、土砂を投入していくにあたってですね、あそこのサンゴについては、移しております」と発言。事前収録であったにもかかわらず、NHKはファクトチェックを行わずそのまま放送した。そして、その言葉と事実が異なることは現場の検証(沖縄県)および防衛省の見解(移植したサンゴ9群体はすべて埋め立て区域に隣接する別区域にあったこと)から判明。NHK、官邸ともに総理の発言を訂正する気配は一切ない。
『日曜討論』と番組名を掲げておきながら、安倍総理に一方的に喋ることを許す番組進行は「討論(ディベート)」の体をなしておらず、そもそも「討論」番組ではない。事前収録であれば『日曜討論』ではなく、『総理は語る』と別枠にすべきである。その場の「討論」に安倍総理が参加しないのだから。そして、件の発言のように、虚飾・粉飾・改ざんされた「事実」であっても報道機関はそのまま垂れ流し、さらにそれが事実でないと判明した後も一切訂正しない。
権力を監視することは報道機関の本分ではない・事実を可能な限り客観的に伝えることこそ使命であって、権力を監視する姿勢はその結果に過ぎない、と産経新聞・阿比留氏は言う。
そう考えるからこそ、こういうことが許される。すなわち、NHKは自己の使命・本分さえ否定しただの政権広報機関(大本営)と化す。そのNHKにわれわれは受信料なる税金(強制的)を納めている。憲法の保証する国民の知る権利に背を向け、事前のファクトチェックを怠り、事実でない内容を放送し、事後のファクトチェックもしない(権力を監視する姿勢はその結果に過ぎない、ゆえに、「結果に過ぎない姿勢」ならば示さなくても良いとなる)、剰え「事実か確認せず放送しました」と素直に認めることも、「事実ではありませんでした」と訂正することもしないのであればこれは視聴者(NHKに高額な受信料を払わされているほぼ全ての国民)に対する詐欺行為である。
再々追記:
安倍総理大臣はスピーチライターによる予稿やカンペのないその場での質疑や対話・討論ができないのではないか?と疑念を持つ。国会での質疑応答は質問に沿った受け答えができず、関係のない言葉を連ね一方的に喋り、テレビ番組に出演してもほぼ独演会の様相。記者会見に臨んでも、記者からの質問には常に手元のペーパーに目を落とし読み上げることに腐心している(事前に質疑応答集がある)。外遊先でも日本人記者からの質問には予稿とカンペで対応できても、事前に質問内容を知らせない外国人記者からの質問には正しく応答することができない(通訳を介しても)。メイ英首相との共同記者会見、ルッテ蘭首相との共同記者会見での危うい場面を外電で知る。両首脳および同地の記者たちはさぞ驚いたことだろう。トランプもプーチンも目を上げたまま相手の質問にその場で自分の言葉で応える能力を持っているのに。国際社会で立ち位置を見失っているのはこの人ではないのか?この人とともに日本という国は国際社会の中でスルーされていくのではないか?「違和感が現実になる」ことを真剣に懸念する。
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