2019年01月07日

「瑞穂(みずほ)」考






「瑞穂は良き名だったが、沈没したから再び艦の名前には名づけられぬな」と昭和天皇は語った(城英一郎日記159頁『(昭和17年)五月二〇日(水)晴』)。

この「瑞穂」とは太平洋戦争における日本の「軍艦瑞穂」のことであり、同戦争で最初に撃沈された「戦没軍艦第一号」でもある。

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みずみずしい稲穂を「瑞穂」と言う。稲が多く取れることから瑞穂の実る国ということで、「瑞穂国」(みずほのくに)、「豊葦原千五百秋水穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)が日本国の美称としても使われる。

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日本国の美称は他に「ヤマト」「大八洲国 ( おおやしまぐに )」もあるが、その美称たる所以はアマテラスの命を受け、三種の神器を携え、多くの神々を率いて高千穂に降った天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を先祖とする皇室を宗家とし誇りとなすべく仰ぎ奉る日本民族観にある。この民族観は明治維新を機に支配者(藩閥)が考え出した「あるべき民族観」である。江戸時代にはこのような民族観は少なくとも庶民の間には存在していなかった。

歴史学者喜田貞吉は大正8年に著した「民族と歴史 第一巻第一号」の中で『我が「日本民族」は、実に天津神の後裔たる天孫民族と、これに同化融合した国津神の後裔とが、相倚り相結んで成立した』のであって『新附の諸民族といえども・・・我らの祖先がかつて為なしたと同じ様に、決してこれを疎外虐待することなく、温情を以てこれを抱容し、これを同化融合せしむべきものと信じる』と述べている。これが大正8年当時、庶民に膾炙固着された日本民族観なのかもしれない。日露戦争終結後の日本を含めアジア諸国の国際的緊張関係が緩和・融和に向かった時勢に沿ってなぞったに過ぎないのかもしれない。

しかし昭和となって「殺戮をこれ能事となし、敵を滅ぼすを以て目的となし給うというが如きことは、古史の決して言わざるところ(喜田貞吉)」の言わざるところをまさに目的とした軍艦に「瑞穂」を含め「大和」、「八島」など日本国の美称を以て命名する時代が到来した。「瑞穂は良き名だったが、沈没したから再び艦の名前には名づけられぬな」は、昭和天皇なりに、古史の決して言わざるところに「瑞穂」と名づけることに内心抵抗があったとも受け取れなくはない。しかし「殺戮をこれ能事となし、敵を滅ぼすを以て目的となし給う」となることが明白な開戦の詔勅を発したのもその天皇自身である。




戦後、昭和天皇は現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定し人間を宣言したが、これは支配者(藩閥)が考え出した天皇を神格化した上での「あるべき民族観」の否定でもあった。爾後、皇室は憲法上の象徴として、憲法の理念(不戦・平和主義)を願い、過去の「あるべき民族観」に断固として沿わない姿勢を貫いているのである。これが昭和天皇から引き継がれた皇室なりの先の戦争についての贖罪であり将来に亘っての皇室の務めなのだろう。2013年4月28日に政府主催でおこなわれた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で会場出席者及び安倍総理大臣から「天皇陛下万歳!」との三唱を受け、今上天皇が顔をこわばらせたのも、この政権が憲法とその理念すら曲げてあしらうことへの怒りであったと容易に推察できる。

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いずれにしても「戦没軍艦第一号」が「瑞穂」であることは何か因縁めいている。「瑞穂」とその言葉に付随する「あるべき民族観」は、太平洋戦争で真っ先に海の藻屑となったである。

しかし、今また新たに「瑞穂」が浮かび上がりつつある。

『日本という国は古来、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かちあいながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた、「瑞穂の国」であります。自立自助を基本とし、不幸にして誰かが病で倒れれば、村の人たちみんなでこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世間を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。』(安倍晋三・「新しい国へ 美しい国へ 完全版」より)

指摘するまでもなく、ここで「瑞穂の国」の引用はかつて支配者(藩閥)が考え出した「あるべき民族観」に限りなく引き寄せている。それでいて、村なるコミュニティや田畑なる社会資本を、経済原理で「いくら?」と値踏みしEPA、TPPや日米FTAといった巨大な市場主義に無防備に晒し、揚句、水道事業まで民営化し外資に供し、社会保障費を削っては武器調達に励む辺りは、どう上の言葉と整合をつけるつもりなのだろうか?美辞をこれでもかと並べるが、道義や真実のなさこそ、この人のDNAにしっかり組み込まれているのではないか?

神代の昔の「瑞穂の国」を、明治維新で付け足された民族観と切り離して、今別の言葉で言い換えるのであれば、「食料主権を守る国」であるべきだ。食料主権即ち、食料自給は国家の存立に関わる安全保障の要である。その要を「強欲を原動力とするような資本主義」に預け、他国から安定輸入し国民を飢えさせなければ良い、などと言い放つ政治は、ある意味国家の主権を放棄するに等しい愚昧である。

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学校法人森友学園(籠池泰典理事長・当時)の「瑞穂の國記念小學院」(未開校)は、当初、「安倍晋三記念小学校」と命名するつもりだった。「安倍晋三」を「瑞穂の國」と置き換えただけだが、その学園の教育方針の柱には、かつて支配者(藩閥)が考え出した「あるべき民族観」が掲げられ教育勅語を範としていた(拙稿「我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について)」)。

当の安倍氏は「まだ現役の政治家である以上、私の名前を冠にするのはふさわしくない。私が死んだ後であればまた別だけれど、私の郷土の先輩である、例えば吉田松陰先生の名前をつけられたらどうかという話をした」とされる。つまり、「安倍晋三」=「瑞穂の國」=「吉田松陰」が同義であり、その共通項はかつて支配者(藩閥)が考え出した「あるべき民族観」で一つに括られる国家>国民という図式である(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。吉田松陰に発する「敬神崇祖の至誠」が国民性の本源とみなす精神主義は「日本主義」(正確には「大日本主義」)である。「天祖無ければ国民無く、家長無ければ家族立たず、敬神の念・祭祀の禮は我が国民道徳の根抵なり」となる(当山春三著『神宮大麻と国民性』より)。

そしてこの延長線に
『国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!』(自民党憲法改正草案について片山さつき議員のツイッターでの投稿)が出てくる。

現行憲法に縛られるべき国会議員が、憲法で明確な天賦人権論を擁護しないばかりか否定することは、憲法尊重擁護の義務(憲法第99条)にも違反する。「義務は果たさなくていいと思ってしまうような」というネガな印象操作の文言を加えるのもこの政権の閣僚らしい。(拙稿「<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)」)

憲法によって本来縛られるべきが「国家」であり「国家権力」であるのに、その憲法を改悪して、「国家」「国家権力」が「個人」の生存する権利を縛るという大転回(革命)を企てていることに他ならないだろう。クーデターと言っても決して過言ではない。

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食料自給を国家の当然の権利(主権)とすることをやめ、TPPなどの広域経済貿易協定によって他国から安定輸入し国民を飢えさせなければ良い、などと現政権は考えているのだろう。国民(消費者)の多くも関税がなく今よりも食料が安く入ってくるなら歓迎するかもしれない。

しかし、万一、他国からの輸入が様々な要因で不安定になればたちまち国民は飢えることになる。

また、他国から買えば良いといった「食料輸入」は裏返せば「飢餓輸出」でもある。なぜなら、世界の食料事情は潤沢どころか、飢餓人口は年々増大の一途。飢餓に苦しむ人々に本来まわすべき食料およびその生産耕地まで、日本が買い漁ることでもあるからだ。大量に他国から買っておきながら、大量に捨てる。「豚の餌になるから問題ない」などと言うなかれ。飢餓に苦しむ人は豚以下だと言うに等しい。後々捨てるような食料を地球の裏まで商社が買い漁って回ることは、翻って罪深いことだとそろそろ我々消費者も悟らなければならない。

わが国が捕鯨を行うことも然り。捕鯨でしか国民がタンパク源を得られない国ならとあれ我が国はそうではない。有限な海洋資源は本当にそれを日用の糧とせざるを得ない人々に優先されるべきであって、伝統技能や美食家の為にはない。

自由主義経済にあっても、食料自給は保護主義に当たらない。なぜなら、食料自給は国家の主権に関わるからである。その点は工業製品などと異なる。市場経済に徒に晒すことなく国家が保護し自給率を高めることは食料安全保障に期することでもある

将来、中国が買い漁り、日本が飢餓の輸出先にならないとも限らない。食料自給率を我々は次の国政選挙の争点とすべきだ

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「瑞穂国」や「豊葦原千五百秋水穂国」は古来より、この国に稲が豊かにみのりますようにとの祈りを込めた美称である。稲の収穫を祝い、豊穣を祈る宮中の新嘗祭に献上する献穀米はしたがって、各都道府県から選ばれた水田から収穫される。

「私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ・・(安倍晋三)」と変な言い回しをするあたり、近い将来、米まで市場開放する気だろう。それでもなおこの国に稲が豊かにみのることになるのか、「瑞穂国」であり続けることができるのか?何一つ説明できないこの人の頭の中は神世の昔と明治維新で藩閥が作り上げた民族観と資本主義がごちゃごちゃとなって、論理がめちゃくちゃである。つまり、自由な競争の結果は何一つ古来からの「瑞穂国」でなくなるのに、古来から受け継がれてきたDNAは同じだと言うのだから、自分でも何を言っているのかわからないのだろう。詭弁を弄するとはこのことだ。

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軍艦瑞穂が沈没した日の午後、昭和天皇は永野修身軍令部総長より奏上を受けた。天皇は「初めて大きな艦がやられたね」と述べたが、准士官以上7名、下士官兵94名が未収容/戦死した。同艦に三等整備兵曹として乗り組んでいたエッセイストの小林孝裕は、実数の戦死者は、報告のその三倍程度はあったと推測している(wikipediaより)。

<日本は戦力を放棄する。もう二度と戦争をしない、と書かれている。なぜこんなにやさしい言葉で、一人一人の人間に愛情を注げる憲法が生まれたのか。感動したというより、未知のものを見た驚きがありました。兵学校の2、3期上は戦地に赴き、無残に死んでいった。この憲法は、戦争で死んだ人たちの遺言に思えたのです>

俳優・鈴木瑞穂氏の言葉は重い(拙稿「憲法は戦死者の遺言(俳優 鈴木瑞穂氏)」)。この憲法は、戦争で死んだ人たちの遺言であると、人間宣言をした天皇も心したことだろう。

(おわり)

posted by ihagee at 18:25| 政治