2018年08月02日

「政治の低能化の証し(小林節 慶応大名誉教授)」続き



「政治の低能化の証し(小林節 慶応大名誉教授)」の続き。

法律の基礎知識すら備わっていない政治家が憲法を解釈する。安倍総理大臣のことだ。

〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

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安倍総理大臣は2015年2月18日の参院本会議で、同性婚について「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」と述べた。日本を元気にする会の松田公太氏が、同性婚を認めるには憲法第24条の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」との規定が問題となるかただしたのに対する答弁。

「総理大臣がそう言うのだから、杉田水脈議員のLGBT(性の多様性)についての疑問を掲げる発言は正しい」と言う人がいる。「総理大臣がそう言えば」憲法の解釈すら総理大臣に許す・・政治の低脳化はその低脳を支える国民の低脳の上に成り立つ。ひたすら「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と無定見に呪文のように唱え自己暗示にかかっていれば、その「美しい日本」の旗を振る安倍総理に絶対の信頼を寄せるのであろうが、それは無思考・思考停止でしかない。性の多様性の前提である個人の尊重やら個人主義など認められない・家族主義こそこの国の社会の単位であり、それが美風(後述)である。その単位は家族であり、その家族とは両性婚で且つ子供を産む(生産性)こと、というのが彼らのテーゼであり彼らの言う「美しい国」だそうだ。その「美しい国」は現行憲法なんかに縛られない・憲法の下の法治でなく安倍総理の下の人治が正しいと盲信する。「みっともない憲法」を縛りにかかる安倍総理は頼もしいとなる。愚かとしか言いようがない。

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「同性」および「(同性の)婚婚」について憲法第24条は書いていない。
条文に書いてあることからどう解釈すべきか?ということだ。

文理解釈(文言にある通り解釈する)では、先ず、「両性」および「(両性の)婚姻」と解釈されるだけ。素直に読んでそれで終われば越したことはないが、現実社会はそんな単純ではない。安倍総理の上述の答弁はそのレベル
(単純に考えただけ)ならまだしも、実質的理由(後述)から書いていない文言を付け加え解釈している節がある。つまり、「書いていないことは書いていない」と文言上形式的にしか言えないのに、「同性カップルの婚姻の成立を認めることは」と書いてない文言を付け加え実質的理由(否定する)から解釈しようとしているからだ。これは「私が解釈すればそれが憲法」なる横暴である。

拡張・縮小解釈(意味を広げたり・狭めたりして解釈する)では、そもそもこの条項の目的・趣旨に「同性」および「同性婚」は想定されていないので、立法時に想定されていた観点からはこの解釈はできない。しかし、法律が制定された歴史的経緯を探求したり,現在においてどのような機能を果たしているのかを検討すると、立法された時点と観点が大きく変わって、現時点の観点から解釈が必要な場合もある。性の多様性はその異なる観点となり得る。法律の目的ないし趣旨が,一つの方向だけの単純なものではないことの方が多い。

「両性」および「(両性の)婚姻」なる一つの方向だけの単純なものではない、からこそLGBT(性の多様性)が問われている。どのような理由で解釈問題が生じているのかを考えれば、「同性」および「(同性の)婚姻」も「両性」および「(両性の)婚姻」とバランスを取って解釈をすべきということだ(類推解釈・反対解釈)。性の多様性とは同性も両性も認め合うことであれば、両性と同性の利益はバランスを取るべきであろう。

だから、少なくとも「同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」ではなく「同性カップルの婚姻はもともとは想定されていないが、性の多様性の観点からすれば規定されていると解釈もできる」と安倍総理は答弁すべきであろう。性の多様性を認めることが自民党の党是である限り、また内閣の見解である限りは、性の多様性を認めることも観点とし解釈をしなければならない筈だ

性の多様性を認めることに条件をつける(生産性の観点)こと自体、杉田議員はつまり、党是に背いていることにもなる。自民党として杉田議員に対して処分を行わないことは全く理解できない。

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ものごとを単純化(二値化)し、他方を切り捨てる。安倍政権になってから政治ばかりでなく、法律の解釈についても認めたくない他方はそうやって切り捨て、条文に書いてなくとも、海外派兵・集団的自衛権のように認めたいことについては無理やり政治的解釈(実質的解釈)をする。

「家族が社会の単位」なるアナクロニズムに浸り、是枝監督の作品に描かれた「万引き家族」のような血縁関係にない疑似家族であっても、社会の単位として現実に存在する単位を認めようとしない安倍政権であれば、「同性」および「(同性の)婚姻」の家族を国家の成立単位とすることは到底認め難いのだろう。「万引き家族」とは「美しい国」なる復古主義的(後述)な虚構に対する明確なアンチテーゼであるが、換言すれば、「万引き家族」で描かれた血縁関係にない疑似家族も社会の単位とする多様性は国際社会において共有し得るテーゼである。国際社会がこの作品を高く評価したのも道理だ。それも現実社会だからだ。

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自民党が2012年にまとめた憲法改正草案の第24条に家族の互助を義務とする内容の第1項が新設されている。
その第1項は、
家族は社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない

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日本会議の主張するような「親学」=「家族が大事なんだ」から家族主義の美風→大政翼賛・国体思想、それを支える復古的な家庭教育が安倍政権の考え方の基本となっている(拙稿「<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)」。憲法改正草案の第24条にそれが反映されている。「社会の自然かつ基礎的な単位」という文言にあるように、「自然でない」とか「生産性がない」と「同性」および「(同性の)婚姻」を含む性の多様性(LGBT)に杉田水脈をはじめ次々と噛み付く者が現れるわけである。

家族が社会の単位とする以前に、個人が社会の単位であると憲法にははっきり書いてある(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。家族主義から、性の多様性(LGBT)に争う事自体がおかしい。

(おわり)
posted by ihagee at 03:22| 憲法