2018年08月01日

憲法という新興宗教(稲田朋美衆議院議員・自民)



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稲田朋美衆議院議員(自民)は、保守系団体「日本会議」の都内の支部の会合に出席(7/29)。自身のツイッターに、支部長を務める弁護士について「法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっている」と投稿した。

これに対してネット上で「国会議員の憲法擁護義務に反する」などと批判が殺到。翌30日までにコメントを削除した。

稲田氏は毎日新聞の取材に「ツイッターに書くにはあまりに“誤解”を招きやすいなと思う。憲法を否定するつもりはまったくない」と回答。(日刊ゲンダイデジタル・2018年7月31日より)

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「誤解を招いた」とあたかも情報の受け取る側の理解力や解釈が悪いとし、発信した内容は棚に上げる。身勝手な発信の結果を「誤解を招いたとすれば謝りたい・取り消す」なる上から目線は与党議員の近頃の常套手段であり(麻生副総理の常日頃の妄言やLGBTに関する杉田水脈議員の発言ほか)、「とすれば」は「他人がそう言うのであれば」と卑怯である。自分でツィッターに書いておきながら「ツイッターに書くにはあまりに“誤解”を招きやすいなと思う」と思うのであれば、初めからきちんと文章にして然るべく発表すべきだ。

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「憲法を否定するつもりはまったくない」と稲田議員は言うが、2012年4月30日に靖国神社・啓照館で開催された「(稲田氏の実父)谷口雅春先生を学ぶ会」主催の「第6回東京靖国一日見真会」では、
「だいたい弁護士とか裁判所とか検察官とか特に、弁護士会ってとても左翼的な集団なんですね。なぜかというと憲法教、まぁ憲法が正しい、今の憲法が正しいと信じている憲法教という新興宗教(会場爆笑)がはびこっているんですねぇ。」と言っている。(Habobor Business Online / 2017.02.10記事より)

つまり、「現行憲法は正しくない」と言っているに等しい。憲法を尊重し遵守するのが法曹であり弁護士であるのに、その事自体が「左翼的な集団」とステレオタイプな政治の色眼鏡で見る。憲法を尊重・遵守できないのであれば、弁護士も議員もその職を辞するべきであろう。言った際から、自らの立場を否定することだと当人は自覚すべきだ。

現行憲法が正しいか否か、と「(宗教的に)信じる・毒される」こと、これらは憲法を尊重すること遵守することとは全く関係のないこと。もし憲法を尊重・遵守すること自体をそのように表現しようとするなら言葉が間違っている(悪意である)。言うまでもなく国民も国会議員も憲法を遵守することが求められ、その正否の判断は別のプロセス・次元のことだ。また、「(宗教的に)信じる」ことは憲法が何かしらの宗教の宗旨の一部でも明文化したならともあれ(イスラム国の憲法ならそうだろうが)、現行の日本国憲法と「憲法教・(宗教的に)信じる・毒される」ことは何の脈絡もない。

日本会議系の連中は、現行憲法が米国からの押し付け憲法であって、元から否定すべき代物と断じて止まない。その考えのためなら次元も脈絡も構わず「みっともない憲法」と憲法を見下すことに終始し「押し付け憲法・みっともない憲法」といったネガティブなイメージを世の中に蔓延らせることに余念がない。行政府の長(内閣総理大臣)ですら、憲法改正を唱え立法府(国会)の権限を侵すなど、憲法に縛られるべき国会議員の立場を逆転させ、憲法を縛りにかかるという立憲主義に反する言行を行う。これはもはや法治国家ではない。法を無視する国家の暴走であろう。

この手の現行憲法を貶め・尊重しない発言が頻発している。(拙稿『"「日本国憲法自慢」はやめた方がいいです" はやめたほうがいい』)

存在する限りは尊重し遵守することが先ずは求められるのに、その存在を粗末にし軽んじる。これは立憲主義を否定することだ。それどころか、憲法に縛られるべき者が憲法を縛りにかかる。「憲法泥棒(慶應大学小林節名誉教授)」が後を絶たない。稲田議員もその一人である(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)。

「あまりに粗末にされ、軽んじられている憲法がかわいそうで仕方ない(小林節慶応大学名誉教授)」

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「憲法教・(宗教的に)信じる・毒される」は愚者の盲信というイメージ操作なのだろう。

(護憲は)「憲法を誇る」からけしからん、と彼ら(日本会議)は言わない。「誇る」というポシティブな姿勢は憲法尊重・遵守であり、それをまともに否定にかかるわけにはいかない。だから、「憲法教」「新興宗教」「毒され」「米国の押し付け」等々とあらかじめ憲法を「みっともない」とイメージ操作してから、否定にかかる。とても陰湿且つ卑怯だ

幣原喜重郎元首相は現行憲法の第9条の平和主義を国際社会で日本が率先して掲げることを「素晴らしい狂人」と言った(拙稿「憲法記念日・素晴らしい狂人」)。

「素晴らしい狂人(幣原元首相)」に一つとしてネガティブな政策はない。一点の曇りもなく晴々としている。国際社会が理想とし理念とすることに合致するからだ(日本会議は理想ばかりの非現実主義とバカにするが)。そして戦後、わが国は国際社会で堂々と(合法的に)その「素晴らしい狂人」を誇ってきた=平和主義外交に徹してきた。平和主義の国際貢献で日本は旗振り役を努めてきた。それは大変な外交努力を求められることだ。高度な政治力を発揮しなければならない。しかし、安倍政権になって、「積極的平和主義」なる二重話法(積極的=戦争)で、「普通の人」になること、すなわち、武力主義に傾斜した外交を志向するようになった。安倍政権下の政治力の劣化・政治の低脳化(拙稿『「政治の低能化の証し(小林節 慶応大名誉教授)」』)が、結果として「普通の人」に落ちるしかないのかもしれないが、悲劇である。

その背景たる、日本会議系の議員は「普通の人」になることを求めている。普通に戦争ができる国・軍拡競争に参加できる国になりたいと。「普通の人」のなれの果てが戦争であり、多くの国民が犠牲となり、その戦争の犠牲・惨禍の上に、偶然にも手にした(幣原喜重郎がそっと埋め込んだ)現行憲法の平和主義。この部分は米国の押し付けではない。これは「素晴らしい狂人」と呼ぶべき奇貨であり、今となっては諸外国のどこも欲しいと望んでももう決して手に入れることができない奇貨である。護憲は「憲法教という新興宗教に毒され」たなどという立場ではなく、幣原元首相が言う通り「憲法を誇る」という真っ当な立場だ。これが憲法を遵守し尊重するという国民の立場であろう。奇貨をわざわざ逸して何を得ようというのだろうか?その得るものは戦争であり死である。

(おわり)

posted by ihagee at 02:07| 憲法