2015年8月30日に行われた安保法案反対の「総がかり国会議事堂前抗議デモ」以来、3年ぶりに「0414国会前大行動」に足を運んでみた。

曇天であったが幸い雨には降られず、有楽町線永田町駅に着いたのは午後1時だったが、今日はすんなり国会議事堂前まで出ることができた。3年前の「総がかり国会議事堂前抗議デモ」の時は、構内から警察の規制が厳しく、日比谷公園まで埋め尽くすほどのあまりの大群衆に何度も迂回した挙句、議事堂を遠くに見る位置までにしかアクセスできなかったことを思うと、今日は少し拍子抜けする程、参加者も規制も少なかったと思う。

(2015年8月30日・「総がかり国会議事堂前抗議デモ」での大群衆)
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以下は「0414国会前大行動」でのスナップ(筆者撮影・Casio Exilim EX-ZR10でのデジタル写真)。
天気予報が安倍政権に忖度したのか「嵐になります」と予報したことも影響したかもしれない。実際は、多少風はあったが、まずまずの抗議日和だったわけだ。
それにしても、中高年以上の老人ばかりで、若者の参加が少ないのは一体どうしたことだろうか?安倍政治の結果(ほとんどが負の遺産)が将来に及ぶ世代なのに、今無関心を決め込んでどうするつもりなのだろうか?非正規雇用で将来設計が立たない若者は生まれた時からそれが普通だから比較軸を持たない、したがって、その不安定でも日々生きていけるならと現状肯定しか望まないともされる。今のままで良い・変化など望まないという内向きな意識が支配する若者層が安倍政権支持のコアを成しているとされる。そして安倍政権も民主党政権がいかに経済が悪かったかと"嘘" を彼らに刷り込んで、彼らに政治変革を望ませない意識を醸成してきた。ここら辺は、プーチン政権が盤石の国民からの支持を得ているのと同じだ。プーチン政権の諸悪を知りながらも、今日のパンが大事だとその政権を推す民意と大差はないのかもしれない。
私も含めて中高年世代や70歳台の老人世代では(戦後の成長期世代)、明確な比較軸がある。政治や行政がそれなりに知性と節度を持っていた時代や、働き手に安定した生活と将来設計(いわゆる終身雇用)を経済人が社会使命として考えていた時代である。私の父の世代(戦争世代)にはもっと明確な比較軸があった。それは時代性が培った嗅覚とも言える危惧感であった(拙稿「私たちはどこまで階段を登っていますか?」)。その戦争世代が社会の中心を構成していた時代であれば、安倍晋三なる政治家は決して政権は担えなかっただろう。その世代が消えて、残された比較軸は私を含む成長期世代であるが、若い世代からすればおそらく「良い思いしただけの世代」の扱いだろう。戦争世代のように「(戦争への道への)階段」を実体験として伝えることもできない。戦争世代がいなくなるのを見計らって現れた安倍晋三なる政治家の悪運の強さである。
新自由主義なる節度も使命も二の次三の次の経済功利第一・過労死・死ぬまで働けと、政財界が恥ずかしげもなく口にするようになったのは、小泉政権から始まりこの15〜6年の間の基軸であって、その間に生まれた今の若者世代は、「恥ずかしげもない」と我々成長期世代であれば思うことすら、知らないのだろう。
私の世代なら「社長になる」とか「家庭を持ち、一国一城の主になる」などと、子供の頃は大人を真似て大口を叩いたものだ。それもまんざら夢に終わらない時代があった。自分に夢を課し実現しようとした。社会も「◯◯君。君に期待するぞ」と大いに個人を叱咤し鼓舞してくれた。ところが、今の若者世代は自分を語らない。一人称ではなく「日本国」「日本人」なる全体のイメージで凄いだの、素晴らしいとの、妄想している。メディアを総動員して「君たちは凄いんだ・素晴らしいんだ」と夜郎自大・自我自尊の意識ばかりを増幅し錯覚させる。「◯◯君。君に期待するぞ」などと言う人もいない。なぜなら、彼らは使い捨てだからだ。そうして使い捨てられるのに、意識ばかりは、日本人や日本国で美しく括られてうっとりする。だから、一人称に戻ると途端に自信をなくす。まるで麻薬だ。安倍政権は若者たちにこの手の麻薬を処方しているのだろう。
嫌韓反中意識もその漠たる美しいイメージ(それが安倍首相の唱える「うつくしい国」なのだろう)の相対で作り上げている。そのように国民の意識を一人称にしたがらないのも安倍政権である。「(絶対的存在たる)個人」を認めず、「(国家と相対してしか存在しない)人」に憲法を変えてしまおうとするのも、若者に自分を語らせない、主権意識をもたせないとする、安倍政権の民主主義破壊でもある。
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しかし、たとえ比較軸がなくとも、論理的に考えれば、安倍政権の支離滅裂・デタラメさなどすぐにわかりそうなものだ。しかし、悲しいかな、それがわからない人々が3割の支持となって安倍政権の存続を望んでいる。
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等々と、大いに不甲斐なさを感じたが、主催者のシュプレヒコールは若者が率先し、集会の拠点では若者の姿も多く見受けられたのは、きちんと理解する若者は少数でもその声は強く逞しいということだ。もっと期待して良いのかもしれない。
私自身は、第一部(午後2時から3時半)のみの参加で、主催者発表参加人員は約3万人。上空を警察やら報道のヘリが飛び回ったが、この人数ではテレビで報道されないだろう。ヤフーのニュースでも扱いが小さく少ない。お隣の国では百万人規模の(民主化)デモが繰り広げられているというのに・・。
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"(国民は)もっと大きな声で怒りや疑念を訴えるべきなのに、デモに集まるのはせいぜい数千人規模でしかない。これがお隣の韓国なら、全国で百万人近い国民が怒りの声を上げてもおかしくないと思います。これほど酷い問題が起きても、日本人には権力に対して自ら異を唱え、それを目に見える行動で示すことを「良しとしない」雰囲気があるように感じます。
民主主義の基本はひとりひとりの国民が「主権者」としての自覚を持ち、自分たちの声を政治に反映させることに他なりません。ところが、日本は政治に無関心な人が多いし、関心があっても自分の意見を積極的に発信しようとしない人が多い。若い人たちに「民主主義の危機だ」と言っても「よくわからない」と答える人が多いし、高齢化で日本社会全体が保守的になっているようにも感じます。
政府も官僚も国会も司法もメディアも国民も、日本の民主主義を構成するすべての人たちが表面上はそれぞれの役割を果たしているように見えて、実際には「民主主義というお芝居」を演じているだけなのではないか?という皮肉すら言いたくなってきます。"
(仏紙「ル・モンド」東京特派員、フィリップ・メスメール氏)
お隣の国は大統領が次々とお縄になってなんてみっともない・・などと、言うのは大間違い。お縄にできる司法と民衆の政治意識があり、デモを繰り返しながら民衆が「主権者」である自覚を深めている。メスメール氏が我が国に指摘するような「民主主義というお芝居」からお隣の国は卒業しようと喘いでいるのだ。
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当ブログの趣旨として「0414国会前大行動」もフィルム撮影を試みた。
Zeiss Ikon (VEB) Tenax 1にIlford XR2 Super 400(24枚撮モノクローム)を、富士フィルムの連写カルディア ビュ〜ン16にKodak T-Max 400(36枚撮モノクローム)を詰め撮影した。
前者はましかく写真、後者は9mmフィルムムービーとして後日、ブログで掲載したい。
(おわり)
追記:
「0414国会前大行動」はその後参加者が増え、警察も規制線にびっしりと車両や人員を配置し例のごとく過剰警備となったようだ。鉄柵の檻にデモを閉じ込めようにも群衆の怒りの前に倒れた。当たり前のこと。しかし、テレビでは相変わらず、安倍首相は国民に納得のいく説明をすべきだ、などと性善説に立って「嘘をつく」者に語らせようとしている。なぜダイレクトに「もう嘘つきの説明は要らない。辞めてもらおう」と言わないのだろうか?「0414国会前大行動」に集まった人々の一人として「納得のいく説明」など求めない。嘘にこれ以上付き合うつもりはない、「ヤメろ」と声をあげているのである。安倍政権云々ではなく、この国が壊れかかっていることに怒っている。そうしてしまった我々主権者の不甲斐なさにも自ら鞭を打ちながら「ヤメろ」と声をあげていると私の目には映った。
タグ:0414国会前大行動
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