2018年04月11日

偶像(idols)はいらない




「私は神仏を信じません。」という人は多い。では何も信じないのか?というとそうではない。
「おカネってありがたいね〜」とか「科学は万能だ」とか「○○さんは僕のアイドルだ」とか、言う。
カネも科学も人も、どれもが相対的なもの(高いか低いか)で、一つとして絶対的なものはない。

二つ並ぶ・割り切れる=「偶」から、こういうものをありがたく敬うことを「偶像(idols)」崇拝という。

カネを愛する人はその顔はカネの顔になる。カネ顔は他のカネ顔としか付き合わない。アイドルも同じで、ファンも追っかけも同じ者が集まり、話し方も考え方も同じになる。

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政治家も無論、偶像(idols)主義者だが、偶像(idols)主義が昂じると、それは独裁(authorian)や英雄(heroism)主義に傾く。

賛美者や利害者とだけ付き合い、割り切れない者・割り切らない者には「こんな人たち」と指を立てる。

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人間社会、偶像(idols)を持たない者はいないだろう。しかし、大自然に触れ合ったり、聖堂で頭を垂れたりする時は、何か絶対的なものの前に立たされている気がする。

「大聖堂の中に入ると、自分は何も悪いことをしていないのに、なぜかごめんなさいと頭を垂れ懺悔したくなる気持ちは不思議なものだ」と作曲家の故 芥川也寸志さんが生前テレビで語っていたのを思い出した。

偶像(idols)は見つけやすい、そして、頭を垂れたり、垂れさせることに使うのに好都合であるが、それに人々が慣れてしまうと、全体が偶像(idols)化する。

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八百万の神(やおよろず)とは山の神様、田んぼの神様、などと何か絶対的(らしき)ものに対して畏怖し畏敬する日本人の古くからの心情だ。しかし、その畏怖畏敬も裏返せば木こりやお百姓の暮らし(利益)のためであって、至極ご都合主義的なもので、これも「偶像(idols)」崇拝にしか思えない。神主が地鎮祭をするのも、その土地を神に捧げるためではなく、その土地で人間が無事利益を受けられることを願うためのもので、原発にすら神棚を作ることになる。極めて手前勝手でいい加減な神らしきものへの信仰である。

欧州人のように絶対的な神への信仰のない、我が国は、ご都合主義的な八百万の神(やおよろず)がいつしか神道となり神社となり、軍人を神と崇める靖国となった。八百万の神(やおよろず)が英語では Shintoと紹介される所以である。

安倍晋三首相の座右の銘「至誠」は彼の尊敬する吉田松陰譲りであるとともに、「敬神崇祖の至誠」が国民性の本源とみなすその精神主義は日本主義(大日本主義)である。

キリスト教の神とその言葉である聖書が思想体系を成しているのに、日本主義(大日本主義)は全くそうではない。科学的に考察する対象にもない。『二十世紀の日本主義の内容は依然として、原始的「神国」説の文字通りの伝承である』、「千年来発展のない、すなわち歴史を持たない思想は、これを思想と呼ぶべきものでは」ないと長谷川如是閑は喝破している。思想と呼ぶべきものでない、呪術や占術である。人間が神に対してみずからの祈願する祝詞は神に「宣り聞かせる」ことで、思想のかけらもない。

したがって、Shintoとその派生である日本主義は国際社会ではカルトで括られる。



呪術や占術がカリスマ的支配と支配者を生む。
カリスマ的支配とは『「特定の人物の非日常的な能力に対する信仰」によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の「呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝」に基づく』ため、『善悪という価値判断からは自由な(「価値自由(Wertfreiheit)」な)概念』(マックス・ヴェーバー)とされている。

安倍晋三という政治家は悉く、『善悪という価値判断からは自由な(「価値自由(Wertfreiheit)」な)概念』の持ち主である。自分が言えば全て真実と嘘を口にする。その先祖が陰陽師・安倍晴明であるとされるのも然りだ。現実社会で我々が非日常と考えてきたことも、この人の下では全く日常化する。異次元と呼ばれる金融・経済政策もレベル7の原発事故をアンダーコントールと片付けるのも、友人に便宜を計るのも、・・枚挙に遑がない。

カリスマ的支配ゆえに、それが当たり前に我々も心が麻痺していく。森友・加計問題もカリスマ的支配の下では「真相は藪の中」で良いらしい(拙稿『「藪の中」考』)。

思想と呼ぶこともできない原始的「神国」説(日本主義)の上に、安倍政権は立ち、安倍首相をアイドルとして「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と唱和するのも、その偶像(idols)主義、特に、カリスマ的支配の発露だ。その思想と呼ぶこともできない原始的「神国」説(日本主義)にあってこの国を愛することとは、無思想・無教養・反知性を育むことにしかならない。それは偽の愛国だ。

その通りの国になった。

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ドイツ国が脱原発に踵を返したのは、社会倫理に照らしたからだと言われる。キリスト教の絶対的な存在の前に、原子力発電なる偶像(idols)主義を捨てたのだろう。嘘を職業とする政治家すら、聖書の上に手を置いて「嘘」を付くことはできない(恐ろしいと感じる)。宣誓証言とは絶対的な存在に対するものであって、我が国のように司法との相対的な関係で言い逃れる(「捜査に影響」とか言って)ことはできない。そういった存在を持つドイツの国民性は幸せである。

カネや科学技術や日本主義の亡者たちがうようよとする我が国は偶像(idols)主義に染まってしまった。私たちの心の欲求がそういった偶像(idols)を生み出している。ご都合主義的な八百万の神と過去の歴史においてまともな思想も哲学も確立できなかった国民性に根ざしている。

安倍政権なる偶像(idols)も、我々の心の欲求が生み出した怪物だろう。安倍政権は愚かな偶像(idols)であり安倍晋三なる人はその木偶である。が、それらを生み出した我々の心も同じく厳しく問われなければならない。

偶像(idols)主義と我々一人一人がどう距離を置くべきか、今問われている。

「まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)」

徹底的に解剖し改造すべきは、脆弱な自分であることを、我々国民は一人一人自覚しなくてはならない。意志薄弱であってはならないのである。騙されるのも国民なら騙すのも国民。騙す騙されるという偶像(idols)主義から決別すべきだ。

(おわり)

タグ:偶像 idols
posted by ihagee at 04:04| 政治