2018年03月11日

安倍政治との決別



学校法人「森友学園」への国有地売却に関する決裁文書が書き換えられたとされる疑惑。

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佐川宣寿国税庁長官がその職を辞したばかりでなく、朝日新聞の報道を裏付けるかの如く2016年6月に森友学園側と国有地の売買契約を結ぶ際に作成された決裁文書などで複数箇所にわたる書き換えが行われたことを財務省が認める模様である(3月12日にその旨を国会に報告予定)。

佐川氏は国会で「事前の価格交渉はなかった」などと答弁。森友への国有地売却の「特殊性」を否定していた。しかし決済原本には「特殊性」およびそれを示唆する複数の記述があり、国会での答弁に合わせて決済原本の書き換え(削除など)を近畿財務局内で行われ(局内の担当者は自殺)、その書き換えを佐川氏(当時理財局長)が指示した疑いが濃厚となっている。

「特殊性」とは政治力が官僚に働いたということに他ならず、その森友学園の籠池泰典(当時理事長)が国会で「神風が吹いた」と証言したように安倍総理大臣の政治力による便宜供与を示唆している。

「私も妻も認可、国有地払い下げに関係ない。関わっていたら総理大臣も国会議員も辞める(衆院予算委員会・安倍総理答弁)」の「関係ない」に辻褄を合わせるかのように佐川氏(当時理財局長)は森友学園への国有地払い下げについて「すべての資料を廃棄した」と国会で答弁し(廃棄したとされた資料はその後存在が確認されている)、関係性を示唆する文言の全てを決済原本から削除するなどの改竄が行われた。

そのこと自体も政治力が働いたということに他ならない。官僚が自らの利害ではなく、特定の政治権力の利害の為に敢えて大罪を犯す。そのあたりを酌んだ官僚を「官僚の鏡」と称え昇進させたのも安倍総理に他ならない。

「森友学園」問題に端緒し、安倍政治なるものは事実(ファクト)の虚飾・粉飾を前提とすることが明々白々となりつつある。「アンダーコントロール(安倍総理)」に始まる『原発は国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』(城南信用金庫の前理事長・吉原毅氏)(拙稿『国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』)、内閣府による名目国内総生産(GDP)の嵩上(粉飾)の疑惑(拙稿「粗忽長屋と安倍政治」)等々、財務省に限らず全ての中央官庁に於いて、安倍政治に都合するように公文書の虚飾・粉飾・政治的解釈が疑われる状況にある。それらを官僚人事権をちらつかせながら官邸が中央官僚に暗に強要する図式がその背後にある。

事実(ファクト)を軽んじるばかりか都合良く書き換え、嘘も押し通すことを中央官僚たちに常識化させたのも安倍政治であれば、それは国家の基盤をシロアリの如く根底から破壊する行為である。その破壊的国家観に沿って憲法そのものも書き換えられるのであれば、こんどは我々国民の生存する権利までが政治権力の都合次第で破壊される。近畿財務局の担当者が追い込まれて自殺したように死ぬことを公然と我々国民に強要する国家となる(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。

嘘を押し通すために嘘だとバレないように特定秘密保護法を施行し、国民の知る権利を阻害するばかりか(非開示)、義憤に駆られ事実(ファクト)を明かそうとする者に対しては思想信条までこと細かに調べ上げいざとなればあらぬ濡れ衣を着せて個人の社会的信用(前川喜平氏の例)を貶め抹殺しようとする。表現の自由(言論の自由)にタガをはめ内心の自由(精神の自由)に土足で国家が上り込む(拙稿「カギのかかった箱の中のカギ(憲法第21条)」)。共謀罪とはその為にあるのかと思わざるを得ない。テロ対策といいながら、民主主義へのテロルを企てるものがその法律を希求するのも、表現の自由(言論の自由)によってその行為があからさまにされることを怖れてのことかもしれぬ。

世耕大臣の鶴の一声で経産省の執務室を常に施錠し閉鎖する行為(他省は必ずしも追随していない)も表向きはセキュリティ管理だそうだが、国民の知る権利に対する明示的なロックアウトだ。やましくなければ扉は閉ざされることはないはずだ。国民の知る権利を犠牲にしてまで官公庁のセキュリティを優先する理由は一つとしてない(憲法にそんなことは一つとして書いていない)。

自民党内では決済文書への「改竄」は「訂正」の範囲で誰の指示にも依らず役人が自分の判断で行ったことだ・「訂正」ならば微々たることだ、と国民に説明し、政権への責任波及を避けようと画策が始まったようだ。「改竄ではなく訂正はあったようだ。そのレベルだ。少なくとも近畿財務局内部の話とみられ、麻生太郎副総理兼財務相の進退問題には発展しない」(与党幹部の話・産経新聞3/11報)

とんでもない!訂正ならば訂正された事を文書上で残す(取り消し線を引き・決裁印を捺す)のが役人の仕事である。決済文書番号が同じでありながら、文言が削除されていたり書き換えられ、その痕跡を残さないことはすなわち「改竄」に他ならない。もしその程度の(微々たる)「訂正」の範囲ならば、佐川氏が辞職したり近畿財務局の担当官が自殺する必要はなかった筈である。「訂正の範囲」と言い、「近畿財務局内部の話」と言って、担当官の自殺すらそのレベルと貶める。死者への冒涜であろう。訂正の跡を残さぬ行為を「訂正の範囲」などと言い出しては、公文書の信用性が著しく毀損される。財務省の各種統計値や分析に疑念が生じることは政策ばかりでなく国家としての信用が堕ちることである。政権の政治力が行政に国民を欺く行為を強いていたとすれば、それは国民に対する政権の詐欺であり重大な背信行為である。今は「改竄の事実」があればそれを素直に認め(「書き換え」=「改竄」)、元の事実をつまびらかにするしかない。安倍政権の存立云々などという話ではなく(当然に政権は責任を負いその座を去らねばならない)、この国の存立に関わる重大事だ。これこそ最大の国難と言って良い。決して問題を矮小化してはならない。

しかし、そうならないようだ。「改竄ではなく訂正はあったようだ。そのレベルだ。少なくとも近畿財務局内部の話だ」などと与党幹部が言うようでは。死んだ意味すら無意味にし「改竄」という事実すら政治力で無理やり改竄してしまおうとする、おそるべき病理に政権は冒されていると自ら明かしているようなものだ

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事実(ファクト)に背を向けるばかりか自己都合のためには勝手自在に解釈しても構わないという病んだ政治は要らぬ。われわれ国民は安倍政治と断固として決別しなければならない(拙稿「豚の独裁者(オーウェルの動物農場)」)。その安倍政治ばかりでなく、別の豚の独裁者に代わるだけの破壊的国家観を共有する自公維主体の政治にも。

(おわり)

追記: 東日本大震災(3.11)から7年。5年目で安倍政権は復興に区切りを付け光陰に関守なしの素振りであるが、被災地はあの日から時間が止まったまま、津波や東京電力福島第1原発事故の被害などで、依然として約7万3000人が全都道府県に散らばって避難している。岩手、宮城、福島の3県では、高台移転による宅地造成や災害公営住宅(復興住宅)の建設が進む一方、1万2000人以上が今なおプレハブの仮設住宅で暮らしている。原発事故がなければ復興も為っただろう。原発事故を未然に防ぐ手立てが講じられていればこのような状況にならなかった筈だ。

第一次安倍政権時の2006年には、すでに国会で福島原発事故と同じ事態が起きる可能性が指摘されていた。しかし、安倍総理大臣は、「日本の原発でそういう事態は考えられない」として、一切の対策を拒否していたのである。すなわち、福島の原発事故を招いたのは安倍総理大臣の不作為にその大元がある。リテラ記事「3.11に改めて問う安倍首相の罪! 第一次政権で福島第一原発の津波、冷却機能喪失対策を拒否した張本人だった」にその仔細が書かれている。

天罰を受けて当然の行いを「彼はした」。そして奇しくも7年目の3.11に漸くその罰が彼に下ろうとしている。放射能に汚染された大地と全ての生き物の呻きや不条理に亡くなった多くの原発被災民の声なき怒りの総和であろう。彼がいかに地上の法の支配者たろうと、天網は逃れられない。「今度こそ彼が天の声を聞く番だ」。

posted by ihagee at 06:23| 政治