2018年01月15日

粗忽長屋と安倍政治


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落語「粗忽長屋」のオチの部分:

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」



死んだことも忘れた粗忽者の熊五郎、死んだ「俺」を抱いている「俺はいってえ、誰なんだろう」というくだりだが、「自分が死んだことにも気付かないのか?」と熊五郎を言い包めたのは同じ長屋の八五郎である。

死んだ「俺」であれば、その「俺」はもはや「俺」であるかも気付きようがないわけだが、八五郎に言われて「俺」だと気付いたとすれば、その気付いた「俺」は一体何者なのか?と悩む。この噺ではオチで下げるために「悩む」ことになっているが、悩まなくとも良い。

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精神医学の世界から眺めれば、熊五郎は解離性障害に分類されるかもしれない。
「自分が自分であるという感覚が失われている状態、まるでカプセルの中にいるような感覚で現実感がなかったり、ある時期の記憶が全く無かったり、いつの間にか自分の知らない場所にいるなどが日常的に起こり、生活面での様々な支障をきたしている状態をさす。解離性障害を持つ人は、防衛機制として解離を病理学的に非自発的に使用しているとされる。(wikipedia)」

過去の自分と今の自分が繋がっていない。または、自分が今ここに存在しているという意識すら無くなる(離人症)。現実と距離を置くことで我が身を守ることでもある。

アベノミクスを、現実に追いまくられると札を投げて過去形に切り離して「その場しのぎ」をする逃走譚(昔話の「三枚のお札」)に喩える向きもある。三本の矢の行方を問われると、お札のようにスローガンを投げ過去を放念し、未来志向と言い続ける。



「自分が自分であるという感覚が失われている状態、まるでカプセルの中にいるような感覚」に浸らせてくれるのが、「日本凄い・日本人凄い」の大合唱である。自分(個)に立ち返れば何一つ凄くなかったり、子供のように心の耐性が低いまま大人になった者ほど、その大合唱に付和雷同しやすい。つまり、現実社会にまともに向き合えばたちまちコンプレックスや不安にさいなまれる人ほど、自分の心を守ろうとして「日本凄い・日本人凄い」のカプセルに安住することでもあろう。「今」「私」という軸が稀薄となって、それぞれの「体験」に「私」が分割され、衝動性と恐怖症から不適応な代替行為・代償行動を行うようになる。衝動性が増すとされている。

歴史事実にまともに向き合えないことは、韓国との間に存在する従軍慰安婦問題についても安倍首相の追加要求拒否を支持する世論が83%だという数字にも現れている(読売調査)。レイプという性犯罪は人類共通の問題であるにも関わらず、その問題を差し置いて「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、まったく受け入れることはできない」と息巻く安倍首相に迎合する人々。「人として」よりも「国として」に重きを置く・子供のように心の耐性が低い証左である。宮沢政権が慰安所の設置や管理に旧日本軍が直接、間接的に関与していた事実を認め、多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であると表明したこと・93年8月、当時の河野洋平官房長官は、おわびと反省の気持ちを表明する談話を発表し、歴代内閣は「河野談話」を踏襲することも決めたことすら、安倍首相のこだわる合意の方が重たいという「歴史修正」である。ここにも過去の自分と今の自分が繋がっていない解離性障害的な感覚が蔓延っている。

つまり、(軍部主導の)性犯罪という破廉恥な歴史事実(正義の一つも存在しない)よりも合意(それも署名なき)の方が重いという認識に巻かれる人々。恥でしかない歴史事実をまともに受け止めるだけの心の耐性がない人々が多いということに他ならない。正義をいつのまにか政治的合意に重ねて、正義者は我々日本であると加害者と被害者の主客(パラダイム)をしらっと転倒させる人々。そんな人々ほど、泥棒(加害者)でありながら防犯対策を指南する(正義を説く)という説教強盗流の二重話法に弱い。本来、その家の主人が行うべき防犯対策を、よりによって泥棒に入った者が行う。主客転倒である。

説教強盗流の二重話法を駆使するのは安倍首相である。憲法に縛られるべき安倍首相当人が、憲法にベタベタと指で触れて「触れられたくなかったら、改憲しなさい」と国民に対して説教を垂れる(正義を説く)ことを許すのはそういった「自分が自分であるという感覚が失われている」人々である(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)。「自分が自分であるという感覚が失われている状態、まるでカプセルの中にいるような感覚」の人々を大増産することは説教強盗流の二重話法を駆使するに好都合極まりないことだ。「日本凄い・日本人凄い」の大合唱に乗せられ自分(個)がない人々ほど言われるがままに改憲に頷いてしまう。泥棒に唯々諾々従うということは、生命財産まで泥棒に奪われることも良しとすることであろう。気づいたら戦場の只中で、何気に死んでいたとなればそれこそ熊五郎だ。「俺はいってえ、誰なんだろう」なんてことになっている。どうりで「俺」なる個を失わせようと安倍政権が懸命なワケだ(憲法改正草案での13条にあるように「個人」という言葉を憲法から削除し、すべて国家との相対でしか存在し得ない「人」に置き換えようとすること・拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。

国家主導の性犯罪に対して自分なりに客観的に考察することができない。どう理屈をつけようと恥ずべきことでしかない性犯罪に真剣な自己反省と努力がまず求められるは我々日本人であるにも関わらず、いつの間にか、「いちゃもんをつける奴ら」とばかりに韓国の人々に反省と努力を求めようとする人々。過去の自分と今の自分が繋がらないことの方がハッピーだと思う感覚。詩織さんに対するレイプ問題についても、加害者が正義者を気取り性犯罪にもならない世の中となった。山口何某からすれば詩織さんは「いちゃもんをつける女性」となる。詩織さんに対する謂れなき誹謗中傷をする人々にこそ、安倍政治への擁護者が多い(山口何某は安倍首相の提灯持ち)。このように安倍政権になってから異常極まりない群衆が増えた。安倍政治が異常な人々を大増産し続けている。

加害者が正義者を気取ることを許すのであれば、アメリカ人にとって広島や長崎の被ばく者は「政治的に決着したことに未だにいちゃもんをつける日本人たち」だとか、「原爆を落としたアメリカにこそ正義あり」とか言われたら、我々はどう思うだろうか?憤る筈だ。ところが、安倍政権はアメリカの核の傘の抑止力を肯定しあたかも「原爆を落としたアメリカにこそ正義あり」と言わんばかりである。被ばく者が祈念する核廃絶への背信であることに他ならない。一昨年、当時のオバマ大統領が広島を訪問したのも「国として」よりも「人として」であって、アメリカの国家としての正義は依然として変わらない。なぜなら、原爆を落としたアメリカという加害者側の核抑止論が正義であるとし、その核の傘なる幻想に我が国は留まろうとするからである。ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の事務局長と会おうとせず、核兵器禁止条約への理解を一つとして示さない安倍政権はここでも二重話法を用いている。「人として」なぜ語ろうとしないのだろうか?核兵器には<ラッセル=アインシュタイン宣言>で示された選択肢、「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?」の二者択一しかない。人類を絶滅させないためにはその絶滅の元となる核兵器を廃絶し戦争を必要としない世界を構築するしかない。理想主義と言われようが「'ヒト'という'種'」という大局に拠った考え方しかない筈だし、その為の最大限の努力を政治家はすべきである。ところが核の傘の方が安全だと安倍政権は言うのだから呆れるばかりである(拙稿『「'ヒト'という'種'の一員として」の戦争放棄(憲法第9条)』)

従軍慰安婦問題に立ち返って反対の立場で物事を考えれば、歴史事実を客観視するしかないだろう。少なくともオバマ大統領が広島で「人として」示したような謝罪を安倍首相も韓国に赴いて、被害者を前に表明すべきである。これすらも「国として」のメンツにこだわって拒否するようでは和解はできないだろう。そして、心の耐性がないまま大人になった安倍首相だから、平昌五輪開会式に出席しないと子供のような駄々ぶりを発揮している。恥ずかしい。それに対してヤンヤと応援する人々もやはり子供である。

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過去と今を分断し(歴史修正主義や、憲法解釈による従来の憲法解釈との論理的整合性および法的安定性の不追求)、「今」「私」という軸を稀薄化させ(憲法改正草案での13条にあるように「個人」という言葉を憲法から削除し、すべて国家との相対でしか存在し得ない「人」に置き換えようとすること・拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)、不適応な代替行為(上述の「その場しのぎ」のアベノミクス)や代償行動(異次元金融緩和)など、現政権の施政に解離性障害の病理が当て嵌まることが多い。論理なき衝動性は安倍政治の基調だが、安倍晋三という人のメンタリティなのかもしれない。

そして、安倍首相と首相夫人についても、「今」「私」という軸が著しく欠如している。「私」と言いながら「私」でない(「私が責任者でありますから」と言って「責任者」であったことは一度もない)、「今」でありながらたちまち過去に忘却される(「その場しのぎ」をする逃走譚(昔話の「三枚のお札」)は、彼らの精神構造についてである。

国家的粉飾・虚飾は原発事故のみならず(拙稿『国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』)、内閣府による名目国内総生産(GDP)の嵩上(粉飾)の疑惑も取り沙汰されている。






「その場しのぎ」の逃走譚の先は「野となれ山となれ」で、「今さえ良ければ」なのだろう。お友だち関係の1パーセントに満たない上層の国民の為に国富を海外に移転することに懸命な安倍首相は(外遊を表向きに税金を用いた特定企業への利益供与を指摘する声がある。TPPもその上層国民のエクソダスの手段かもしれない。拙稿『総括なき「カネ目」外交』)、過去のストック(資産)を食いつぶすばかりか、将来世代の懐にも手を突っ込みカネや希望を無心して止まない。収奪を終えれば、残りの国民ごと沖縄を含め日本列島全てが有事に於いてアメリカの軍事の砦・人間の盾となることを祖父(岸信介)が誓って孫(安倍晋三)が実行しつつあるのかもしれない(拙稿『沖縄の人々は本土の<防人>なのか?』)。国を売る行為である。

そして「うしろに誰かいる」という解離性障害罹患者の感覚は、安倍政権になってから我々も感じられるようになった。

トランプ米大統領は日本に来る前、ハワイで"RememberPearHarbor"と呟き日本国の表玄関たる羽田や成田ではなく横田米軍基地に降り立った。米軍基地という日米地位協定上、我が国の主権の及ばない、つまり米国領土に我が国の外務大臣が「ようこそ」と笑顔で出迎え、巨大な星条旗を背に空軍のジャンパーを着込んで米軍人たちにまずは丁重に挨拶する。占領地の扱いに甘んじ国家としての最低限の主権すら譲って対米隷属に徹する我が国がはっきり見えた(拙稿『「いい国つくろう、何度でも」の主語』)。

そして、靖国なる国体やら、「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」(安倍昭恵)や、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>など、神がかった不気味な精神主義(日本主義)が姿を表しつつある(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。陰陽道・安倍晴明を先祖に持つとされる安倍晋三首相であれば宗教的な呪術・祭祀の色合いは先祖から引き継がれたものなのか?(拙稿『「薮の中」考』)。「忖度」(拙稿『上に立つべき者はいずれか(安倍首相と前川氏)〜忖度の意味の違い』)が必要な首相などこれまでなかった。安倍政権になってから空気がはっきり変わった。

将来、この国がどうなるかは、「俺はいってえ、誰なんだろう」というオチで済ませて良い筈がなかろう。

(おわり)


posted by ihagee at 18:03| 政治