
(6)
「写っているのは息子だ。今は俺の下で働いておる。」
スーツに身を固めた角刈りのがっしりとした体躯の伊藤と名乗る男は運転手に写真を手渡した。
「こいつは生まれながら肝臓に障害があってね。長年苦しんできたのだが、去年、念願だった肝移植が叶って何とか助かった。」
「生体肝移植というものですか?」
「いや、脳死肝移植というものだよ。」
「脳死肝移植ですか!よくドナーが見つかりましたね。」
「ドナー提供の意思表示、脳死のタイミング、適応性など偶然と可能性が重なり合わなければできないことだよ。」
「それは僥倖というものですね。」
「そうだその通りだよ。」
「ご用件とは?」
「そのドナー提供者を知りたい。医者も病院もドナーのプライバシー保護とかで教えてくれん。でもな、俺は知りたい。息子の命を救ってくれたんだから当然だろ。ドナーが誰かわかっても決して公言しないから何とかそのドナーに会わせてくれ。」
「ということは、生きておられた時のドナーにですか?」
「そうだよ。」
「移植された臓器には提供してくれた人の心が残っていると俺は思っている。だから、顔じゃなくて、全身が写っている息子の写真を持ってきたんだ。」
「ではその心の導くままに車をバックさせましょう。」
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「車の前を歩いているのがそのドナーです。作業着姿の男ですよ。お降りになられますか?でも決して話しかけたりしてはダメですよ。後を気づかれないように。一時間したら車に戻って来てください。」
「わかった」と言って伊藤は車を降りた。
「若いやつだな。どこに行くのだろうか」と伊藤は後をつけた。
「でもこの街は俺の支部が普段活動している場所だ。」
作業着姿の男は軽トラックの荷台から食料品の箱を台車に乗せて運んでいる。
「おや?あれは俺のところの若いもんたちじゃないか。」
通りの向かいから一群の若者たちが声を上げて迫って来た。
在日=悪、純粋な日本人のための日本国、在日から取り戻せ、などと看板を掲げ、旭日旗を振り回して通りの人々を割って練り歩いている。
「ほぅ、なかなかやっとるわい。俺が見てなくてもあれだけできれば大したもんだ」と伊藤は笑顔になった。
「あっ、気を取られているうちにあの男を見失ってしまったぞ。しまった」と伊藤は腕時計をみるとすでに小一時間経っていた。
「なかなかお戻りになられないので心配しましたよ。」
「すまんね。つい、俺のところのもんに気を取られて見失ったよ。」
「ではドナーが誰だったか、結局判らなかったということですね?」
「そうだ。まぁいい。それよりも帰ったら若いもんたちに褒美をやらんとな。目の届かないところでも立派に活動していると判ったからな。」
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「では戻りましょうか。その前にいただいた写真を貼って」と運転手はダッシュボードから写真帳を取り出した。
「ちょっと待てよ。そういえばこのあたりで作業着の男と言えば、随分前に乗せた覚えがあるぞ」と写真帳を数年分繰って「あ、ありましたよ。この人じゃありませんか?」と写真を剥がすと伊藤に肩越しに手渡した。
「そうだよ!前にまわって男の顔をちらっと見たがこの写真と同じだ。君、この男に覚えがあるんだろ!」
「余白に名前はありませんが、生年月日と没年月日は平成元年11月9日と平成23年4月6日です。」
「平成23年4月6日の翌日の朝に息子は移植手術を受けたから間違いないな。君、この男を車に乗せた時のことを覚えておらんのか?」
運転手は乗務日誌を繰り、該当する記述に従って説明を始めた。
「この青年は私の車に乗って、ご自分の顔写真を渡されました。それがこの写真です。角膜、皮膚に限らず全ての臓器を死後に提供する意思表示をしているが、ドナーとして将来誰かの役に立つことができるのか知りたいと仰って乗車されたのです。」
「なるほど。」
「あぁそうだった。思い出しましたよ。私は大いに躊躇ったものです。なぜなら、その将来をこの車でお見せするということは、いついかなる状況でお亡くなりになられるかを青年にお知らせすることに他ならないからです。そのことも私は告げましたが、青年は動じる素振りは一切なく、知りたいと・・」
「何という立派な考えの持ち主じゃないか!」
「私は、"その日"に車を進め、青年はお降りになられました。」
「いつものように荷台に食品の箱を積んで運んでいたところに、突然車が突っ込み、青年はよけた弾みで電柱に頭を強く打って亡くなられました。その様子をご当人が冷静に見ておられる姿を私は車の中から窺って戦慄を感じたものです。青年は車に戻られ、さらに私にご自身の遺体の行き先まで車を進めるように云われました。」
「それで君は息子の病院まで青年を連れていったということか?」
「いいえ。貴方様の息子さんの病院は東京です。ここは大阪ですから、大阪赤十字病院の前で車を止めました。遺体は大阪赤十字病院に運ばれ、ドナー登録した各部位が摘出・検査され、肝臓のみ息子さんの病院にヘリコプターで急送されたということです。」
「誰に提供されるかも青年は知っていたのか?」
「ご家族に摘出に当たった医師がレシピエント、すなわち、貴方様と息子さんについてはプライバシー保護の為、通常明かすことはありません。しかし、摘出された肝臓には青年の心がありますから、青年はレシピエントが誰だか判ったと車に戻られて仰っていました。役に立ててとても嬉しいと。」
「そこまで判っていれば、青年は平成23年4月6日の事故を避けることもできたのではないのか?」と伊藤は運転手に問うた。
「いいえ。過去と同様、将来も一旦その目にした限りは変えようがありません。この写真帳に没年月日を書いたら最期です。私の背もたれの乗車案内にもあるように、将来の最期の日をお客様が目にした場合はその没年月日を写真帳に書き入れることを私は原則的にいたしません。ほぼ例外なくその通りになるからです。青年もそのことは知っておられました。しかし、あの時は敢えて書いて下さいと。」
「なぜ、書いてくれなどと云ったのだろうか?」
「ドナーとしてご自身の臓器が他人に生かされる唯一の機会だからですよ。それも他人の生死に関わるとなればその日を青年が逃すはずはなかったのでしょう。息子さんにとっての"偶然"はこの青年の"必然"がもたらしたものなのですよ。」
運転手は車を少し前に進ませた。
「平成23年4月11日ですよ。目の前の教会で青年の告別式が執り行われています。」
「ここで俺は降りるぞ。霊位の前に跪いてくる」と伊藤は車を降り、しばらくすると唇を噛み締めうなだれて戻って来た。
「家に戻してくれ、運転手さん。考えるところがある。」
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「ただちに解散だ!街宣活動は一切やめにする。」
伊藤はメールを一斉送信した。
「何が純粋な日本人だ!あるのは人間としての純粋な心だけじゃないか!あの青年のように。日本人だからじゃない。俺は全くなんて愚かな心の持ち主だったのか。人間としての心を息子はあの青年から受け継ぐことができたんだ」と呟いた。
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「あの青年の名前を忘れないうちに余白に書いておかねば」と運転手は作業着姿の男の写真に、田中弘(李樹廷)と書き添えた。
(つづく)
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