2017年12月02日

そこの若いもん立てよ!






私は人前で普段声を荒げたりすることはない。感情をあからさまにするのは恥ずかしい小心者なのだ。

しかし、今日は声を荒げた。

都心郊外の私鉄某駅からバスに乗り込むとスポーツクラブの少年が大勢乗車し座席を<優先席>(所謂シルバーシート)まで占有しはしゃぎまわり、途中から足の悪そうな老人が乗ってきてもその姿を見ながらも誰ひとりとして席を譲ろうとしないばかりか、用具の入った大きなバッグを足元に放り投げて降車しようとする年寄りの通路を塞いでいた。指導者らしい男はスマートフォンに興じて看過するはで、私は降りぎわに「そこの若いもん立てよ!シルバーシートじゃないか!」と大声で一喝した。彼らは初めて知ったかのようなキョトンとした顔をしていた。

たとえ、車内が空いていても健常者や若い者は優先席に座るべきでないと私は思っている。座れる座れないといった状況への判断ではなく、ここは<優先されるべき人>のためのシートであって「優先されるべきでない私は座るべきではない」という心がけの問題だからだ。「自分が座っていても老人がきたら譲れば良い」とは思わない。「自己満足を優先し=先ずは自分が座る、あとで必要なら譲れば良い」という、自分本位の都合の付け方が間違っていると考えるからだ。

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若い人は知らないだろうが、その昔、三遊亭小円遊の「僕ちゃんは・・」とかおそ松くんのイヤミの「ミーは・・」は、気色悪さを演出するための一人称だった。幼児段階で卒業しておかなければならない「自己満足の為にだけ他人と関わる性格」を引きずったままの若者が増えてきているのではないか?玩具や菓子を親に買ってもらいたいが為に人前で泣きわめく子供と、仲間内でワイワイと騒ぎたいために<優先席>すら自分たちに優先する少年たちとの間に心の成長はない。

他の人のために自分が関わろうとする気持ちがあれば、<優先席>と書いてある席には座らない関わり方をするだろう。「優先されることが本来ない」健常者や若者であれば、常に他の人を優先する心がけでなければならないと私は思う。

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自己満足の為にだけ他人と関わるということがなぜこうも当たり前になってきたのか?

「自分にご褒美」「私って○○の人だから・・」「元気をもらいました」「日本人って素晴らしい」「日本国って凄い」といった言葉がテレビやネットで蔓延っているがこれらも自分を褒める・自分を褒める別の自分がいる・仲間同士で褒め合う・元気をもらいあう、という気色悪さを私は感じてならない。根拠もなく褒めてもらいたくて仕方ない人ばかりなのだろうか?自分で言うか、全体に括られて言ってもらうかの違いであって、自画自賛・夜郎自大な褒辞でしかない。

お褒めいただければどんな主人にも尻尾を振る。
それは自称「この国の最高責任者」に始まり、若者にまで伝染している。「褒めて欲しい承認欲求」が強くなっている社会、ただひたすら褒めてもらいたいから怒られることはやり過ごす・耳を閉じる。怒られてもその場「ごめんなさい」とか「遺憾です」と言っておしまい。物事を自分の頭で真剣になって考えようとしない。誰かがわけもなく怒っているから、まぁその場殊勝にしておこう程度の態度である。

この過剰な褒められ願望とは、一服すれば不安から逃れられるドラッグと同じだそうだ。ドラッグ漬けになれば思考は要らない・自己努力や責任感などなくて良い。そのドラッグを若者に与え続ける者のいいなりになる。非正規労働・スキルの一つにもならない労働内容に内心不安だらけの若者にとって、不安から逃れる一服の清涼剤こそ「褒めて欲しい承認欲求」なのか?「自分にご褒美」「私って○○の人だから・・」「元気をもらいました」「日本人って素晴らしい」「日本国って凄い」に「そうそうだ!」となる。じゃ、君の何が褒められたと思うか?と訊ねても答えはない。

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私が属していた「お前なんかどうしようもない奴だ」と親ばかりか社会からも常に一人前扱いされず怒られ通しだった時代はどうやら去ったみたいだ。

生まれたときから褒められ通しで育った名門一家の僕ちゃんが自称「この国の最高責任者」でありその親も還暦すぎた息子に「宿命の子」など人前も憚らず呼ぶような(呼ばせる)政治も然り。

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(山本太郎議員からも "褒められている")


お友達政治、なにごとも自分にご褒美(実績も上げない段階から自分の名前を冠して自分にご褒美とするアベノミクス)、「私がそう思えば憲法」、挙句は忖度(をさせる)、怒らればキレる、質問させない、となるのも仕方ないのかもしれないが、将来世代までも褒め殺して良いはずはない。

(おわり)


posted by ihagee at 14:19| 日記