2017年11月26日

「行政文書管理の在り方」なる奇問



和田垣健三という法学者がいた。



明治19年(1886)帝国大学法科大学教授となった人物だが、大学での試験にはいつも設問の終わりに余興の問いが付いていたという。これが学生にも学者仲間にも好評だったらしい。

「鳥が卵を生むか、卵が鳥を生むか」
「君の眼に映じた彗星の長さは幾ばくか」といった具合である。
(出典:森銑三著「明治東京逸聞史」)

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森友・加計学園問題の争点を、与党や希望・維新といった与党補完勢力は「行政文書管理の在り方」にしようと画策しているようだ。

要するに、法的に適切だと事後確認検証できるような文書を役人が適切に保管せず破棄したから、会計検査院は十分に検証のしようがなく、従って、問題視される結果となったと、与党や希望・維新といった与党補完勢力はいわんばかりである。しかし、森友・加計学園以外の学校の許認可に関して認可に関わる書類が総じて適切に保管されず破棄されたという事例を我々は知らない。つまり、安倍首相やその夫人が関わればこそ、そのような「例外」(麻生副総理の言)が発生したのであって、森友・加計学園問題の個別・例外・奇異さが何に由来しているか問わず、「文書管理の在り方」などという一般論・枝葉末節な論点にすり替えようとするものであり、問題の本質を曖昧にして良い話ではない。立憲民主党・共産党の国会での主張は「文書を捨てた」ことよりも役人が捨てた「動機」を問うものであり、役人にそのような行動を取らせた暗黙の力の淵源を厳しく問うものであって当然である。

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「文書を捨てた」こと自体は国家公務員法での背任行為であり法律上罰せられるべきことであり、佐川なる国税庁長官に瑕疵を問わないばかりか、国会で事実確認を拒み続けたその人物の「勲功」を認め官邸が財務省理財局長からその地位に栄転させたこと自体も全く不可解の限りである。また、そこまで「行政文書管理の在り方」を与党は明瞭化したいというのであれば、藪の中化・ノリ弁化のためにしかならないような特定秘密保護法を直ちに撤廃すべきである。特定秘密保護法の対象を拡大適用するのも行政機関の長であれば、官邸は「行政文書管理の在り方」を見直すと言いながらもその大元となる特定秘密保護法は微動だにしないというならば詭弁にしかならない。

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無謬性こそ役人の役人たる絶対的要件であれば、最後は「これこれの書類がありますからね〜」と自らに利する論理(霞ヶ関文学)と組み合わせて相手(国民)をやり込める為にも役人は言質をしっかり取り文書にして残す本能がある。隠しはすれど捨てはしない。今回はその本能さえ曲げて保管規定を破ってまでも重要な文書を彼らが破棄していることが判っている(あるいはどこかに隠しているのかもしれない)。

「行政文書管理の在り方」以前に、その管理を蔑ろにさせるしかないような何らかの力が働いた。と我々は事の背景や時間的経緯から確信しているのである。籠池氏が「神風(が吹いた)」という「神風」は一体どこから吹いたのか?その風上に安倍首相および夫人がいて、彼らが明らかにその風を送っていたことが問題の本質であって、その本質を「行政文書管理の在り方」などという総論・藪の中論にすり替えてはならない(拙稿『「藪の中」考』)。アカラサマとも言えるほどの接点を安倍首相や夫人は籠池氏や加計氏と持っており、その事自体は否定できない。つまり、不正への導出可能な線形的な論理しか存在しない。

卵か鶏か、目先か否か、という非線形的・導出不能な余興的設問と答えに終始し、安倍首相および夫人に高枕をさせてはならない。和田垣教授も採点は余興の問いへの導出不能な答えにではなく、本文の設問の答えに行ったであろう。すなわち、「安倍晋三首相および首相夫人たる安倍昭恵氏」の関与である。誰の目にも明らかな導出可能な線形的な論理しか森友・加計学園問題には存在しない。

目くらましに目をくらまされないようにしたいものだ。相撲界の内輪揉めなる余興を連日報道し、国会から国民の目を遠ざけようとするマスコミの目くらましにも。

(おわり)

posted by ihagee at 20:03| 政治