2017年08月07日

「軍人として非常なる損害(白瀬矗)」が北方領土問題の元



安倍晋三首相とウラジーミル・プーチン大統領が長門市で会談し北方領土での共同経済活動に向けた協議の開始を合意したことは記憶に新しい(2016年12月15日)。民間を含めた日本側の対露経済協力は総額3000億円規模となる。

ところが、先月ロシアは北方領土に国内法に従って経済特区(先行発展地域)を設け第三国の企業進出への道を開く方針に転じてしまった(北方領土を管轄するトルトネフ極東連邦管区大統領全権が同特区指定を政府に提案する旨を発表している)。

このことは、北方領土、即ち、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々について、ロシアが自国の法律に基づいて事業を行うように日本側に圧力をかけ始めたと理解すべきだろう。北方領土について、ロシアは主権を1mmたりとて譲らないばかりか、軍事的にも経済的にも実効支配を強める姿勢に、先の合意の日本側の意義が大いに問われている。

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明治政府による開拓事業(黒田開拓使)から歴史を辿れば、樺太千島交換条約発効後(1875年)はクリル諸島を千島国に入れ、ウルップ島からシュムシュ島までのすべての島が日本領となり、海軍大尉郡司成忠が「報效義会」を組織し(1893)、占守島開発と周辺海域の警備に当たり、さらに日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で北緯50度以南の南樺太が日本の領土となったが、太平洋戦争で日本が敗れサンフランシスコ平和条約で日本は「千島列島並びに日本国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する(第2条)」に従う立場になったが、同条約に当時のソ連は調印していないことと、千島列島に北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)が歴史的に含まれておらず(歴史的に日本以外の他国の領土になったことがない)、その千島列島の「放棄」後に帰属する国がどこかも決まっておらず、条約上、対露関係では「放棄していない」わが国の立場が、北方領土問題となっている。

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黒田開拓使とは、ロシア帝国の覇権が及びつつあった樺太に危機感を覚えた明治政府は明治3年(1870)に黒田清隆(旧薩摩藩士)を開拓使次官として設置した使節で、対露沿岸交易の可能性を探りつつ経済圏を拡大しようとする政治的野心が企図されていた(拙稿「横山松三郎と或る函館商人」)。

この開拓使が呼び水となって、日本人の漁業者が沿海州、カムチャッカ東海岸に資源(主に鮭・蟹)を求めて北方へ進出することになる。明治20年代になるとロシア側は外国人の海面漁業の規制を緩めた為、さらに日本からの漁業者の沿海州への進出に繋がった。

カムチャッカ沖に志を固めた者たちについて「一抹の航跡(函館・筑紫丸(ちくしまる))」で綴った。その者の一人であった曾祖父(明治元年生まれ)が残した手記に「郡司成忠」の名がある。

以下、手記を抜粋する。

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「26才のとき、札幌でイギリス人の経営するアルコール醸造所を引き受けて経営していました折、国策で課税が大きくなり採算がとれず閉業しました。27才のとき、函館のイギリス人ハウルが経営する田中鑛山の用度課長に就任して入山しましたが、31才で退山しました。

32才のとき、イギリス人デンビー氏経営の樺太漁業に従事しました。三井物産会社と、代議士牧口義方、福山の山本昇右エ門、越後の大島重太郎、伊勢四日市の九鬼紋七、北海道江差の永瀧松太郎氏の五氏の出資で、ロシア領ニコライエフスク即ち黒竜江の鮭の漁業に従事することになったのである。

投網五統で行う鮭漁は六千尾を以て百石といいましたが、この年の漁獲は大漁で一万数千石となり、更に幸いなことに、この年の鮭市場は高騰したため、各出資者への配当は実に十三割になりました。

翌年、また大々的に準備しているとき、ロシア官憲から日本型角網は乱獲の為、今後漁業は禁止するとの命が出てしまいました。

33才のときは、規模を小さくしてニコライエフスクに漁業に出ました。

34才のとき、ウラジオストックのロシア人と共同出資で日露漁業事務所を設置し、カムチャッカ西海岸百マイル南北の地点に投網五カ所の許可を受けました。

汽船二艘に漁夫二百五十人と漁具を満載し、その総帥となって五月に出発しました。カムチャッカの首都ペトロパロースク港に入港し、諸般の手続を終え、一週間停泊してから漁場に回航しました。

カムパコーハを根拠地とし、その前後五十(日本)里の間に網五統を建て、大きな漁獲がありました。捕った得物を塩蔵とし積取船二艘に満載して帰国させました。

その後の獲物約六千石と漁夫二百五十名を乗せてペトロパロースクから回航中のことです。占守島沖で難航し沈没する憂目にあってしまいました。

占守島に居た郡司成忠海軍大尉に助けられて上陸し待機していました。

郡司氏は報效義会で石川丸、報效丸、占守丸の三艘の帆船があり、漁夫はこの三艘に分乗しました。私は七十人の漁夫と一緒に石川丸に乗りました。十五日余りで北海道厚岸港に入港、上陸して釧路を廻り、日本輸船会社の汽船で十月末函館に帰り着きました。」

(引用終わり)

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引用にあるのは、曾祖父にとって自分史のほんの数ページ分に過ぎない。

物心ついて間もなく父母に死に別れ、10代にして意を決し家を飛び出て、神戸一の鰻屋(江戸孝)の配達夫から、洋品雑貨食料品製造業の菅谷善司方での丁稚奉公を経て、横浜居留地三十番にあったフランス人の商館レビュー商会に雇われ、夜は羽衣町の大塚法律学校に通って法律と英語を学び(親友に後に横浜貿易新聞を発行して横浜の名士となる恩田栄次郎がいる)、函館に活動の場を移した菅谷善司に付いて函館に移るという前史があり(拙稿「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」)、天津の日本租界から日本が日露戦争で占領した営口に渡り、政商となって営口の市街建設に取り組み、南満州鉄道会社の指定請負人に指定されて大連でいくつもの会社を起業経営し40代から28年間に亘って大連・新京の市街地設計を企画し(大連郊外土地株式会社専務取締役)、学校を経営し(双葉学院院長など)、輸入自動車の販売を取扱い(大連スミス自動車株式会社社長)、その間もキリスト組合教会の執事、大連区長や市会議員を務め、西勝造氏の西式健康法を資金面から支えるばかりか(西銘会会長)満州での西氏講演旅行を企画挙行し(拙稿「跋渉(ばっしょう)の労を厭ふなかれ」「一枚の舌と二個の耳」)、敗戦とともにあらかた資産を失いながらも頭脳明晰に百歳近くまで矍鑠とした生活を送った後史がある。

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出資の内外を問わず、機を見るに敏であり、一つの成功体験に囚われず、常に新たな事業にリスクを恐れずチャレンジする気宇の大きさ逞しさは明治人に多かれ少なかれ共通する気質だろう。そういう気質を許すだけのチャンスに恵まれた時代でもあった。

イギリス人ハウルはデンビーと商売上の取引があったので、曾祖父は鑛山から漁場に移る伝手があったのだろう。漁場の先には、すでに多大な犠牲を払いながらも千島拓殖事業(第二次)を報效義会と共に行っていた郡司成忠がいた。日露戦争は講和条約(ポーツマス条約)でこの地域の日本の領土を広げる結果となったが、それが却って実効支配を緩めることとなって、占守島の拓殖事業も郡司の死後は日本人一家族だけとなって、太平洋戦争での敗戦後のソ連進駐に伴い島を離れざるを得ず、拓殖なる実効支配を目的にしていた報效義会はここに完全消滅した。

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日本人漁夫の活躍が、格段に優れた漁法(投網五統)や保存法(塩蔵技術)で帝政ロシアにとってすぐに脅威となったと同じく、第二次千島拓殖時の報效義会が占守島で築き上げた経済生活圏は、魚肉の缶詰工場や鍛工場が建設され、幌延島には分村が作られ、会員も増加していき、1903年(明治36年)には、占守島の定住者は170人(男100人、女70人)にまで膨らむなど、拓殖の成果を上げつつあった。

歴史の過去に「もし」はあり得ないが、中国東北部に中国人と同化して骨を埋める覚悟で内地から殖民としてやってきた人々の後から、政治軍事的な実効支配を狙って安倍首相の祖父やら神国の軍隊がゾロゾロと入ってこなければ、ブラジル移民(日系ブラジル人)のような関係(日系中国人)のまま、今日まで当初の理念としての「五族協和」が続いていたかもしれない。大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家(満州国)なぞ目指すこともなかった筈だ。そんな独立国家など作ったばかりに、敗戦という政治軍事上の落とし前で、全てが無になってしまった。

「千島列島並びに日本国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」についても同様で、報效義会的に民間主導でアイヌ人や樺太の原住民(ニブフなど)と協和する経済生活圏を着実に広げていけば、今日の北方領土問題はなかっただろう。

「矗は軍人として非常なる損害を蒙るに至った」と政治軍事的に実効支配すべきだと、郡司を批難した白瀬矗を代表する意見が、郡司の拓殖なる民間主導の実効支配を阻害し、逆に政治軍事的イシューとして白黒付けやすくなり、挙句サンフランシスコ平和条約で片づけられてしまうこととなった。

「住んでいるから、生活しているから、原住民と同化共存しているから」と事実上の実効支配を言えたのは当初日本の側であったのに、今ではロシアの側の言い分となっている。

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難船沈没した船から曾祖父らを助けてくれたのは、郡司の報效義会であった。報效義会は占守島沖で遭難した船がどの国の船であろうと救助することを使命としていたようだ。民間であればできることも、政治や軍事が絡んでいたらどうであろうか?

あらためて、北方領土問題について、一旦、事実上の実効支配を許してしまえば、いかに解決が困難になるか、そのきっかけはロシアにあるのではなく、日本側(大日本主義に取り憑かれた政治家・軍部)が作ったのかもしれない。その大日本主義の系譜に日本会議とそれに連なる安倍政権がある(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。

(おわり)



posted by ihagee at 18:08| エッセイ