2017年08月02日

「俺がルールブックだ」はもうお断り



地上波のゴールデンタイムからプロ野球中継枠が消えて久しい。

巨人戦すら実況中継はホームの読売テレビでも扱わなくなった。アンチ巨人派であろうとジャイアンツ一軍登録選手の名前ぐらい概ね諳んじていたのは昔のこと、オロナミンCの宣伝に彼らが登場しなくなったのも巨人の顔というものがいつの間にかなくなったからだろう。今では三丁目の夕日風のCMで昔語りの飲み物になって「元気ハツラツ」はどこへやら。

代わって、本場のベースボール(MLB=メジャーリーグベースボール)の話題は尽きない。衛星実況放送もなかった1980年代、「メジャーリーグ通」で知られたパンチョ伊東(伊東一雄)さんがベースボールの啓蒙を兼ねてビデオ撮りの試合を熱心にアテレコで解説していたのを思い出したがあの時代と今では隔世の感がある。ドラフト会議の実況中継に茶の間が一喜一憂した思い出も、伊東氏へのその名司会ぶりとともに遠い過去となり、プロ野球よりもMLBがテレビの視聴率を稼ぐ時代となった。

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V9時代の巨人軍にヤクルト監督として戦った野村克也氏がその監督就任1年目(1990年)の対巨人開幕戦についてこう回想している。

『開幕前に「巨人戦は相手が10人いると思った方がいい」と何人もの監督経験者から聞いていた。要は、審判が巨人贔屓という意味。それを痛感した試合だった。2点リードの8回裏、1死二塁で篠塚和典の打球がライトポール際に飛んだ。このシーズンから審判が6人制から4人制になったが、一塁の塁審が右手を回すんだよ。ビジター三塁側ベンチの俺の座る場所からは、ライトポールがよく見えた。フェンスギリギリでポールの外側に飛び込む、明らかなファウルだった。それを審判は「ポールを巻いた」と言い張るわけ。本当に相手は10人いると確信したね。これで同点となり、延長14回裏に押し出しサヨナラで負け。開幕で躓いたこのシーズンは5位だったよ。』(2017年3月26日付NEWSポストセブン)

複数の審判の実名を挙げ巨人贔屓をしているものがいると公言したのは「俺がルールブックだ」の語録と共に名物球審として知られていた二出川延明氏である。野村氏とも少なからぬ因縁がある。

「気持ちが入ってないからボールだ」と判定した二出川氏に捕手として猛抗議したのが現役時代(南海ホークス)の野村氏だった。「俺がルールブックだ」の二出川氏の前に、ルールブック上の抗議などさぞやムダなことだったのだろう。

「写真が間違っている」も二出川語録で、本塁クロスプレーでのアウトの宣告も、翌日の新聞の写真から捕手がランナーにタッチしていないことが明らかになった。このミスジャッジをセリーグ会長から指摘されるや、二出川氏は新聞の写真を一瞥し「会長、これは写真が間違っているんです」と平然と言い放ったとされる。

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ルールブックがあっても審判が「俺がルールブックだ」と尻をまくったらどうなるだろうか?野村氏のように理詰めで抗議したところで判定が覆らないのなら、ルールブックなんかよりも、次からは審判に贔屓してもらえるようにプレーするかもしれない。「新人の君に教えといてやる。プロの投手にとってど真ん中はボールなんだ」と二出川氏は当時ルーキーだった稲尾和久氏に説教したとされるが、このような越権行為さえも選手は飲んでしまうし、巨人贔屓の審判がいるならば勝ち馬に乗らんばかりに巨人軍に入ろうと思う者もいたかもしれない。火の無いところに忖度なる煙は立たない。その火こそ「俺がルールブックだ」と誇示する者の存在である。

「写真が間違っている」と一蹴できた時代から詳細な映像でストライクゾーンを誰も追視できるようになった(古くはノムラ・スコープ)、そして、WBCなど国際試合の機会が増え選手が従うルールブックは一つであっても実際の運用に解釈の幅があってその解釈が審判の主観に委ねられているのであれば、ストライクゾーンなどの判定で公平性は担保できない時代になった。ベースボールの世界では「俺がルールブックだ」と言うような審判は国際的に通用しない。

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このような時代の流れを受けてMLBでは各審判員のジャッジを可能な限り均一化をすること目的として(ルールブック通りのストライクゾーンに従ったコールをするべき)、2001年度シーズンより「審判に情報を提供するシステム」、つまりクエステック・システム(QuesTec System)を導入している。このシステムは球審の判断の事後チェックに用いられている。イチローも「球審自身がゲーム後にチェックするだけなら良いと思う。それによってジャッジの精度が上がるなら望ましいことだ」とこのシステムの運用を肯定的に評価しているようだ。

審判員の主観や感情に判定を委ねず、可能な限り客観的に「ルールブック」に立ち返ろうとする動きはプレーの公平性を担保する上では重要なことである。「俺」なる人が治める試合よりもルールブックに従おうとする試合に、観客はフェアプレーを期待し選手は邪念なくスキルを磨くことができる。

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「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」などは二出川氏の時代に許されたことであって、現役のプロ野球の審判員がいまどき公言したら大問題となるだろう。判定やプレーの公正さを担保することができなければ、再び<黒い霧>にプロ野球の存立が脅かされるだろう。

しかし、「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」と公言して当たり前が昨今の日米の政権である。

「俺がルールブックだ」の如く「私がそう思えばそれが法律(解釈改憲)」と憲法さえも軽んじ、「写真が間違っている」の如く「総理のご意向」とはっきり記載のある記録文書を「怪文書」と一蹴し、「指摘は一切当たらない」と国民を代表する野党の主張に耳を貸さない。「新人の君に教えといてやる」の如く、行政府の長に過ぎない内閣総理大臣の立場で憲法を変えよと立法府に越権的な介入をする。政権の方針に物言わぬ官僚ばかりを集めるために人事決定権をちらつかせ(内閣人事局)、政権から贔屓してもらえるようにプレーすることを官僚に求める。国会の正面切った野党からの質問も全て「印象操作・レッテル貼り」なる「ボール球」扱いにしてまともに答えようともしない。「ルールブック通りのストライクゾーンに従ったコール」など一度としてこの政権では聞いたことがない。ルールブックに従って相手と同じ土俵に立つことをしない。言葉の意味を巧みにずらす変則球のみならず「(前川氏への)人格攻撃」などボールにまで小細工をして、ルールブック通りならば本来罷免や退場(総辞職)となるべきところを、「こんな人たちには負けない」と自国民に向かって感情剥き出しの滅茶苦茶な政権運営を続けているのである。法治主義を等閑にしてトモダチ的人治に過度に傾斜し議会主義すら省略する(参院法務委員会での法案採決を省略して本会議で「中間報告」を行い「共謀罪」を強行採決した)。籠池氏は葬り加計氏は助けるのも贔屓筋かそうでないかという安倍氏個人の勝手な距離感でしかない。

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このような政権の暴走を監視する為のクエステック・システム(QuesTec System)を国民の側は持つべきところを(例えば、憲法裁判所)、逆に政権側が国民の言論を監視する為のシステム(共謀罪)を成立させてしまった。野球で喩えれば、どの観客が球審のコールに野次を飛ばしたのか観客に混じった警備員がそっと球審に伝え、その観客は「この人たち」扱いで退場処分(拘束・逮捕)とするシステムにさしずめなることだろう。

国会記者クラブの政治部記者たちの中で、一人果敢に官房長官に歯に衣着せぬ質問を浴びせた東京新聞社会部の女性記者を「あんな奴を二度と会見場に入れるな!これはクラブの総意だからな!」と同新聞のキャップに怒鳴り込んだ読売新聞の官邸キャップは言ってみれば、その警備員に当たるだろう。国民の側に立って官邸を監視すべきウォッチドッグが官邸の飼い犬になって国民の知る権利に噛み付けばもはやジャーナリズムを名乗る資格はない。産経新聞も読売と同様、官邸の下足番となって、執拗に件の女性記者をその紙面で誹謗中傷している。

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「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」と安倍首相と同じくトモダチ・身内重用の人治主義で強引に政権を運営してきたトランプ大統領に対して、連邦議会は行政監視の役割をしっかりと果たしているように見える。財政面(予算審議)と人事面(連邦職員の人事承認)そして弾劾という手段は大統領の暴走への歯止めとなっているようだ。トランプという「俺さま」存在が却って、議会にとっては行政監視の実効性を高める機会に、マスメディアにとっては言論の自由の意味を再確認する機会になっているのは興味深い。大統領報道官に対して丁々発止で質問を浴びせかける記者の一人として、ホワイトハウスの下足番を買って出る者はいない。

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(まさに丁々発止)


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(予定調和の指名制)


それらに比して、行政監視の実効性を次々と削ぎ落とすばかりか、議会手続すら省略し、言論や表現・集会の自由に箍を嵌めるなど国民監視の実効性を着々と高め、マスメディアを懐柔して行政側の提灯持ちにさせているのが安倍政権である。安倍首相自身の過ぎた人治主義は饗応関係ばかりのトモダチ以外に知力を得ることができず、内閣改造を行おうにも人材が払底する結果となっている。その貧する最たるものが首相自身であると認めれば内閣総辞職なるべきところを改造で済ますとは全く噴飯ものである。まさに貧すれば鈍し悪手は悪手を呼び嘘の上に嘘を塗り重ねる始末になっている。

安倍首相に対して「退場」と我々国民ははっきりジャッジしコールしなければならない。
「ルールブック通りのストライクゾーン」にアベノミクスを含む安倍政権の諸政策が投じられたか否かを我々国民が総括すべき時期にある。ならば、6年間の独善専横的な政権運営での国民への背信(虚飾・粉飾)が白日の下に晒されることだろう。

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プロ野球も政治も「俺がルールブックだ」はもうお断りである。そんな時代ではない。

(おわり)

posted by ihagee at 17:48| 政治