
「<忖度>する国に<共謀罪>とは笑止千万」でも触れたように、我々日本人は、「実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式」(高文脈文化)の社会にどっぷりと浸かって生きている。<忖度>とはその中のコミュニケーション手段である。
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<忖度>の語源は何だろうか?
古代中国の「詩経」の一節にその意味が由来しているようだ。
奕奕寢廟、君子作之。
秩秩大猷、聖人莫之。
他人有心、予忖度之。
躍躍毚兔、遇犬獲之。
南方熊楠は「十二支考・羊に関する民俗と伝説」の中で以下のように触れている(要約)。
生贄にする牛が慄(おのの)く姿は忍びないから、殺されても鳴かない羊を代わりとするように斉王が命じたが、王は高価な牛を惜しんで廉価な羊に代えたに違いないと百姓たちは噂し合った。孟子は王に「あなたは牛をご覧になって、羊はいまだ見ておられない」からだと弁護すると、王は「詩経に、他人有心、予忖度之=他人心あり、私はこれを忖度する、とあるが、その通りで、私は自分でやっておきながら何の訳ともわからなかった。」と言った。羊は牛ほど死を懼れぬ位の事は人々は幼い時から余りに知っていて、かえってその由の即答が王の心に浮かばなかったということである。
つまり<忖度>とは、行いの訳が他人の心にあればそれを私=王は、忖(お)し度(はか)るべき、即ち、上に立つ者ほど、下々の心が行いの訳になっていなくてはならない(下々の気持ちを推しはかるべき)という意味である。
中国語は日本語よりも余程客観的な言語なので、コミュニケーションも我々よりも言葉を多く要する。その昔、科挙(高級官吏)に要求された能力は膨大な漢字の習得を含み全て言葉に依存していたのも頷ける。ゆえに忖(お)し度(はか)る先の心も客観的に誰もが認識できるような事となる(「羊は牛ほど死を懼れぬ位の事は人々は幼い時から余りに知っている」)。それ位の事は王たる者は知って行動すべしということだ。
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<忖度>なる言葉がわが国に移入され、元々の意味とは正反対の、目下の者が目上の言葉なき命令を読み取って先回りして行動するという、わが国特有のコミュニケーション手段となったことは興味深い。
二人以上の合意がなければいわゆる森友学園・加計学園問題は存在しない。誰が誰の指図で動いたのか未だ曖昧のままであるが、その決定過程で安倍首相が関係者に<忖度を要求する>圧力を加えていたという証言が相次いでいる。安倍首相は地元自治体や担当大臣が客観的に判断したことであって、<忖度>などなく自身一切関与していないと言う。
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森友学園問題で安倍首相は
「私や家内がバックにいれば役所が何でも言うことを聞くなら、(山口県)長門市は私の地元で予算(要望は)全部通るはずだが通ってませんよ。行政の判断を侮辱する発言はやめてほしい」と言う。(文春オンライン・3/18配信引用)
加計学園問題で安倍首相は、
『「私の意向かどうかは、確かめようと思えば確かめられる。次官であれば『どうなんですか』と大臣と一緒に私のところに来ればいい」』と言う。(時事ドットコムニュース・6/1配信引用)
「理事長が友人だから、私が政策に影響を与えたんじゃないかというのは、まさに印象操作だ」(ニッポン放送・6/1番組中)
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「(首相たる)私や家内がバックにいれば」だけで命令は自ずと目下の者に発動されるし、目上の者に一々言葉を確かめる必要もなく、「どうなんですか」も不要な高文脈文化に役人たちはいる。不要と言うよりも、高度な用件ほど緘口を要求されるし、一々官邸に出向いて言質を取るような役人は内閣人事局から睨まれて昇進できないだろう。中央官僚にとって、内閣人事局が<忖度>の梃子の役割を果たしていることなど、首相も役人たちも重々理解している筈である。また「理事長が友人だから」こそ、その友人とは然るべく距離を置くべきところを、ゴルフや食事で頻繁に饗応する関係を続けているのだからそのような印象を発信しているのは世間ではなく安倍首相本人に他ならない。ゆえに、安倍首相のこれらの発言は一つとして意味を為していない。
内閣人事局なる<忖度>の梃子を官僚の「アンダーコントロール」に用いているにも拘わらず、森友・加計学園問題については<忖度>は働いていないと安倍首相は言いたいようだ。そして「私が指示したというなら証拠を示せ」と、欧米の低文脈文化圏の理屈を繰り出してくる。証拠を必要としない<忖度>を普段使っておきながら、<忖度>があるのなら証拠を出せとは、高低の文脈文化の違いを体よく使い分けているに過ぎない。
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斉王の時代の元々の意味での<忖度>:「他人有心、予忖度之」を正しく理解する者ならば、日頃の自らの行いが下々の者の目に誤って映って(おかしな印象にならないように)身を厳しく律し「私や家内がバック」にならないよう公務以外の事には関わらないようにするだろう。また、「私の意向」であれば必ず文書を以てその旨を下々に伝えて曖昧がないように努め、文書になっていない「私の意向」なるものは一切考慮しないように訓示することだろう。
これらを安倍首相に照らしてみると、
その一つとして、安倍首相は全く果たしていない。
日頃の自らの公私混同の振る舞いを棚に上げて、下々の目の映り方の方が悪い(「印象操作だ」)と言い逃れるようでは、つまり、上に立つ者としての心得すらないということだ。
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<忖度>のそもそもの意味、上に立つ者ほど、下々の心が行いの訳になっていなくてはならない(下々の気持ちを推しはかるべき)を理解している人こそ、上に立つべき人である。
これを前川喜平前文科省事務次官に照らしてみると、
上に立つ者の心得があるのは、前川氏であることがわかる。
菅官房長官が前川氏に対する人格攻撃に用いている<出会い系バー通い>については、その事実は前川氏が説明した通り「貧困女性の実地調査だった」であったことが同バーで30回以上会った女性の証言から明らかになっている。
(9分55秒辺りまで)
そればかりか、教育現場に直接足を運ぶことも厭わなかったようだ(以下一例)。
『埼玉の夜間中学運動31周年を記念した集会が29日、JR川口駅東口にある複合施設「キュポ・ラ」で開かれ、文部科学省の事務方トップとして集会に初参加した前川喜平事務次官が「(夜間中学は)教育の場で重要な役割を果たしてきた」と評価し、文科省として公立夜間中学設置を推進する考えを示した。』(毎日新聞埼玉版・2016/10/31配信引用)
本来ならば居丈高に威張りくさっても当然の事務次官の立場にあって、むしろ驕り昂ぶることなく人当りの優しい気さくな人との人物評ばかりが聞こえてくる。社会の底辺の人々に対する気持ちの寄せ方は政治家すら及ばないと教育関係者からの人望は篤い。
教育の裾野を広げようと日々格闘する姿は、「地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮」を作った祖父譲り筋金入りの信条があるからだろう(『「私の尊敬する人」〜前川喜作氏について〜平成20年11月・中曽根弘文』)。
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「この頃一般に、入社試験にまで母親がついてくるとか、結婚しても親離れしない息子、過保護で子離れできない母親の悲劇などが問題になっている。いかにも濃密な親子関係のように言われるが、実はお互い、自分が大事で、自分のために相手が要る、甘やかし、狎れあっているだけのことなのだ。人間として相手を尊敬し、認めているとは私には思えない。」(岡本太郎)
「宿命の子」などと還暦過ぎても母親に公言させるばかりか、その交友関係も結局は「自分が大事で、自分のために相手が要る、甘やかし、狎れあっているだけ」だけという安倍首相と、「人間として相手を尊敬し、認め」ることに情熱を傾ける前川氏のいずれが、上に立つべき者に相応しいかは、<忖度>の意味の違いからはっきり見えてくる。

安倍首相と昵懇のジャーナリストからレイプにあったまま、見えざる大きな力によってその犯罪が揉み消されてしまった女性が公に顔を曝してまで必死の訴えをしている(「私は魂を殺された」)。かたや、<出会い系バー通い>で最も多く前川氏と会った女性は、今は会社勤めをして、社会の底辺から「前川さんに救われた」と今回「救ってくれた恩人」のピンチに居ても立っても居られず真実を証言したそうだ。
魂を殺された者と救われた者、圧殺しようとする者と救い出そうとする者。何たるコントラストだろう。これは、上に立つべきでない者と立つべき者の違いでもある。
(おわり)
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