2017年05月26日

<忖度>する国に<共謀罪>とは笑止千万



安倍首相は「連合国側が勝者の判断によって断罪がなされた」(2013年3月12日、衆院予算委)と公言し、東條英機首相ら A 級戦犯らの共同謀議に基づく国際的な「侵略」と位置づけている「東京裁判(極東国際軍事裁判)史観」を否定することが戦後レジュームからの脱却だと信じているようである。

----

渡部昇一氏はその著書「日本を嵌める人々:わが国の再生を阻む虚偽の言説を撃つ」の中で、『(東京裁判が)歴史的事実として「共同謀議」など存在しなかった等々の重大論点に、まったく触れていません』と書く。

戦時体制下、日本の指導者たちに共同謀議などなかったのだから、<共同謀議>なる裁判の争点は元々存在せず、従って<共同謀議>の存在を以て国際的な「侵略」と位置づけている「東京裁判史観」は否定されるべきだとの論である。

----

田久保忠衛氏は、『「戦後70年安倍首相談話」に関する意見交換のための拡大政策委員会 報告書(速記録)2015年8月 公益財団法人日本国際フォーラム』の中で、『それから、共同謀議というと、ナチはヒトラー1人でやった。あるいは側近とやったと。日本は満州事変の前というのは、犬養内閣の前ですから、濱口、犬養内閣から東條内閣まで十何人いて、巣鴨に行って初めてお目にかかりましたってあいさつをしたとの話もある。それがどうして共同謀議をやるか。一番茶番だというのは、共同謀議を証明しようとして、日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまったのがあの東京裁判であります。この東京裁判をもとに全ての解釈をするというのは、これはとんでもないことだろうと思います』と言う。

田久保氏は日本会議の会長である。

「日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまった」と田久保氏は言う。つまり、時の指導者たちはお互い面識もなく言葉も直接交わしていないのに謀議などあり得る筈がないということらしい。


「日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまった」とは、
ナチ党と親衛隊、突撃隊、ゲシュタポを含む国家と党の代理人を訴追したニュルンベルク裁判では、「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)、ゲシュタポ、その他の組織が一味となった全般的共同謀議」が立証されたニュルンベルク裁判と対比して言っているのだろう。

----

<共同謀議>は、そもそも英米法の論理で、違法行為を共同して行うことを2人以上の者が合意すること。コモン・ローでは,共同謀議 conspiracyの合意そのものが処罰の対象とされ、それを実行に移したか否かは重要でなかった。

この法的思考と立証を可能とする素地としては、「言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる」低文脈文化とそれに最適なコミュニケーション言語がある。文化人類学者エドワード・ホールが『文化を超えて(英語版)』(1976年)の中で、その最たる言語がドイツ語であり、その逆(高文脈文化)の最たるが日本語だと言う。

「高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式」であり、その最たる言語は日本語ということだ。

その文脈文化の違いは以下の例(電話をかける場合)で理解できる。英語もドイツ語と同様、低文脈文化言語であることに変わりはない。

日本語:
「Aさんはいらっしゃいますか?」と電話口で言うと、
電話の受け手が日本人なら、「電話をしてきた人はAさんと電話で話したがっている」と推測し、電話をAさんに取り次ぐ。

英語:
「Aさんはいらっしゃいますか?」と電話口でいうと、
「はい、いますが。ご要件はなんでしょうか?」と逆に聞かれる。「何」をどうするまで、推測できないのである。
日本人とて英語で電話する際に、
「Aさんはいらっしゃいますか?(Is Mr. A there?)」とは言わない。
「Aさんに電話を取り次いでいただけますか?May I speak to Mr. A?」とはっきりと言葉で要件を伝える筈である。

例示のように、最小限の言葉でトントンと物事が進むのが我々の日常であり、「実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される」ことに馴れ切っている。これが、「高文脈文化のコミュニケーション」を表わし、その良い面では「おもてなし」の心を育んでいるのかもしれない。欧米人が感動とともに発見するのも、彼らの文脈文化圏では「言葉にされていないのに相手に理解される」ことは稀有だからだ。

「日本って素晴らしい」「日本人は凄い」と外国人たちに言わせては我々がうっとりと悦に入る、この頃大流行大増産のテレビ番組も多くはこの文脈文化の高低の落差を利用している。

----

しかし、「高文脈文化のコミュニケーション」は「おもてなし」のように良い面ばかりではない。悪い面が連日ニュースとなっている。それが<忖度>というコミュニケーションである(<忖度>は辞書の上では良い意味と悪い意味の両義があるが、ここでは悪い意味について触れる)。

森友学園問題で、籠池理事長が日本外国特派員協会で記者会見した際に(2017年3月23日)、その場の外国人記者たちが理解に苦しんだ言葉が<忖度>であった。籠池氏の「大きな力が働いた」「神風が吹いた」なる発言が不明瞭とのNYタイムズ記者からの指摘に、籠池氏が「安倍首相または夫人の意志を忖度して動いたのではないかと思っています」と言い換えたが、その<忖度>という言葉がさらに意味不明瞭と混乱を招き、結局、その場の通訳の一人が「reading between the lines(行間を読む)」等々、説明に窮する羽目になった。「reading between the lines」ですら、英語上は言葉在りきが前提の推測の範囲なので、言葉すらまともになく「空気を読む」に等しい<忖度>がその説明で彼らに理解されたとは思えない。

<忖度>なるコミュニケーションの手段が存在しない低文脈文化圏の記者たちにとって、それが何たるか理解できないのは当たり前だろう。

----

放送プロデューサーのデーブ・スペクターは朝日新聞デジタルで、『「忖度」は、便利なようでずるい日本語。「よろしくお願いします」って、色んな意味を含み過ぎて英訳できない。その悪い部分が前面に出たのが、森友学園の問題なんだと分かった。当人たちはその自覚もなさそうで、なおさら怖い』と言う。

「言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる」低文脈文化圏の人々からすれば、<忖度>に代表される日本語の<高文脈文化>はときとして「ずるい」そして「怖い」と受け取られる。

『(東京裁判が)歴史的事実として「共同謀議」など存在しなかった(渡部昇一)』、「日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまった(田久保忠衛)」に話を戻すと、彼らの『「共同謀議」など存在しなかった』という主張は、「言葉に表現された内容」がなければ裁判上「証明できない」と言っているだけで、天皇陛下を「御光り」と担ぎ上げてその「御信任」の下で<忖度>が<共同謀議>と同義であった歴史的事実が「存在しなかった」ことと同じではない。

それらに共通するのは、<忖度>に代表される日本語の高文脈文化特有のコミュニケーションこそ<共同謀議>の素地であるということを自覚しない「怖さ」であり、文脈文化の違いに逃げ込む「ずるさ」である。

「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>と言っただけで、その意味するところを100%理解できる人々が現政権の中枢を占めている「怖さ」である。神国説が科学的考察に値する思想・論理体系を持たず専ら<至誠>なる精神主義に拠っているのも、言葉や論理を要しない高文脈文化の表れなのだろう。靖国に玉串を捧げ拝礼するだけでお互いに合意形成し、「国民の皆さんに」何かしら忖度を要求する「怖さ」でもある。

従軍慰安婦も南京事件(ジェノサイト)も「証明できない(言葉を残さない)」我々の文脈文化の「悪い部分」を「そのようなことは存在しなかった」と付会するに過ぎず、歴史的事実まで消し去ることはできない。この「悪い部分」を用いる日本政府側のずるさが韓中との問題の解決を阻害し続け、その歴史的事実までも存在しなかったと安倍政権下では歴史の書き換えが行われつつある(歴史修正主義)。

上述の電話の例で言えば、
「Aさんはいらっしゃいますか?」と言ったとしても、「電話を取り次ぐよう相手に要求したことなど有り得ない」と言うに等しい。それが正しいということならば、<共同謀議>を否定する時だけ、低文脈文化の論理を寸借するという<ずるさ>でしかない。

----

日本語の高文脈文化という「(ときとして)ずるい」コミュニケーションに浸り続けてきたのがわが国であり、そのコミュニケーションを最も利用してきたのが現政権であることは、森友学園・加計学園問題での<忖度>が象徴している。

何一つ確たる証拠がないと疑惑を全否定する首相だが、これも<忖度>なる<共同謀議>を否定する時だけ、普段は使いもしない低文脈文化の証拠論理を拝借するという<ずるさ>だろう。

森友学園問題での近畿財務局や財務省での保管規定のある公文書の破棄・黒塗りや、加計学園問題での証拠書類の怪文書扱いや証言者(前川喜平前文科省事務次官)に対する陰湿な人格攻撃(菅官房長官)も「証明できない(言葉を残さない)・証言させない(社会的信用を失墜させて)」とすることによって「そのようなことは存在しなかった」と付会しようとする我々の文脈文化の「悪い部分」の発露である。

わが国がグローバリズムを国際社会に対して標榜するのであれば、日本語の高文脈文化の抱える「ずるい」コミュニケーションから、我々が脱却することでなければならないだろう。グローバリズムの相手の多くは「言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる」低文脈文化圏にあるからだ。

「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案を巡り、ケナタッチ国連特別報告者が論点を文章にして示したのに対して、日本政府側(菅官房長官)が「全く当たらない・不適切だ」と感情的に反応した。「論理的に意志決定される・言葉に基づく」に対して「感情的に意志決定される・一般的な共通認識に基づく」という低文脈文化と高文脈文化の違いがここでも如実に示されている(エドワード・ホールの比較例に従うと)。

----

英米法の論理、つまり低文脈文化を素地とする「国際組織犯罪防止条約(わが国は未加入)」との整合を「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案で図る上は、「国際組織犯罪防止条約」上の<共謀>とその要件は同じだろうが、そのような素地のないわが国に当て嵌めると、どのような事が起きるのか?ケナタッチ国連特別報告者をはじめとして国際社会の知性はそれを懸念しているのである。

最小限の言葉、目くばせ程度でも、トントンと物事が進むのが我々の高文脈文化で、森友・加計学園問題のように大事なことほど、口に出さず「阿吽の呼吸」や「空気を読む」でお互いに合意形成をする社会に我々は生きている。

<共謀共同正犯>が刑法第27条2項「二人以上で犯罪の実行を謀議し、共謀者の或る者が共同の意思に基づいてこれを実行したときは、他の共謀者もまた正犯とする。」と定められているのも、このような言葉にせずとも合意形成をする我々の社会があるからである。

<共謀罪の趣旨を含む>組織犯罪処罰法改正案が成立すれば、謀議の要件が口に出さなくても<忖度>など内心の合意が推定される方向へ拡大解釈される虞がある。未遂以前の準備段階までも法の網にかけようとすれば、当局は憲法で保障されている個人の内心の自由まで常に監視することになる。

前述の例に従えば、英語なら「Aさんはいらっしゃいますか?」と言ったとしても「電話を取り次ぐよう相手に要求したこと」にはならないが、日本語なら「電話を取り次ぐ」合意形成があるとみなされるといった具合に、口に直接出さなくても内心の合意が推定される方向に法律が拡大解釈・適用され、その内心の合意を常に警察が監視することになるかもしれない。ビッグデータ、人工知能=AIとマイナンバーカードなど個人情報を組み合わせれば、任意の条件での総国民のフィルタリングなど容易だろう。

つまり、ケナタッチ国連特別報告者が「プライバシー保護」の措置に欠けるとの指摘は、我々高文脈文化特有の、口に出さなくても互いに合意形成する社会だからこそ、当局が探りを入れるとすれば、それが個人の内心となることを懸念しているからであろう。即ち、メール、SNSや電信電話上の情報の監視・傍受の常態化であり、思想・信条の調査であり、その中から謀議を推定することであり、その過程で本来対象とならない一般市民も個人が特定される(プライバシーが侵害される)虞である。

----

<忖度>する国に<共謀罪>とは笑止千万、いや、危険極まりない。あの治安維持法のあった時代と何一つ我々の文脈文化は変っていないからだ。

(おわり)


posted by ihagee at 17:38| 政治