ジェイムズ・ウィットコム・ライリー (James Whitcomb Riley)の詩 :
「さあさあ、少女よもう泣かないで
泣かされたって知ってるよ
若々しい夢の虹の輝きも今となっては
在りし日の事ども」
There, little girl don't cry, don't cry,
They have broken your heart, I know,
And the rainbow gleams of your youthful dreams
Are things of the long-ago.
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アメリカの大富豪アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト(Alfred Gwynne Vanderbilt)からポルトガルのマニュエル国王に至る世界的に名だたる色男たちがギャビィの足もとに群がり、男爵や伯爵が彼女に求婚したとまことしやかに囁かれたが、その中でギャビィを射止めたのは1千万ドルの資産を持つ若き大富豪 エリック・ロダー(Eric Loder)だった。獣脂業(蝋燭や石鹸の原料)で稼いだ金だったが(同業者は下層市民が多かった)、彼の一族は社会的地位を得、その一人は准男爵となった。
エリックとの挙式は1912年2月29日にウィンザーの聖エドワードローマカトリック教会で執り行われることになった。日の出前から数千人の見物人が押しかけていた。午前10時30分に新郎エリックが到着し、新婦ギャビィの到着を待った。しかし、いくら待てどもギャビィは現れず挙式は取り止めとなった。美人の気まぐれかと人々は思ったようだ。婚姻によって法的にギャビィが承継する財産と収入にエリックが事前にサインをし忘れ、そのままでは挙式を行うことができないとギャビィが予感したのが真相のようだ。挙式の準備に忙殺されて法的な書類を見過ごしたことをエリック自身が認めている。
エリックは法的手続を済ませ、その3日後にギャビィと挙式をあげた。しかし、ギャビィの最初の予感は正しかったようだ。結婚1年を経ず彼らは不仲となり、ギャビィは離婚を望んだ。移り気な億万長者は完璧な美しさに飽きて、美しさに欠けるが面白みのある女性に慰みを得るようになったからだと、ギャビィの舞台仲間が証言している。彼らは2年後に離婚した。
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ライリーの詩に書かれた少女の一人にギャビィを重ね合せることができるように、その当時ロンドンで美貌と名声に恵まれながら、結婚が「在りし日の事ども」となった少女に、ギャビィと同じ舞台を踏み彼女のライバルだったリリー・エルシー(Lily Elsie)、ギャビィがその代役を務めたガーティ・ミラー(Gertie Millar)、また数々のミュージカル・コメディに出演しその美貌で人気が高かったメイ・エザリッジ(May Etherridge)といったギャビィの同業者たちも奇しくも重なり、結婚相手(およびその家系)に問題があったことで共通しているようだ。
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ガブリエル・レイとエリック・ロダーのケースは、最初から全く相容れない関係だったと言うのが適切だろう。ギャビィはエリックよりも年上である上に、生まれながら劇場しか知らないギャビィと、レーシング(車)やハンティングといったアウトドアに入り浸る一族の出であるエリックが結婚すること自体が彼らの友人たちにとっては驚き以外の何物でもなかったようだ。

(レーシングカーに興ずるエリック・1912年)
(エリックと離婚後)ギャビィは1915年にディリー劇場のミュージカル・コメディ “Betty” で舞台に復帰し、翌年、ロンドン・ヒッポドローム劇場での “Flying Colours” に出演した。彼女のダンサーとしての才能や創造力は未だ健在だったが、心は傷ついたままだったのだろう、これらの興行はウエスト・エンドに彼女が姿を見せた最後となり、その後ほぼ10年間、パントマイム劇や演芸の地方興行に時折姿を見せる程度となる。

("Betty"で舞台復帰したギャビィ・1915年)
ギャビィが受け取った最も変わった贈り物は、巨大なバスケットの中に植えられた葡萄の樹だった。8年育成し20余の房を付けたバスケットは男4人で運ぶのがやっとだったそうだ。しかし、ギャビィは生涯、金になる仕事にありつくことができなかった。メリー・ウィドウに出演した際も、ライバルのリリー・エルシー(Lily Elsie)に自分の古着を買って貰わざるを得なかった程、ギャラが少なかったのである。

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やがて、鬱と飲酒という破滅的な組み合わせが、彼女のエキセントリックな性格と相乗してあらゆる面で健康を損なうこととなった。婚姻によって法的にギャビィが承継する財産の一部があったのだろうか、かつての結婚相手であったエリックの差しのべる金銭的援助をギャビィは受取り続けた。
しかし、1936年になると、ギャビィは精神を病み、精神病院に収容され40年の間、退院することもなく白い壁に囲まれたまま90年の長い生涯を終えた(1973年5月21日)。


(ガブリエル・レイの生家に掲げられたブルー・プラーク (blue plaque))
彼女の容姿はその全盛期のポストカードにあるままに人々の記憶に残され、未だに「英連邦で最も美しい女性」とのタイトルを保持し、当時世界一多く撮られた写真とポストカードの中で生き続けている。
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偉大なファッション・フォトグラファーであり、ミュージカル「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」の衣裳デザイナーでもある、セシル・ビートン(Cecil Beaton)は、エドワーズ版メリー・ウィドウ(1907年)を観たことは物心がついた頃の最初の記憶の一つとなっており、その遠い昔の記憶が彼のファッション・フォトグラフィーに明らかに影響を及ぼし「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」のコスチュームを作り上げたと述懐している。そして、”The Glass of Fashion” 誌(1954)に彼はギャビィについて一稿を投じている。


(セシル・ビートンとA. ヘップバーン、ギャビィ)
「ギャビィとオペレッタで共演したリリー・エルシー(Lily Elsie)がギャビィのメーキャップの秘密について私に語ってくれたところによると、そのメーキャップは点描手法で、舞台に上がる際は、藤色と緑色のドットを目の端に、小さな赤色と藤色のドットを鼻孔の端に化粧していたそうだ。まるでスーラ(点描画の大家)が細心の注意を払ってカンバスに向かって仕事をするように、瞼とこめかみに異なる色で陰影を付け、コーラルからボアドローズ(bois de rose)色に変化するように頬を化粧していたようだ。テラコッタ・パウダーを付けた野うさぎの足の毛でできたブラシで顎をメイクし、耳たぶと鼻の先端はサーモン・カラーで軽く叩いてメイクを仕上げたようだ。このようにメーキャップしたギャビィはチャイナ・ドールのようにエナメル色に観客の目に映ったようだ。そして、他のどんな女優よりも写真家を前にしていかにポーズを付けたら良いかこのダンサーはよく知っていた。ギャビィが写真の為に世界で最初に整形手術を受けた先駆者の一人であることに疑いはない。彼女は鼻の下に繭糸を埋め込んでどちらの側から見ても鼻梁が彼女が望む高さとなるように整えることができた。才能は程ほどだったがイマジネーションに富んだギャビィはその短いキャリアの間、自身を "小さな芸術作品" に仕上げたのであった。」
ここに、ギャビィの美貌の秘密と<ファッション・フォトグラフ>の前駆体としてのギャビィの存在が明らかになった。
(つづく)