<科学技術>は英語ではScience & Technology と表現する。
つまり、<科学と技術>であって、その二つが最初から混合(混同)した概念として受容されているのがわが国である。
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<科学技術>に於いて明治維新後のわが国が手本としたドイツでは、工学(実学)をアカデミックな研究科目(学問領域)と認めず、工科大学として長らく区別してきた。エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般は<技術=Engineering、広義のTechnology>であって、学問領域即ち<科学=Science>ではないという<科学=Science>を重視する傾向が歴史的に長く続いたわけだが、日本はこの区別に従わなかった。
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わが国が明治維新後の近代化の過程で重視したのは、産業化・工業化に寄与する<技術=Technology><工学=Engineering>の西欧先進国からの導入であり、その目的から工部大学校が先ず設立された後、工部大学校を統合する形で東京帝国大学が誕生した経緯(世界で初めて工学部を有する大学の登場)があり、ドイツと異なり<技術=Technology><工学=Engineering>を重視する傾向にある。
明治9年に東京帝国大学にドイツから招聘されたエルヴィン・フォン・ベルツ博士(日本の近代医学の父)は在職25年の講演で<科学=Science>の精神(「科学の樹」)を学ぼうとしない日本人に警鐘を鳴らす言葉を残している。

「日本人は科学の成立と本質について誤解している。何か機械のようなもの、すなわち単に成果を上げ、無造作に別の場所に移して仕事させる機械のように考えている。科学の成長には一定の風土と環境が必要であり、生き物である」「日本人は外人教師を科学の果実を切り売りする人として扱った。成果を生み出すはずの科学の精神を学ばずに、外国人教師から最新の成果物を受け取るだけで満足してしまった」
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西欧先進国に於いて<科学=Science>というアカデミックな研究科目(学問領域)の発展段階でギリシャ時代から共に発展してきた<哲学>をわが国では<科学技術>の範疇の外に追い出したのも、その<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)を一々学ぶのは時間がかかり難渋であり無益だと明治政府が考えたからかもしれない。
産業化・工業化に寄与すべく「最新の成果物を受け取る」ことに専念した為、日本は建築や医術などの社会基盤技術をいち早く発展させることができたのだろう。
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何故ドイツでは<哲学>が<科学=Science>というアカデミックな研究科目(学問領域)と同体に発展してきたのか?それは、時として対立する宗教から離脱し<科学=Science>の発展を推し進めるため基礎付けとして<哲学>が重要とされたからだろう。「それでも地球は動く」と宗教裁判でガリレオが呟いたように、宗教裁判にかけられながらも命がけで戦ってきた<科学=Science>の歴史が背景にあり、その宗教から離れるためには<哲学>を必要としたのである。
デカルトは「根は哲学、幹が自然学、枝は諸学であり、医学、工学、道徳の3本の枝に果実が実る、とくに完全な知としての道徳の枝に実る」と述べている。
斯様な背景のないわが国では、<科学=Science>の発展に哲学は根としての関係を持たなかった。根や幹への関心よりも枝に実る果実にばかり<科学技術>を語ってきたのである。
洒脱なエッセイで知られる佐貫亦男氏はその著作「ドイツ道具の旅」の中で「科学技術は、手を抜かない努力の集大成である。日本の過去の軍事技術はその反対の好例で、基礎を飛ばして最終成果だけを追ったから、ついに破滅した」と書いている。道具という成果物を窓にして、同氏が見たのは<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)のようである(拙稿『佐貫亦男氏『発想のモザイク』から』)。
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明治期に世界で初めて工学部を有する大学を登場させたわが国であるが、ドイツでも百年以上遅れて2008年「ドイツ工学アカデミー」が発足し、工学が科学の一翼となりわが国と同じ<科学技術>の側面を持つようになった。
2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地震動と津波の影響で発生した東京電力福島第一原子力発電所の大事故で問われたのは、まさに<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)の不在である。アカデミズムへの信頼が失墜したばかりか、経済の「成果物を受け取る」立場で責任逃れに終始した学者は「御用学者」と呼ばれ蔑まれるようになった。彼らの拠所は<哲学>ではなく<神話>であった。「ニコニコ笑っていれば放射能の被害は受けない(山下俊一 長崎大学大学院教授)」等々。
この事故にいち早く反応したのがドイツだった。自身理論物理学の博士号を持つ学者宰相アンゲラ・メルケルが<脱原発>を諮問し決断したのは、まさに<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)からだった。いざとなれば<根=哲学、枝=道徳(社会倫理)>を以て決断できる精神の健全性と言えるだろう。

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このような大事故を招来しても尚も、わが国は「根なし」を続けるばかりか、更なる果実が原子力なる枝に実ると盲信し、何一つ根拠もないのに「アンダーコントロール」と唱える暗愚な政治が罷り通っている。ドイツのように「科学の樹」が語られることは一切ない。

折しも、<国立大学改革プラン>を安倍内閣が策定中である。文部科学大臣・下村博文名で、全国の国立大学に出された文系学部・学科の縮小や廃止を「要請」した通達は波紋を呼んでいる。人文社会科学系の廃止ではなく見直しの提言が趣旨だと下村大臣は説明するが、ならば、哲学を含めた人文社会科学系は理学系に編入し「科学の樹」の「根」とすべきであろう。そうでなければ完全な「根なし」となり「科学の樹」など望むべくもない。
「人間は考える葦である(パンセ)」を小林秀雄は「人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである」と解釈した。考えるという能力があるために、次第に葦ではないように人間は考え始めるが、この過信は愚鈍であるという解釈である。

根がなくとも葦で居られると過信する。哲学を含めた人文社会科学系などなくとも「世界一」の<科学技術>と言って憚らない過信。安倍政権の愚鈍さは過ぎて余りある。
(おわり)
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