2017年04月12日

媚びた絵



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保育園にいたころか、私の耳が遠い異状を父母が察知し医者に見せたところアデノイドが肥大していることがわかり入院手術を受けたことがあった。

二週間程度の入院だったが、その間寂しいだろうと父が画用紙とクレヨンをある日病室に持ち込んできた。几帳面な性格の父であるから手本を示して数日経ったら息子の拙い絵を見に来るつもりだったのだろう。ところが、翌日母が婦長さんに頭を下げながら私の枕元にやってきて、画用紙とクレヨンを取り上げてしまった。父が帰った後、ベッドのシーツ一面をクレヨンでベタベタにしてしまったようだ。父はさぞや母から小言をくらったことだろう。

同じ年頃で、祖父が岸田劉生から買い上げたばかりの生乾きの油彩画を指先で丸めた前科のある父(「私と岸田劉生」)からその性向を受け継いでいたのかもしれない。

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後にも先にもシーツにクレヨンで絵らしきものを描いたのはこの時限りだが、岡本太郎が父親だったら「子どもにとっては寝小便で世界地図を描くためにシーツがあるのと同じ」とばかりに子どもの素直な心の発露として少しは理解したかもしれない。

岡本太郎はその著作の中で
「幼稚園や小学校1,2年生の子どもがよくお日さまの絵を描きます。いったい丸にチョン、チョン、チョンと毛をはやしたようなもののどこに、太陽の実感があるのでしょうか。それだけならまだよいのですが、またその下には、花が行儀よく並べてあったりする・・・こういうチャッカリとした型どおりの絵にかぎって、先生が『たいへんお上手にできました』なんて、二重丸、三重丸をくれたりすることが多いのです。(中略)だから、子どもたちは、こういうものを描けば無事なんだナと思って、いつでも便利な符号でツジツマを合わせるようになるのです」と言う(「今日の芸術(光文社)」)。

箸の使い方や茶碗の持ち方など、社会生活上の一般様式は「行儀作法」という形で大人が子どもに一方的に躾けるものであることに異論はないだろう。しかし、絵に表わすものが「行儀よく」「型どおり」となることを指導することは、子どもの内心に「ツジツマ合わせ」を学ばせることになるのでこれは違う。岡本太郎の指摘の通りである。お日様は眩しいだけで色も形もわからないといった子どもなりの直観まで、「丸にチョン、チョン、チョンと毛をはやしたようなもの」と描く方が世間的に得だ(二重丸、三重丸)と「媚びた絵」を大人が教えることである。「何だ・これは!」は岡本太郎がカッっと目を見開いて叫ぶ言葉だが、他者を全く意識していない子どもが描く絵への最大の褒辞なのである(アール・ブリュット)。

もし「丸にチョン、チョン、チョンと毛をはやしたようなものの筈がない」とクレヨンを投げ出したら、その子は「何だ・これは!」だろう。大人はそのユニークな感性を大切にすべきだ。

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ところが、内心まで「行儀よく」「型どおり」となることで「ツジツマ合わせ」を学ばせようとしたのが森友学園の教育内容である。先の政府方針(閣議決定)により、教育勅語を学校教育(徳育)の中で復活させようとしている安倍政権も森友学園の教育方針とさして大差はない。わが国にとってのお日様とは「光線が22.5度で開く16条のもの(十六条旭日)」と思えと内閣決議しても不思議ではなく、国体(政体)にとって「行儀よく」「型どおり」の国民教育・国家教育を願っている節がある。

3/11以降、急速にわが国は「ツジツマ合わせ」を必要とする社会になりつつある。「忖度」だの「空気を読む」だの、政財界マスコミはこぞって「ツジツマ合わせ」に狂奔している。内閣と政権与党の牽強付会ぶりは日常茶飯事、多論異論を無視するばかりか、法律を変えてまで排除する方向に進んでいる。

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この方向性で、
自民党憲法改正草案起草者の一人である片山さつき議員は
「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるのか、ではなくて国を維持するためには自分に何ができるか、」と述べているが、このような天賦人権論の否定とは、「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという普遍的な考え(小林節慶大名誉教授)」の否定である。「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。(同氏)」ということになる。

自民党憲法改正草案での第13条はその通り、国家が人権についていくらでも条件をつけることができる内容となっている。

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現行憲法第13条は、
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

自民党憲法改正草案での第13条
「全て国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」

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自民党憲法改正草案での第13条は「個人」とあるのを「人」と改めることで、国民は「絶対的に尊重される」を「(国家と)相対的に尊重される」とこの天賦人権論の否定を内容とする改正草案である(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。

また、「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」と書き換えられ、「人権相互」から「社会の利益・社会の秩序」とその相対が「社会」に置き換わっている。戦前を知る人なら、すぐにピンとくるだろう。「公益」「公の秩序」を市民レベルで擬制すれば<隣組>であり、<一億総○○>と擬制すれば<国体(政体)>となる(拙稿「カギのかかった箱の中のカギ(憲法第21条)」。

先般、復興相が福島の原発事故自主避難民にたいして「自己責任」「裁判でも何でもやればいい」と発言したが、これも「国体(政体)に逆らうのか」と加害者である国が被害者である自主避難民を恫喝する構図である。普段から安倍内閣は「国家が人権に対していくらでも条件をつけて当然(前掲)」と考えているからこそ、その通り閣僚から言葉になって出てくるのだろう。

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現行憲法での同条「公共の福祉」とは、人権相互の矛盾・衝突の調整であり、その上で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利(幸福追求権=幸福を追い求める権利)」が認められるとされている。つまり、人と人の関係があっての人間でありその間の調整である。

人権相互の矛盾・衝突の調整を嫌う世の中になりつつある。国民との対話を極端に嫌う安倍政治やAI(人工知能)活用の社会では、ますます人と人の関係が希薄となる。体制(国体・政体)や情報と相対する「価値」以外には人が存在し得ない将来が見えてきた。「公共の福祉」に代わって、人と人の間の関係の不信を是認するかの如く「公益」「公の秩序」を安倍政権は声高に主張し共謀罪や緊急事態条項の必要性を説き始めている。

安倍首相の政権運営全般においても「ツジツマ合わせ」が横行している。「ツジツマ合わせ」も限界に達すれば、積み上がった矛盾・衝突に対して、最後には戦争という反人権の調整が行われるのではないかと危惧する声も高まっている。

特定秘密保護法、安保関連法制、共謀罪や緊急事態条項(戦前の治安維持法や国家総動員法と実体は同じ)は反人権の最終調整=戦争(武力による解決)への布石とも考えられる。

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山びこ学校やTBS全国こども電話相談室で著名な無着成恭氏は「人間はイヌやネコと変わらない畜生として生まれてくる」「人間は人ではなく“間”。人と人との関係が人格を作る」「戦争を起すのは畜生としての人間である」「血の通った生身の人間に聞くよりも機械に聞いた方が早くて正確みたいな風潮がありますからね。人と人の関係性が壊れているから、子どもの質問をうるさがる大人が増えた。大人が答えてくれないから子どもだって質問しなくなります。分からないことを子どもはパソコンやインターネットでパパッと調べる。すると大人との会話もなくなる。関係性が築けない。悪循環です。この地盤沈下が続けば、日本はそのうち滅びてしまうんじゃないでしょうか」と言う(『無着成恭氏「子どもの質問がつまらなくなった」理由語る』より)。人と人の関係が希薄になれば“間”がなくなり=人間でなくなり、「畜生」(無着氏は「畜生」よりも劣る「餓鬼」になると言う)に堕ちて人殺しも戦争もできる。

そのような自堕落を現首相と彼が国家像として掲げる「美しい国」に重ね見るのは私だけなのか?

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東京国立近代美術館の倉庫には戦前戦後の日本洋画壇の重鎮たちの筆によるものにもかかわらず、長らく展示されてこなかった作品が多数収蔵されている。一昨年、これらの作品がまとめて展示された。所謂「戦争記録画」である。

戦争記録画(戦争画)は、軍の宣伝や戦意高揚・意識鼓舞を目的とした作品、即ち、大義ある戦争という前提の上で戦闘場面や戦時下の市民生活を描いた作品を一般に指し示す。東京国立近代美術館の戦争記録画展で最も関心を呼んだのは、藤田嗣治の戦争画全12点が一挙展示されたことだった。


(藤田嗣治『アッツ島玉砕』)

岡本太郎は藤田嗣治に対して「パリから日本に帰って戦争画を描いて、戦後は戦争責任に頬かむりしてパリに逃げ帰った」痛烈に批判したようだ。山田耕作と山根銀二との間の裁かれざる戦犯論争は(拙稿「縁(えにし)の糸」)、この藤田と宮田重雄との間でも繰り広げられた。

媚態のネコを好んで描いた藤田は、戦争画も時局への彼なりの媚態を軍部に描いてみせたのだろうか?「丸にチョン、チョン、チョンと毛をはやしたようなものの筈がない」のお日様の絵と同じく、内心まで時局に合わせて「行儀よく」「型どおり」となることで「ツジツマ合わせ」をした藤田の「媚びた絵」が今の政治によって再評価されない日を願う。

時局への媚態としては同じ、ナチス・ドイツの公認芸術(大ドイツ芸術祭で称揚された芸術作品)は、今のドイツでは批判的に考証されることはあっても、政治的に肯定されることは禁じられている。ナチス・ドイツでは中傷・弾圧の目的で衆目に晒された「頽廃芸術」の作品(カンディンスキーやシャガールなど)が今やその逆の立場であることは興味深い。


(空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング、造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーらとともに大ドイツ芸術展を鑑賞するヒトラー)

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父によってその最晩年の一枚を台無しにされた岸田劉生。彼ほど「媚び」の微塵もない絵を描き続けた画家はいない。生活の為の売絵であっても内心まで売ることはなかった。生来の癇癪持ちで知られた岸田が怒るどころかニッコリと幼かった父の頭を撫でたエピソードは感慨深い。普通ならこれで売絵が一枚台無しになったではないかと怒鳴り散らすところだが、岸田は子どもの内心につまらない大人の「ツジツマ合わせ」を要求したりしなかった。「人と人との関係が人格を作る」通り、この一件は父の人格の一部になり、その画家について父が生涯考えることになったのである。

大阪時事新報 (1921.12.6 (大正10))にその岸田の戦争観について興味深い記事があった。

「軍備縮小で浮き上る国庫金の使途如何」という設問に対して、
岸田は「拝復御尋ねの趣については小生事全くの門外漢にてそれ等諸問の専門的智識これなく□答えに窮し候、しかし、国防という事が今日の国際関係上必要のものとは存じ候その程度今よりを縮小して可か拡張するが可かは見当つき申さず候しかし莫大なる軍備を御互に持たねばならぬと申す事は世界の不幸にて一日も早く諸国の人々が御互に助け合える様になったらと存じ候土地の問題もそうなればおのずと解決がつき申す可く地球を人類全体の所有としてますます生かせたらと存じ候御尋ねの趣きについて美術家とし我田引水を申せばもし軍備の方の金が二億もあまるなら少々美術の方へまわしてもらいたしなど存じ候」と答えている。

「莫大なる軍備を御互に持たねばならぬと申す事は世界の不幸にて一日も早く諸国の人々が御互に助け合える様になったら」と祈願しつつ、戦争画を要求される時代を知らずに死んだ岸田は幸せであったと思う。

(おわり)

posted by ihagee at 18:04| 憲法