2017年04月06日

我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について)




(踏絵)

医官と呼ばれる職業がある。陸海空・三自衛隊に衛生要員として含まれる医師(医師資格を有する者)のことである。戦前は軍隊での医師であったので「軍医」と呼ばれた。

その「軍医」の最高位が「軍医総監」であり、初代軍医総監として、森林太郎(文豪・森鴎外)がその職にあったことからも、近代西洋医学を極める程の才知と陸軍軍医の人事権を掌握するに相応しい人格を共に求められる要職であった。


(軍医総監・森林太郎)

----

「小山(おやま)遊園地」で(同遊園地はすでに閉園)全国的に著名であった栃木県小山市。江戸時代は下野守・小山氏の城下町であった。

その小山士族の後裔に、小山憲佐(おやまけんさ)という人がいた(1882.3.14(明治15)〜 1946.4.28(昭和21))。森林太郎と同様に東京帝国大学医学部を卒業し欧州(オランダ・ドイツ)に留学し、軍医畑を歩み1932年に軍医総監(中将)となった人物である。森鴎外全集(第35巻など)に小山憲佐の名前もあることから、同職の森林太郎とも個人的に接点があったと推察される。小山は大日本健康報國實踐會(口腔衛生)の会長も務めていた。

その小山はキリスト教会とも深い関わりを持っていたようだ。大学在学中に本郷教会で海老名弾正の下、受洗しクリスチャンとなり、生涯教会活動に身を捧げた篤い信仰者であった。

-----

軍医総監(中将)となってもその信仰を捨てることはなく、任官中も組合系のキリスト教会の活動を熱心に行っていたようである。ある「事件」までは。

1938年(昭和13年)2月14日、大阪中之島公会堂で開催された「国民精神総動員週間伝道講演会」もその教会活動の一つで、小山が講演を行った。この年の4月1日に「国民総動員法」が公布され政府(近衛政権)の独裁権が強化され、反戦思想・反軍思想、自由主義や人道主義的思想からキリスト教の神観念にまで弾圧が及ぶようになっていた頃である。

組合系教会の会長であり同志社大学理事(神学部教授)であった西尾幸太郎が「この試練に直面して」と題する講演中、明治天皇の御製「罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば」の「罪あらば我を咎めよ」と読むべきところを「罪あらば我を殺せよ」と誤誦した。そして、小山は「日本軍人と信仰生活」と題して講演中「自分は陸大を出たものより遥かに早く中将になることが出来た、これひとえにキリスト信仰のお蔭である」「某師団軍医部長時代、時の師団長がキリストを信ぜざるが故に花柳病(梅毒)にかかった」ことを述べた。

会場に詰めていた大阪憲兵隊は直ちに両名のこれら発言を問題視し、特高課主任が大阪地方検事局の思想主任検事と相談の上、西尾を同月16日に召喚し取り調べを行い、小山も五時間にわたって特高課長の取り調べを受けるという所謂「基督教舌禍事件(不敬事件)」に発展した。西尾は誤誦したことを小山は上官侮辱言辞についてそれぞれ遺憾とする陳述をしたものの、信教については各々キリスト教徒としての観点を述べた為、組合系教会の活動全体が取締の対象とされた。西尾は自発的に組合系教会の会長職を辞し、同志社大学理事ならびに講師としての職も辞した。

小山に対する取り調べは尚も続き、同月18日には再び特高課長が以下の点を小山に詰問した。
1. キリスト教の神に対する観点
2. キリスト教徒の考えている天皇に対する解釈
3. キリスト教徒の考えている神宮、神社参拝に対する観念
4. 勅語、勅諭に対する観念
5. 日本の神様を如何に見ているか
6. キリスト教の祷りと日本の神々に祷りを捧げる観点の差違
小山はこれらに対して素直に従来のキリスト教徒としての観点を述べたが、信仰を一擲することをその場で誓約した(踏絵を踏んでしまった)とも伝えられている。そのためか、小山は罪に問われることはなかった。



-----

翌3月3日になると、大阪憲兵隊は在阪主要教会ならびにキリスト教学校校長に対して、キリスト教の神観念、神道観、教育勅語観、神宮神社観について13項目の諮問を行い、4月にはさらに教会に対して大麻奉斎を求めた(教会内で神道の神札を奉り上げること)。信教の自由、教会の独立の観点から教会側は反発したが、憲兵隊は国家総動員法下の国民精神総動員運動への協力の一つとして大麻奉斎を譲らなかったが、これは思想調査としての踏絵であり、教会側は表向き時局に迎合する姿勢を取りつつも、内心においてはキリスト教信仰を守ろうとしていたようだ。


(大麻奉斎)

組合系教会の根拠地とも言える同志社大学に圧力が加わるのは自明で、その空気を読んだのか同志社大学は2月19日、急遽理事会を開き、その教育根本方針を以下とする旨言明したのである。
従来採り来る基督教育を以て徳育の基本とすという規定を放棄し、教育勅語第一主義に還元す



ミッションスクールの最高峰であった同志社大学がその創立者新島襄の建学の精神である「良心」(キリスト教を徳育の基本として人格を陶冶し、自治自立の精神を涵養し、国際感覚豊かな人物を育成すること)を、教育勅語の「修身(国民道徳・国家道徳)」へと転向したことはキリスト教関係者にとっては大衝撃となった。建学の精神たる「良心」と書かれた踏絵を踏んで、教育勅語への恭順を示したのである

同志社大学のこの転向はその他のミッションスクール(関西学院、メソヂスト神学校など阪神間の十数校)に次々と波及し従来のキリスト教徳育基本の放棄に代わって教育勅語に還元する旨を一斉に声明したのである。転向は在京のミッションスクールにも波及した(青山学院など)。この動きを当時の新聞は「日本主義の旗の下にキリスト教の再消化/学園再建に彼ら起つ京都御所を拝し感激に泣く同志社大学かくて更生せり」(大阪時事新報 1938.2.19 (昭和13))と伝えている。



-----

新島襄の建学の精神たる「良心」教育は自治自立の精神・個の確立を涵養するものであったが、この心の開明が反政府運動に繋がることを恐れ、その芽を摘み取るために明治政府は「修身」教育を諸科目の首位に置き、国体(政体)に傅く臣民思想を徹底するため、帝国憲法の発布の翌年に「教育に関する勅語」(「教育勅語」)を煥発したという事実を我々は知らなければならない。決して「親を大切に」などとわかりきった道徳観や儒教的精神を説くだけのものではないのである。



教育勅語.jpeg
(教育勅語を奉ずる森友学園・塚本幼稚園)

同志社大学は建学の精神を一擲してしまった(ひとたび投げてしまった)歴史を抱えているのである。

「己一国を愛し何事も一国の為に止まりて、兎角愛国より偏頗の心生じ、我が日本を愛して外国人を敵視するの憂いなき」「吾人、愛人主義を論ず。吾人今より愛人を主張、これを全国に波及せしむ」と新島が説いた「良心」教育つまり愛人主義が国際主義(国家や民族を超えて世界に繋がる)に発展するベクトルを、国民道徳から国家道徳へそして愛国心といった国民・国家道徳の枠に閉じ込められるベクトルに転回させたのが、教育勅語でありその上での徳育論であった歴史的事実がここにある。

----

内務官僚の指導統制下の「国民精神総動員運動」の中で「基督教舌禍事件(不敬事件)」が起きたことは、国民の自発性に依っていると第二第三の不敬事件が起こる可能性を示唆した。その可能性を排除するため、ナチスに学んで国民を政治組織化すべく1940年(昭和15年)「大政翼賛会」が発足した。「大政翼賛会」と教育勅語については、先のブログ記事で述べた通りである(「名目と実質とが相反する偽瞞政治(岸田國士)」)。ここでも岸田國士が抗ってみせたものの彼も踏絵を踏んだどころか、踏絵を踏ませる側に転じてしまった(転向)。


(軍国少年)

----

戦後1948年(昭和23年)6月19日参議院本会議(第2回国会)に於いて教育勅語等の失効確認に関する決議が行われ、その「排除」「失効」決議によって、我々国民は教育勅語と決別した筈である。

ところが、教育勅語をめぐって「教材として用いることまでは否定されることではない」などと政府が先般閣議決定した。

この答弁書をめぐり、メディア間の見解は分かれている。教育勅語の現行憲法とは相いれない歴史的本質(忠君愛国)まで肯定し「戦前回帰」することになるという懸念が噴出している。朝日新聞や毎日新聞は「戦前回帰」の懸念を指摘する一方で、産経新聞はこういった指摘を「妄想」と批判し、菅義偉官房長官の記者会見で出た教育勅語に批判的な質問について、「飛躍した追及」などと紙面で批判する。

どこが「妄想」なのか?「飛躍した追求」なのか?
教育勅語に基づく忠君愛国を確かめる為に、「良心」と書かれた踏絵を差し出し踏むように強要したあの時代は上述の如く厳然として存在していたのである。「妄想でも飛躍でもなく」歴史的事実であり「妄想」「飛躍」という限り必ず再現されることでもある。

産経新聞が言いたいのは「妄想」「飛躍」ではなく「熱望」だろう。彼らが望む通りわが国が戦前回帰をすれば、「日本主義の旗の下にキリスト教の再消化/学園再建に彼ら起つ京都御所を拝し感激に泣く同志社大学かくて更生せり」とかつてと同じ文言を真っ先に紙面に大書することだろう。

「戦前回帰」を望むからこそ教育勅語への懸念を一蹴するのである。拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』でも述べたように、「良心」教育が涵養しようとした自治自立の精神・個の確立を現政権は否定にかかっている。国体(政体)との相対関係にしか人権を認めない方向に急速に進んでいる。福島での原発事故の自主避難者はその関係から外れた人々だから「自己責任」と切り捨てそれらの人々の憲法上平等とされるべき人権まで無視し、沖縄の基地問題で国体(政体)に抗う地方自治など認めないという姿勢からもはっきりと現政権の「戦前回帰」的指向性が読み取れる。

その上、内心の自由まで縛りにかかっている(拙稿「カギのかかった箱の中のカギ(憲法第21条)」。「妄想」が着々と現実化しつつあることに我々は大いに恐怖しなければならない。過去の歴史に一切学ぼうとしない暗愚な政治には断固としてNO!と意思表示をし、かつての「踏絵」を踏ませるような国に戻してはならない

ミッションスクール出と言われている安倍首相夫人(安倍昭恵)は一体そこで何を学んだのだろうか?「基督教舌禍事件(不敬事件)」はおろか新島襄や内村鑑三すら知らないかもしれない。いい加減な宗教観と歴史に対する無知蒙昧の末に、良心と書かれた「踏絵」を踏ませる側に積極的に加担するとは神にたいする背徳に他ならない。ミッションスクール出など言わないでもらいたい。

(おわり)


posted by ihagee at 18:37| 政治