2017年03月13日

インド映画考 – その8(ヒンディ語映画・”ナレーション“)


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前回、「音楽決め」の一連のミーティングは<口頭>で行われ、音楽監督ですら五線紙に書いて示すようなことはせず、オルガンを弾きながら口で指示し、そのメロディーを聴きながら編曲者はインドの伝統的な採譜法で綴られた音符やコードを西欧の採譜法による楽譜に翻訳する、というようなことを書いた。

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「音楽決め」に限らず、「口頭」作業はヒンディ語映画制作において重要な特徴となっている。

つまり、人(仲介者)や書き物を介するよりも関係者が直接面と向かって口頭でディスカッションすることが専らで、たとえば、映画プロデューサーが自分の映画に特定のスターを出したいと思えば、そのスターのエージェントを介するよりも直接本人とコンタクトを取ることが慣習である。実際、ボンベイの映画産業には、西欧の同業界のエージェントと同じ意味のエージェントは存在しない。ヒンディ語映画スターたちは各人「セクレタリー」を名乗る人々を抱えており、このセクレタリーがスターの仕事のスケジュールを管理している。この業界である権力の地位に達した一握りのセクレタリーがスターたちとのコネクションを利用してプロデューサーになっていくのである。しかし大部分のセクレタリーはプロデューサーとスターとの間でネゴシエーションを行うとともに、メディアや他の力の弱いセクレタリーとの渉外的役割を果たす。しかし、プロデューサーや監督にとって、彼らとネゴや相談をせざるを得ないことは侮辱や無礼を受けることに他ならないので、プロデューサーは自らのステータスと力を誇示できるような場所でスターと直接会うことが普通である。プロデューサーがスターの家まで赴いて会う場合は、スターの方が力関係は上という証でもある。逆にスターがプロデューサーのオフィスや自宅に呼び出される場合は、プロデューサーの方が力関係は上ということになる。また、映画の撮影に入ると、セットの中ではプロデューサーは頻繁にスターと面と向かって話をすることになる。これはセット外では上述のような力関係が作用するが、セットの中は中立的空間と見なされているからでもある(メーキャップ・ルームは除く)。この個人的な交わり方から、「口頭」作業は高度な慣行に発展していったようだ。ここでは、言葉の上での互いの同意が契約と同義となっている(これは映画産業に限らず、インドの商慣習でもある)。たとえば、プロデューサーがスターと映画のプロジェクトについてディスカッションし、スターがその後も現場に残っていればそのスターは何も言わなかったとみなして間違いない、といった具合である。

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映画の主要なキャストとクルーの間では台本とは通常「口述」されたものであり、テレビのインタビューで、業界の関係者が「台本を耳にして」(台本を目にしてではなく)、どうするか決めた、などと語る場面をよく見かけるが、台本そのものも「口頭」作業である。台本を読むのではなく、制作チームの主要メンバーが集って脚本家や監督から映画のストーリーを聞くこの一連の作業は業界では「ナレーション(口伝)」と呼ばれ、撮影に入る前段階(pre-production)作業を通して行われる。脚本が固まるまで、都度30分から数時間かけてナレーションが続くことになる。ナレーションそれ自体はスキルと考えられ、そのナレーション作業のスキルにおいて傑出した監督や脚本家が存在する。ナレーションの重要性が言われるのは、キャスティング前の台本がしばしば不完全であることに起因している。脚本が完成しても、脚本家はそれをキャストやクルーの集団に向かって大声で読み上げるのが通常である。

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脚本のナレーションはヒンディ語またはHinglishで行われる一方(Hinglishとは、ヒンディ語と英語が混ざったもので、都会のエリートたちの間で流行)、多くの脚本家は台本を先ずは英語で書き、セリフ部分をヒンディ語に翻訳するか、言語により堪能なセリフ書きと協働して仕上げる。シナリオ上のト書き、たとえば、ロケーション、時刻、情景描写やカメラワークは、英語で常に行われる。制作現場で英語が用いられるのも、ボンベイの映画産業の都会的性質の証とも言える。すなわち、ここに集まる人々はインドとはいっても互いに異なる言語圏出身者であり、必ずしもヒンディ語を母語としないという言語の多様性から、英語が共通語(lingua-franca)として用いられるからである。学校教育で英語による授業が行われるボンベイのような主要都市に住む中流クラス以上のインド人にとって英語は共通語なのである。結果として、映画の言語はヒンディ語であろうとも、映画はインドの主たる言語全てを含むマルチリンガルでリリースされ、英語はその一つとなる。脚本家の英語への依存は近頃の傾向であり、彼らのバックグラウンドの英語へのシフトの兆候でもある。ヒンディ語映画の最初の数十年、脚本家はヒンディ語又はウルドゥ語の詩人、劇作家又は小説家で、彼らが当時の映画産業で脚本面に貢献したのであるが、今日では脚本家の大多数はそのような文学的バックグラウンドを持たず、映画産業バックグラウンドと同様、広範なプロ領域の出身となっている。上述の通り、書くことは、フィルム制作における分業の僅かばかり特化した一面なので、台本作成に当たっては様々な人々が手書きでその作業に貢献している。

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監督、主演俳優、音楽監督や脚本家といった基本的なキャストとクルーをプロデューサーが決定すると、業界やメディアに対してmuhuratによってアナウンスする。Muhuratとは何か新しい事を始めるに当たって占星術の計算によって吉兆とみなされた特定の日時を意味する。この儀式は映画の撮影が始まる数か月前に行われ、スタジオ又はその他の制作現場での簡単なセレモニーから、高級ホテルでの派手なイベントに至るまで多種多様な形で行われるものである。このmuhuratの主だった特徴の一つが撮影過程の実演で、ここではその映画の主演俳優がカメラや観客の前で短いシーンを演じるのが通例である。このシーンはその場の為に特別に書かれたものであって、撮影されたシーンが映画に使われることはない。この時点では台本はまだ上梓されておらず、映画はアイディアの域に留まっており、映画に魂を入れることがこのイベントの目的の一つである。このイベントの儀式的性格を際立たせる別の面としては、「(カメラ)スタート!」の掛け声の前にヤシの実を割ったり、カメラに向かってarati(オイルランプや樟脳の焔をグルグルと振りかざす)を行うなど、ヒンディ教の礼拝儀式に由来する特徴が組み込まれていることである。


(muhuratにおけるヤシの実割り)

ヤシの実を毎日割って、その日の最初の撮影の後にそのかけらを配るようなこともクランクイン後のその他の一般的な儀式である。このように宗教行事との準信仰的関係はインドでは一般的で、古典音楽の奏者とその楽器、ダンサーとそのアンクル・ベル等の関係からもわかる通りである。

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当初はプロジェクトの財源ねん出のためプロデューサーの宣伝のためのmuhuratであったが、そこで映画の頒布権が売り出され始めると、やがて、配給会社への「パッケージ」の販売になっていった。この「パッケージ」とは、そのプロジェクトに雇われた監督、男性スターや音楽監督などを最小限含むもので、過去の実績やキーパーソンを含む売り物であれば、プロデューサーはmuhuratの行われた日に「完売」と宣言することも有り得る。新聞、映画雑誌やテレビ番組でも取り上げられるmuhuratであるが、視聴者に向けの重要な宣伝方法ではない。幾つかの例外はあるが、muhuratから実際にその映画が劇場で封切となるまで通常数年を要し、それ以上年数を擁する場合もある。このようにヒンディ語映画では、大々的に宣伝される映画は特に、muhuratを経ないで映画制作にとりかかることはないことが一般的な特徴である。

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撮影に入る前段階(pre-production)はこのように対人的共同的作業である。台本を書いたり音楽を作曲したりといった作業は、一人だけで行われることは滅多にない。二人以上のチームを組んで、映画の各場面で監督がしっかりと関わることが常である。監督と主要メンバーとの間のブレインストーミングやディスカッションのセッションに多くの時間が費やされ、その中から台本や音楽が仕上げられていくのである。これらのセッションはこの業界の符丁として「ストーリー決め」とか「音楽決め」と呼ばれる。この段階を通じて台本の観点では脚本とセリフの、音楽の観点ではメロディと詞の、その他の細々とした点では撮影場所、セット、小道具や衣装の詰めが行われる。残りのキャスティングもこの段階で最終的に決定される。ヒンディ語映画制作者はストーリーボード(作業の順番に示すボード)で仕事をすることは滅多にないので、セットが組み上がり撮影が開始されるまでは、ライティング、ブロッキング(俳優に正確な動きやポジショニングを指示すること)やカメラの設置やカメラワークは行われない。監督がストーリーボードに拠らず、カメラアングルや動きに応じて、映画のフレーム上の動きを口頭で指示するが、あたかも監督の頭の中でフィルムが回っているかのように各シーンを心の中で描くことができるのである。

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次回は、歌の重要な要素であるダビング(プレイバックシンギング含む)ついて触れたいと思う。

(つづく)

posted by ihagee at 16:53| インド映画