
第三の時代(経済自由化と衛星放送の時代):
1991に始まる大規模な経済自由化は映画制作に影響した。ヒンディ語文化圏の極端な優越主義が政治の本流として現れ出したのもこの頃である。テレビジョンがなかった1950年代や限定的にしか普及していなかった1970年代はフィルム制作がメディアの覇権を握っていたが、1991年を境にしてフィルム制作のライバルはテレビジョンとなっていった。
以下、具体的に触れてみたい。(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)
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現代の映画制作と脈絡する最も顕著なプロセス・出来事としては、1991年にインド政府が始めた経済自由化のプロセスおよび1992年の衛星放送開始の二つを挙げることができる。「自由化」とは経済をめぐる各種制限や規制の緩和を意味する。1980年代を通して、インドは財政収支赤字に見舞われた。分離独立を求める暴動の只中にあるカシミールとパンジャーブの二つの地域での軍備増強に関係して増大する費用とともに、公務員の賃金、給与や政府関係機関への助成金などもこの赤字をもたらしていた。国営(国有)企業は相変わらず利益を生み出さず財政に貢献していなかったからである。イラクがクウェートに軍事侵攻した1990年に経済状況はどん底に陥った。インドの外貨獲得高の主たる部分を占めていた湾岸地域のインド人労働者からの送金が激減したことに拠る。軍事侵攻と戦争継続によって原油価格は急上昇した。原油価格の高騰に外貨獲得額の減少が合わさって、インドの外貨準備高は悪化をたどり国際金融取引上のカネの貸し借りにおいて不履行となる虞が差し迫っていた。
1991年、インド政府は国際通貨基金(IMF)から二つの融資を受ける。それらは財政収支赤字の管理と削減並びに経済の構造的改革の実行という条件付きの融資であった。経済における根本的な変化は以下の点で模索された。すなわち、輸出競争力強化のためのルピー安、輸入制限や義務の緩和、特定のセクトや産業を対象とした補助金の減額、産業ライセンス制度の廃止、外国投資の各種規則の緩和、経済成長に向けて技術連携の重要視化、経営規模の大きな企業に対する各種制限の撤廃、経済計画において国営(国有)企業の重用を減らすこと、および経済活動に関する諸規定の削減によって、新たな創業を容易とすること、がその内容である。米国経済の浮揚はIMF融資の理想的な事例であるように、経済成長のエンジンとして消費材の消費を勧奨した。1991年から国の経済方針は都会、中流階級消費者にばかり向かうようになり、自家用車、化粧品、電化製品、家庭用品やソフトドリンクといった日用品の使用とは無縁の大多数のインド社会が基本的に必要としている食品、水、衛星、住居、初等教育および医療が蔑ろにされる結果となった。
経済自由化は役所仕事を減らすとともに多国籍企業がインド国内で事業を興すインセンティブとなって、衛星放送導入の膳立てとなった。衛星放送はインドのテレビ環境を劇的に変化させることになる。1980年代の中頃までインドではテレビジョンは普及していなかった。ユネスコがスポンサーとなった教育プロジェクトの一環として1959年に最初のテレビ試験放送がおこなわれ、電波が届く範囲は当初たった40キロメートル圏内だった。20分の教育プログラムが週に2回放送され始めたのは1961年で、1960年代を通して、教育関連で様々な試験的なプロジェクトが試みられたが、系統だったテレビ放送は当時存在していなかった。1976年になってようやくドゥールダルシャンが、国営一チャンネルの放送網として、テレビ番組をより広い地域に放送し始める(その割に少ない視聴者数だったが)。

インドがアジア競技大会(Asiad)の開催国となるのを契機に1982年、カラー放送および低出力送信と衛星を用いた国内向け送信が開始された。企業のスポンサーシップとしてコマーシャルが入るようになったのは1983年からで、ドゥールダルシャンの放送網がその最初だった。
ケーブルテレビは非公式であったが1984年に、ツアー用ホテルで最初に広まり、アパートメントそして各家庭に広まった。ケーブルネットワークとリンクしたビデオカセットプレーヤーの普及と共にケーブルネットワークは当初広まったようだ。1990年5月までに、3,450のケーブルテレビネットワークがインド国内に存在し、それらはボンベイ、カルカッタ、デリおよびマドラスといった主要都市に分かれていた。1991年までに、ケーブルネットワークは衛星パラボラアンテナを備えるようになり、STAR TV, BNCおよびCNNにアクセス可能となった。この衛星にアクセスする無許可のケーブルネットワークの急速な普及は1990年代のインドのテレビ環境で生ずる変化の主要因の一つとなった。ルパート・マードックのSTAR TVがインドでのサービスを開始したのが1992年で、同年インドで最初の民間ヒンディ語衛星チャンネル, ZEE TVがサービスを開始。その他の衛星チャンネルもすぐに追随し、チャンネルの選択肢は1チャンネルだけの国営放送ネットワークの視聴から、10-50のチャンネルから選択視聴できる環境に変化した。
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衛星テレビジョンの普及に伴い、ヒンディ語映画制作者たちは映画を含む広範な選択肢が家庭の視聴者に提供可能なしかし彼らとは異なるメディア風景に関わるようになった。当初、ボンベイの映画産業は新たなチャンネルを脅威と感じていたが、衛星テレビジョンとの共生の関係を模索し始めた。これらのチャンネルは映画制作者たちにその映画を広告、宣伝し販売する新たな手段を呈示し、人気作のテレビ放映権には多額の放映料を払う用意があり、チャンネルが映画制作者たちにとってもう一つの収入源となると示した。衛星チャンネルの多くがヒンディ語映画、映画音楽、映画産業ニュース、セレブのゴシップ、映画賞授与式、および映画スターをフィーチャーしたステージショーを番組の定番としていた。国際的な若者文化のシンボルであるMTVですらインドではその番組の大半をヒンディ語映画音楽とスターに拠っていたのである。大衆文化において映画の出番は減るどころか、むしろ衛星テレビジョンではヒンディ語映画とそのスターたちの占める割合が増える方向に働いている。
しかし、プライムタイムのクイズ番組やメロドラマの人気が上昇するにつれて、ヒンディ語映画制作者たちは娯楽の代替源として映画に対抗するテレビからの競争に直面していることは認めているようだ。また、蔓延するも殆どの場合罰せられることのないケーブルテレビでの海賊行為は別の付随する問題でもある。映画産業から抗議の声が上がらない限り、警察はケーブルテレビの事業者の取締に動かないからだ。また、多くのケーブルチャンネルでは新作映画が劇場で公開されると同時に、あるいは劇場公開に先だって海賊版を視聴に供することは日常茶飯事となっていた。衛星チャンネルとは異なり、ケーブルチャンネルは地域密着で、一つの場所や地域にサービスを提供している上、ケーブルテレビの事業者は、映画の入ったビデオカセットやビデオディスクを再生するだけで、特定のケーブルネットワークに繋がっている全世帯に映画を送信できてしまう。
映画プロデューサーは、衛星テレビジョンの出現以来、映画産業は異なるプレッシャーを受けており、映画館に観客を呼び込むのも一苦労であることを主張している。一般的な家族にとって、劇場で映画を観賞するのは、ビデオやテレビで観るのと比べて手頃でないと感じているからである。さらに、大都市の交通渋滞および小都市の劇場施設の貧弱さが、劇場への足を遠ざける要因となっていると主張する。劇場に観客を呼び込もうと、映画制作者はテレビでは不可能な映画的な経験やスペクタクルを企画するために多額の費用と労力をかけてきた。1990年代中頃からヒンディ語映画はデジタル音響や外国ロケ、ゴージャスな歌や踊りの場面やカネに糸目をつけないセットなどを取り込むことで制作経費が大幅に上がることになった。
さらにスター、監督、技術者へのギャラも高騰し、映画配給者は前例のない額を前払いしてまでも配給権を得ようとした。映画制作者新作のリリースの前後にかけてはマーケティングや宣伝に今まで以上に関心を払うようになり、1997年以降は映画の宣伝の場としてインターネットを活用し始めるようになった。1990年代以降、制作予算を大幅に増やした結果、大当たりをするか大損をするかという可能性を生むようになった。これは平均的に収益のあがる程度の映画はほとんど制作されなくなるという結果に繋がっている。
インド経済の自由化で生じた変化はヒンディ語映画の制作や配給の国際化も容易にした。アフリカ、オーストラリア、欧州や北米で映画の特徴的なシーンのロケが頻繁に行われるようになった。
(1989年制作 "Chandni" から / リシ・カプール(Rishi Kapoor)、シュリデヴィ(Sridevi)のスイスを舞台としたロマンス。)
1930年代からヒンディ語映画は国際的に流通しており、数十年来アフリカ、東欧、アラブおよび中央アジアでは人気を博しているが、近年になってボンベイの映画制作者たちは国際市場から収益を得ることができるようになった。ヒンディ語映画制作者たちは現在意識的に幅広い顧客層をインド国外に求めて、映画の配給オフィスをニューヨーク、ニュージャージーおよびロンドンに開設し、映画宣伝のためにウェブサイトを構築し、英語、スペイン語およびフランス語で作品を吹き替えし、さらに英語、ヘブライ語および日本語で字幕を付けるなどして、市場拡大に努めている。また、カンヌ、ヴェネチアやトロントといった名だたる国際映画祭でプレミアショーを行うなどヒンディ語映画は西欧のメディアでも頭角を表すようになってきた。また、ロンドンのレスター・スクウェア、ニューヨークのタイムズスクエア、インディアナポリスのIMAXシアターなどのメインストリームでも映画が上映され、Lagaan(「ラガーン」)は2001年度アカデミー賞の外国最優秀映画部門にノミネートされ、さらに、Baz Luhrmann(バズ・ラーマン)監督作品のMoulin Rouge(「ムーラン・ルージュ」)、Terry Zwigoff(テリー・ツワイゴフ)監督作品のGhost World(「ゴーストワールド」)やLars von Trier(ラース・フォン・トリアー)監督作品のDancer in the Dark(「ダンサー・イン・ザ・ダーク」)はヒンディ語映画にインスパイアーされたものである。
(Moulin Rouge(「ムーラン・ルージュ」)からインドをイメージとしたシーン)
(Ghost World(「ゴーストワールド」)からワンシーン)
(1966年制作 "Teesri Manzil" から- シャンミー・カプール(Shammi Kapoor)やヘレン(Helen)の一連の映画が、Ghost World(「ゴーストワールド」に影響を与えているようだ。)
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1998年以降、いくつかのヒンディ語映画がインド国内よりも英国や米国に於いて大きな商業的成功を収めるようになり、ボンベイの映画会社にとって海外市場は最も有益な市場の一つとなり始めた。ヒンディ語映画が米国の映画館で上映され出したのは1970年初め頃であったが、ビデオカセットレコーダーの出現によってヒンディ語映画の消費動向は家庭という領域に後退していった。しかし、1990年代にヒンディ語映画の世界的ブームが到来する。シンガポール、モスクワ、ロンドンおよびトロントといった遠く離れた場所の映画館でヒンディ語映画が上映され、米国内ではヒンディ語映画の新作封切りに熱心な映画館がニューヨーク、ニュージャージー、ワシントンD.C.、ロサンゼルス、ヒューストン、サンフランシスコ、およびそれら大都市区域に出現したのである。英国では興行収入トップ10に毎週ランキングされ、米国ではバラエティー部門での興業収入トップ60に毎週ランキングされるなど、興業的成功が定着した。インド国外でのヒンディ語映画の成功は南アジアに散らばった在外インド人がボンベイ映画産業の市場として重要であることも示した。
インド国内よりも国外で大成功を収める特定のヒンディ語映画はボンベイ映画産業内に議論を呼び起こした。すなわち、特定のスターやジャンルのフィルムだけが海外市場で成功を収める状況で、ヒンディ語映画のターゲットとする観客は誰であり誰とすべきかという議論である。「ファミリー・エンターテイナー」、すなわち、大富豪の家族を背景に歌、踊り、婚礼といった趣向を凝らした文化的スペクタクルで埋め尽くされたラブストーリー、なるジャンルばかりもてはやされることについて1994年から翌年にかけて映画産業内で議論が沸き起こったのである。この当時、”Hum Aapke Hain Koun!”(「私はあなたの何?」)、”Dilwale Dulhaniya Le Jayenge” (「真心ある者嫁を得る」)の興業的成功は、テーマ、ビジュアルスタイル、音楽、およびマーケティングの観点で1990年代のヒンディ語映画のトレンドを固めていった。これら二つの映画とそれに引き続く同様の映画はインド国内外で巨大なビジネスとなり、インドと海外市場との間の興業上の反応に相違があるにも拘わらず、このジャンルの優位性が変らないことについて、インド国内のメディアや映画産業に携わる者から国内の観客を軽視して映画が南アジア向けに作られていることについて苦言が上がる。ボンベイの映画制作者に対しては主導性や創作性の欠如とともにヒンディ語映画に郷愁や独特な味わいを求める在外インド人を無視していると厳しい意見がインドの新聞紙面に載った。
(1994年制作”Hum Aapke Hain Koun!”(「私はあなたの何?」)から)
(1995年制作”Dilwale Dulhaniya Le Jayenge” (「真心ある者嫁を得る」)から)
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衛星時代以後の映画はそれ以前と比べてテーマや内容の観点でも顕著に異なっている。この時代以降成功を収める映画と、家族やロマンスに焦点を当てたそれ以前のヒンディ語映画との間の最も明確な違いは、階級的格差がほとんど描かれなくなり代わって富に焦点が当てられるようになったことであろう。それ以前の時代の映画で描かれていたような貧困や経済的困難、努力を象徴するものは全て映画から排除され、主人公は労働者階級や中流階級よりも下の人々よりもむしろ億万長者の子息など、大金持ちとして描かれるようになる。稀に労働者階級の主人公が描かれる場合でも、映画の中では大抵不安や問題を抱える者として描かれる。それ以前の映画とのもう一つの顕著な違いは、悪役がいないことであり、国家やそれを代理する者(警官や判事など)が登場しないことである。1950年代から1980年代のヒンディ語映画では富裕なビジネスマンはいつも搾取や不正、犯罪の象徴として描かれていたが、1990年代中頃からは、温和で愛情溢れる寛大な父親として描かれるようになる。
それ以前の時代、ラブストーリーはしばしば身分の違いが元で、親から反対され争いとなる内容であったが、同じ身分を背景とする主人公たちのラブストーリーに変化していった。身分の違いが排除されると、ドラマ性は内面化し、ストーリー上の衝突は個人的な欲望と家族に対する義務との間の葛藤に中心を置かれるようになった。三角関係か厳格な両親(最後は結婚相手についての息子の選択に応じる)を絡めた争いがこの手の筋書きである。いずれのストーリーにおいても、彼/彼女を愛する誰かと、その彼/彼女が結婚をせざるを得ない誰かとの間で主役が引き裂かれる展開である。それ以前のラブストーリーでは、若さゆえの反抗が基調であり、若い恋人たちは駆け落ちする展開であった。しかし、1990年代中頃からは家族の名誉や調和のために愛を犠牲にすることも厭わない迎合的な恋人たちがストーリーのテーマを占めはじめてきた。名誉に対する父権的基準や孝行の概念へのヒーローとヒロインの受動性や恭順性が、現代のヒンディ語映画が都会的でMTVにインスパイアーされたビジュアルスタイルを装いながらも、本質的には保守的な面を表していると言える。これらの「ファミリー・エンターテイナー」のジャンルは特に北インド、ヒンディ文化圏から派生するコモディティ化したインド人のアイデンティを示しており、それはインドの高級カーストの合同家族(joint family)のステレオタイプを元にしているのかもしれない。このような映画の成功はメディアや国家には「家族の大切さ」を称え、国際化する世界における「インドの伝統」の肯定するものとして解釈されている。
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それ以外に二つのテーマの傾向が1990年代後半から顕著になった。それらはそれ以前の時代に始まった傾向を受け継ぐものでもある。その一つが組織犯罪やギャングの世界の描写を伴うテーマ(ヒンディ語映画の中でも長い歴史を持つテーマ)である。マフィアのボスとその手下の描かれ方は、初期のヒンディ語映画ではグラマラス、西洋的で小奇麗な描かれ方から、1990年代ではぎらついた、より民族・地域独自の肖像に変っていった。映画の多くは特に、都市ならではのスラングや巷の方言が用いながらボンベイの周辺を表している。かつての映画は悲惨な事情や自暴自棄から、主人公がいかに犯罪に染まっていくかを描くことに腐心したが、今日の映画では手の込んだ正当性の描写をしなくなった。仕事の口から一切締め出され、生きるために犯罪生活に身を投じる者が古い映画の主人公たちであるのに対して、最近の映画では貧困にたいする現実的な仕事の選択肢としてまた、自由化後のインドで豪勢で消費者主義的ライフスタイルに加われる労働者階級の人々として、組織的犯罪を描くようになった。
二つ目のテーマの傾向は、映画における国家主義の発揚である。愛国主義と国家主義の表出はインド独立以来ヒンディ語映画の要であり続けている。今日の映画では強い国家主義的感情の描き方に変化が見られる。国家主義は、インサイダーとアウトサイダーとの間、市民と外国人との間、の対照と境界を論ずるものである。かつて、ヒンディ語映画では西欧=非道徳、利己主義、物質主義、文化欠如:インド=道徳的、文化的、精神的に勝っている、というステレオタイプが用いられていた。映画に登場する悪人もかつては西欧人か西欧かぶれのインド人と相場が決まっていた。しかし、1990年代中頃から、テロリストが明確な悪人像として定着した。テロリズムに関する映画は1980年代の終わりに始まり、1990年代にその数を増した。当時、分離主義者の暴動が激しさを増し、爆弾テロ、地域暴動、誘拐やハイジャックが増加の一途を辿っていた。国家は戦争やテロからの塞を表し、軍人、民兵や警察官がその救い手であった。
国家に対する外部の脅威を描くことで、それ以前映画と顕著な違いを示したのは、1997年の”Border“(J.P. Dutta監督)からだろう。映画制作者は、敵国としてまたインド混乱の扇動者としてパキスタンをあからさまに名指しするようになった。すなわち、この映画以前は、たとえ戦争映画であっても、検閲のガイドラインに「諸外国との友好関係を損なうことがあってはならない」(情報放送大臣・1992年)とあり、映画制作者に具体的な国を示すのは控えるようにとお触れがあった為に、敵国を名指しできなかったのが(婉曲に「向こう側」とか単に「敵」と表現するに留めていた)、この1971年に勃発した印パ戦争を初めて描いた”Border”ではパキスタンを名指しして表現したのである。検閲のガイドラインに変更はなかったものの、過激な国家主義者や(パキスタンに対して)強硬なインド人民党(BJP)が力を増して、政治情勢が変化したのである。歴史的できごとに基づくのに敵国を名指しできない映画では戦争映画としての信ぴょう性に欠くものとなるという映画監督の訴えが認められ、軍隊や国防のキャンペーンに寄与する膨大な数の映画の出現を可能とした。
(1997年制作”Border“から)
従って、国家主義はもはや単純な東洋と西洋の対立の観点から描かれなくなり、西欧とその物質文化は邪悪や脅威を表すものでも、インド人のモラルや文化的優越性を脅かすものでもなくなった。事実、1990年代の中頃からヒンディ語映画では、インド国外に生活するインド人の方がインド国内の同朋よりもより伝統的で文化的に真正な存在としてしばしば描かれるようになる。それ以前のヒンディ語映画は海外で生活するインド人のキャラはコミカルな場面や悪役として用いられてきたが、今日の映画ではそのような海外組のインド人を主人公としオーストラリア、カナダ、英国や米国といった国々を舞台に描かれるようになった。
(1970年制作 "Purab aur Pachhim"「東と西」からワンシーン。西欧文明にどっぷりと浸かりロンドンで暮らすインド人。)
そのようにオーセンティックな「インド人」のアイデンティティ、- 宗教上のしきたり、手の込んだ挙式、大家族、親への敬意、女性の慎み深さなる規範への執着、婚前交渉の禁止、自国に対する誇りと愛によって表される – そのアイデンティティはどこであろうと失うことがなく、ニューヨークであろうとロンドンであろうとシドニーであろうと、ボンベイやカルカッタやデリの「インド人」と同じアイデンティティということである。
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以上、ヒンディ語映画を3つの時代に分けて大まかに考証してみた。次回はヒンディ映画と音楽について。
(つづく)