2017年02月27日

インド映画考 – その5(ヒンディ語映画・第二の時代(1970s))


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第二の時代(1970年代を中心とする国家危機の時代):
1970年代に急速に広まった社会不安・政情不安と政府への不満はインディラ・ガンジー首相が1975年に発した非常事態宣言によって頂点に達した。国家、主人公(一般にヒーローを指す)と悪人の描かれ方がこの時代の映画はそれ以前の映画と異なる。

以下、具体的に触れてみたい。(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)

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1970年代の初め頃から、よりよい生活への国民の期待や楽観は消え始めていた。1971年に勃発した印パ戦争とその戦費、バングラデシュのパキスタンからの独立という結果を生むものの難民問題が発生しその負担がのしかかり、さらには大干ばつが1972、1973年と続き、1973年の国際的な石油危機でインドは深刻な経済困難に陥った。食糧難と急激なインフレである。食品流通や価格を統制しようとした政府の試みが、結果として大規模な買占めやブラックマーケットを生んだ。人々が通りに繰り出して大規模な抗議デモを行うようになると政情不安はより深刻なものになった。学園紛争はストライキに発展し一時は大学が数週間閉鎖される事態ともなった。全国規模の暴動は1970年代中頃まで年々増加し、警察が群衆に向けて銃を放ったり棍棒で殴ったりという記事は毎日のように新聞に掲載されていた。



1971年の総選挙でインディラ・ガンジー首相は議会の多数支配に成功したが、明確な経済プログラムを持っていなかったためにすぐに問題が顕在化した。1975年夏、1971年の先の総選挙での与党インド国民会議の選挙違反が指摘され、グジャラート州の議会選挙で与党国民会議派は議席を失って、野党やメディアばかりか、与党の内部からもガンジー首相へ辞職を求める声が上がる。ニュー・デリーでの大規模な辞職要求デモが行われた直後の1975年6月26日、ガンジーの命を受けて非常事態令が大統領から全土に宣言される。



この21か月の期間中、インド政府は超法規的な権力を握った。憲法が保障する人権は停止され、100,000名を超える人々が令状もなく逮捕・拘留されたのである。知識人、反対勢力のリーダー、ジャーナリストや政治活動家がその多くを占めた。逮捕は恣意的に行われ、人々は捕らわれた理由を知らされることもなく、また警察も司直に逮捕の理由を通知もしなかった。報道は厳しく検閲を受け、新聞も逮捕者の氏名を掲載することを止められた。牢獄の中では拷問や殺人が発生した。政治犯ばかりでなく、密輸業者、買占め業者やブラックマーケットの住人といった「性悪」や「反社会的」分子も拘留された。インディラ・ガンジーの息子サンジャイは、貧困階級の数百万人の男女への去勢不妊手術の強制を旨とする人口統制政策を管理し、同時に都市「美化」計画も開始し、貧民窟を取り壊し、スラムを一掃することで数千人の人々を都市から放逐したのである。

権威が増すにつれ、ガンジーは自身をインドの救世主であるかに演じ、自らの行いを正当化しようとした。この期間、彼女は20項目の経済計画をその過去に例をみない強権を以て実行に移した。農地改革、小作人への住居提供、年季奉公の禁止、地方負債の清算、物価安、農業賃金値上げ、生産と雇用の増大、市街地の整備、脱税取締、密輸品押収、教科書無償化などである。ガンジーは民主主義を軌道にのせるためには「ショック療法」も必要として非常事態令を宣言したのであった。このように彼女は異議を鎮めることに成功し、次第にその政治的立ち位置に鈍感になっていったのだろう、楽観視していた1977年3月の総選挙で、彼女とその国民会議派は大敗を喫する。野党連合は議会の542議席中、330を奪取した。新政府発足とともに、非常事態令は取り下げられた。

この時期の映画制作は途方もない不確かさと不安定さに苛まれていた。1973年に生フィルムが調達難となる。これは政府が輸入生フィルムに250%もの輸入税を課した為であった。生フィルムの輸入量は政府の規制によって1961年からすでに減少の一途を辿っていた。1974-75年の業界誌は生フィルム調達危機と映画制作への影響についての記事で埋め尽くされている。特に、新作映画への影響についてである。1974年8月、情報放送大臣は映画産業のリーダー達に対し、米イーストマン・コダック社がインド国内での生フィルム製造に公正な提案を示さない限り、同社のカラーポジフィルムは輸出用途のプリント以外は国内で用いることができなくなるだろうと述べた。このコダックのポジフィルムに対する禁止令は翌月には緩和され、1975年3月までコダックの生フィルムの輸入許可を認めることになったものの、生フィルムの割り当てをめぐって映画プロデューサー達は関係機関に申請をしなければならなかった。役所仕事的対応の為、実際に許可を得るのは難しく、彼らはブラックマーケットに足を運ぶことになった。このような生フィルム調達危機に加えて、政府が銀行やその他の主要産業を国有化してきた経緯から映画の制作供給も国有化するかもしれないと噂され、映画産業業界は懸念を深めていく。しかし、こればかりは杞憂だった。

ヒンディ語映画で最も顕著な変化の一つがこの激動の時代にもたらされる。1973年、ある映画が興業的に大成功を収めた。それは警官を主人公(Amitabh Bachchanアミターブ・バッチャンが演じた)とする映画「Zanjeer(鎖)」である。


("Zanjeer"から、Amitabh Bachchan, Jaya Bachchan, Pran, Ajit, Bindu 他出演)

その映画の中で主人公の警官はアウトローとして描かれ、この「怒れる若者」像はそれまでのヒンディ語映画のヒーロー像を全く変えてしまったのである。この映画「Zanjeer(鎖)」の成功がとりわけ目を惹いたのも、当時はラジェッシュ・カンナ(Rajesh Khanna)がその人物像、すなわち、暴力やアクションシーンを排したミュージカル・ロマンスでの柔和で傷つき易い、中流階級風のキャラクターを演じて成功を収め、スーパースターとして全盛を迎えた時期だからである。


(1973年、ラジェッシュとシャルミラのゴールデンコンビによる "Raja Rani"・個人的には"Zanjeer"よりもこの映画の方が好きだ。)

不平を持ち、シニカルであり、暴力的な都会の労働者や人夫が、アミターブ・バッチャン(Amitabh Bachchan)によって膾炙されたヒーロー像である。この時期の映画は目だって暴力的になり、その描かれる対象も家族や内々のコミュニティから、国家、社会および都会の巷での人間関係にシフトし、国家は、犯罪、失業や貧困といった問題を解決するに非効率な存在としてしばしば描かれるようになった。この時期の映画では、正義をもたらすべき法の無力が、自警団の正義と対比して描かれるようになる。この時代の映画の悪人は、富裕で尊敬されるビジネスマンを装う密輸業者やブラックマーケットの住人たちが主であったが、1980年代迄にその悪人の座は、堕落した政治家が取って代わり、警察が国家で唯一まともな存在として描かれるようになる。

1960年代に始まり、1970年代に強まり1980年代まで続いたもう一つの主たるストーリーの傾向は「ロスト・アンド・ファウンド」というジャンルである。ここで描かれる対象は核家族(夫婦と子どもだけの家族)や兄弟といった単位で、悪人の仕業によって心に傷を負ったまま子どもがその親やその兄・弟と離ればなれとなる展開である(ロスト)。そして彼らが大人になって、その別離をもたらした人々や事情を克服し家族が再会を果たす(ファウンド)という展開である。


(1968年の"Sapno Ka Saudagar(夢の商人)", タミル語映画出身のHema Malini (ヘマ・マリニ)のヒンディ語映画デビュー作にして、偉大なラージ・カプール(Raji Kapoor)と共演。ヘマはすでに大スター「ドリームガール」の予感を漂わせる演技。富裕な家の赤ん坊と貧しい家の赤ん坊が取り替えられたことによって物語が始まっている。)

この特別なジャンルは時代を通してポピュラーであり続け、家族の心の別れはわずか30年前に体験した分断(印パ戦争)のトラウマを彷彿させるものであった。それは、数千の家族が離ればなれになり、その大半が再会を果たすことができないという原体験である。家族や血族関係を強調して描くことは、この時代まで数十年を通してヒンディ語映画のストーリーでは顕著な特徴であり続けていた。ヒンディ語映画で描かれる倫理的な板挟みや衝突の場面の殆どは家族関係で描かれてきた。しかし、この家族の描かれ方ががらりと変わるのは1990年代である。

(つづく)

posted by ihagee at 18:24| インド映画