(昨年夏の総がかり国会議事堂前での抗議デモ・撮影者:筆者)
森友学園絡みの政官疑惑。ここ数日、事態は急速にある方向に動き始めたようだ。
憲法学者で慶大名誉教授の小林節氏がこう言う。
「彼らは明治憲法に戻そうとしているんですよ。私は30年以上前から自民党の憲法調査会や国防部会などに出席してきましたが、そこでは『明治憲法は悪くなかった。軍人がダメだったからだ』という発言がまかり通っていました。我が国には日本国憲法という成文憲法があるにもかかわらず、『そんなもの無視すればいい』『慣習憲法こそが国体(天皇を中心とした秩序)の実態である』として大日本帝国憲法を崇めているのです」
著書「日本会議の研究」で菅野完氏が日本会議のことを〈日本会議周辺の人々の意識には“国家”しかない〉〈「国家の誇り」が事実より大事〉と断じていた。戦前のように国民に滅私奉公を強要し、国家のための国民をつくり、忠臣愛国を復活させる。それが彼らの願望なのである。
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「彼ら」とは安倍政権と政権与党である自民党であり、「国家のための国民」とは<国体・政体>に他ならない。
アベノミクスなるイリュージョンの下で「彼ら」は<国体・政体>の復活を企てている。その目的は我々国民から<自己統治>というカギを奪うことである。そのカギを奪う教育にかかわっていた人間が図らずも踵を返し、その正体を白日の下に曝け出そうとしている(そう願いたい)。そのきっかけは権力をかさにした破廉恥な便宜供与というから、これが「彼ら」の掲げる高邁尊大な精神の実態なのかと呆れるばかり。「彼ら」がその人間を「知らない」と切り捨てようとしているのもさもありなん。先の戦争で同朋を真っ先に戦地で見捨てて保身に走った者こそこういった者たちであり、安倍晋三氏はその保身の「愛国者」の末裔である。「偽りを述べる者が愛国者と讃えられ、真実を述べる者が売国奴と罵られた世の中に、私は生きてきた(三笠宮)」
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(憲法第13条)
「すべて国民は、個人として尊重される。・・・最大の尊重を必要とする」。<自己統治>というカギはここにある。<国体・政体>はその真逆。カギを奪うことを願望とする。「カギのかかった箱の中のカギ」にさせてはならない。
総がかり抗議デモが次の日曜日に予定されている。安倍政権の自己崩壊は近いかもしれぬ。嘘の上に嘘を重ね、不都合な事実は脅し・騙し・隠し続けた糊塗縦横の政治。その矛盾と驕りが一挙に自らに降りかかってきている。
「あの連中にどう言う? こういえばいいだけよ。芝居は終わった、お帰り」(映画「アナスタシア」から)
アベノミクスやらオリンピックやらイリュージョン(セレブの芝居)は終わりにして、地に足を着けた社会を我々が取り戻す機会となって欲しい。単なるゴシップではなく、「国民の権利」についてその本質が問われる分水嶺に今あると認識すべきだろう。以下、ブログ記事を再掲載したい。
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カギのかかった箱の中のカギ(憲法第21条)

現行憲法第21条は
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
と定める。
表現の自由(言論の自由)の根拠条文である。
人の内心における自由=精神的自由(憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」・・精神的自由の総則規定)と、その発露=活動(憲法第21条)、はその他の自由な意思決定と活動(経済的自由)よりも優越的地位を占めるものとされている。つまり、個人の自由な意思決定と活動(発露)を国家が妨げることはできない。
個人が自由に情報を受け取り、外部にこれを発露する(言論活動)ことによって、自己の人格を発展させる(自己実現)と共に、国に情報開示を求めたり、政治意思決定に関与する<自己統治>という重要な意味を持っている。
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2016年2月15日の衆院予算委員会で、山尾志桜里議員(民主)と安倍総理大臣の間で以下の質疑があった。
山尾:『総理、このまえ、大串議員に、「表現の自由の優越的地位ってなんですか?」と問われました。この時、総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由の証。」という、かみ合わない謎の答弁をされました。法律の話をしていて『自由の証』という言葉を私は聴いたことがありません。』
安倍:「ま、これは、あの、ま、いわば、法的に正確にお答えをすればですね、経済的自由、そして、えー、精神的自由より優越をするという意味においてですね、えー、この表現の自由が重視をされている、ということでございます。」
「ま、いわば、表現の自由がですね、この優越的な地位であるということについてはですね、これは、まさにですね、えー、経済的な自由よりもですね、精神的自由がですね、優越をされるということであり、いわば、表現の自由が優越をしているということでありますが。いずれにせよ、ですね、それをですね、そうしたことを今、この予算委員会でですね、私にクイズのように訊くということ自体が、意味がないじゃあないですか。」
山尾:「総理、もう一度お伺いします。精神的自由が経済的自由より優越される理由、総理は今、優越されるから、優越されるんだ、といま、おっしゃいました。これは理由になっておりません。これがわからないと大変心配です。もう一度お答えください。どうぞ。」
安倍:「内心の自由、これはですね、いわば、思想、考え方の自由を我々はもっているわけでございます。」
山尾:「総理は、知らないんですね。
なぜ、内心の自由や、それを発露する表現の自由が、経済的自由よりも、優越的地位にあるのか。憲法の最初に習う、基本の「き」です。経済的自由はたいへん重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じてこれは直すことができるんです。
でも、精神的自由とくに表現の自由は、そもそも選挙の前提となる、国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。これが、憲法で最初に習うことです。それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのは、やめていただきたいと思います。」
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支離滅裂な答弁ぶりからも、安倍総理大臣は明らかに憲法を知らない。それどころか「(私に)訊くということ自体が、意味がないじゃあないですか。」と己の不明を恥じるどころか開き直る。
山尾議員からやり込められて少しは憲法について勉強したのかと思いきや、この後も2016年3月2日の参院予算委で、大塚耕平議員(民主)から憲法第13条の「個人」を自民党憲法改正草案で「人」に置き換えている点を質問されて、「さしたる意味はないという風に承知している」と安倍総理は答弁している(拙稿「個人か人か(憲法第13条)」)。一事が万事この調子なのだろう。
この総理にとって憲法は「さしたる意味はない風に」と、○○風のまま曖昧(多分こんな感じ)にはぐらかしておけば後でどうでも政治的に解釈できるとタカを括っているのかもしれない。
イスラム圏7カ国からの入国禁止を命じた「大統領令」を巡り三権分立もおかまいなく司法と真っ向から対立するトランプ米国大統領の言説を我々は日々報道で知りその牽強付会さに驚くが、翻れば憲法を政治解釈(集団的自衛権の限定容認)した安倍内閣(行政府)も同じである。衆議院憲法審査会(立法府)で参考人として呼ばれた憲法学者が全員「違憲」と表明し、法曹界からも違憲の可能性が指摘されているにも拘わらずそれらを全て無視し「合憲」との政治解釈を旨とする「閣議決定」を行った。「立法府の長(安倍総理)」と真顔で錯覚するだけのことはある。三権分立を侵すことにかけて安倍総理大臣はトランプ大統領より平常心かもしれない。
案の定、駆けつけ警護先(南スーダン)の首都ジュバで起きた事態を現地陸自が「戦闘」と日報に記載していたことについて、稲田防衛相の衆院予算委員会での答弁が波紋を呼んでいる。「人を殺傷し、または物を破壊する行為が事実として行われたとしても」、それは「法的な意味における戦闘行為ではない」と、稲田防衛相は言葉を弄ずることに終始し現実を頑として受け入れない。PKO参加5原則をその現場を統制する者が率先して形骸化させようとしている。いくら法に定めても、その法に縛られるべき者が如何様にも政治解釈をするのであれば法はあって無きものとなる。
この答えにならない答え方と法律泥棒(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)ぶりは、この防衛相の任命責任者と全く同じ牽強付会さであろう。
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件の「大統領令」はワシントン州政府の訴えに基づきシアトル連邦地裁によって一時差し止め命令を受けたが、尚も係争中である。
我が国でも安全保障関連法違憲訴訟が各地で起こされているが、「訴えの利益」なる高いハードルが原告に課されている。これも「統治行為論」に裁判所自体が拠って、国民の政治意思決定に関与する<自己統治>に委ねることであろう。しかし、その国民(主権者)の<自己統治>に為政者が制約を課そうとするのが自民党憲法改正草案での第21条であり、ここに「カギのかかった箱の中のカギ」というパラドックスが生まれる。
現在審議中の「テロ等準備罪(実質、共謀罪)」を含む「組織犯罪処罰法改正案」も、法案の国会への提出前の審議(質疑)を否定し、法案提出後は数の力で通すといった安倍内閣の姿勢が見えてきた。立法府である国会での質疑に内閣(行政府)が口出しをすることは、三権分立の原則を侵すことに他ならない。
特定秘密保護法と共に、これも「カギのかかった箱の中のカギ」で、我々国民から「知る権利」共々<自己統治>というカギを奪うことである。
「東京オリンピック・パラリンピックで、万が一にもテロが起きないよう対応する責任があるからこそ必要」との安倍総理大臣の言は、「裁判所が我が国を危険にさらすなんて信じられない。何か起きたら裁判官と司法のせいだ」と自らの大統領令の正当性を主張するトランプの言葉と相似する。法に仕えるべき為政者が法を自らのものとしあたかもそれが正当であるかに強弁をする。
この手法で憲法にもベタベタと手で触って、「触れられたくなければ改憲しなさい」と主権者に講釈を垂れる安倍総理。これは、強盗(泥棒)が盗みに入った家の家人に防犯対策を指南すると同じ(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)。法を犯しているのにも拘わらず、そのことは棚に上げて説法(防犯を説く)をするという論理のすり替え・詭弁である。
慶応大学名誉教授の小林節氏は、想定されるテロ等組織犯罪については現行法制度で十分対応可能であること。「組織犯罪処罰法改正案」が成立施行されれば、立件に向けて国民の「内心」を探るため日常的に盗聴・傍受・追跡尾行が行われる「監視社会」になると警告している。憲法で優越的地位を占めるとされてきた<内心の自由(精神の自由)>へのあからさまな侵害でもある。
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話を戻すと、国民(主権者)の<内心の自由(精神の自由)>の発露たる<自己統治>に為政者が制約を課そうとするのが自民党憲法改正草案での第21条。
その自民党憲法改正草案では第21条は
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、
(現行法との違いは、下線部と打ち消し線部)
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改正草案では第2項が追加され、「これを」という文言が削除されている。「これを」を削除することによって冗長な言い回しを平易にしたかのようにも理解できるが、憲法なる最高法規で意味を成さない法律用語は一つとしてない。「これを」も省略すれば、「してはならない」の客体が曖昧となると理解すべきだろう。
憲法で言う「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」(最高裁判所昭和59年12月12日大法廷判決 民集38巻12号1308頁 札幌税関検査事件)とされている。
条文上、又は判例(判決が繰り返される中で生じた抽象的な法則)が示すところの憲法の言う「検閲は、」を特に指して(「これを」)「してはならない」とする。「これを」を省いた「検閲は、してはならない」という草案では、「検閲」の定義に政治的解釈の余地を与えるものである。法律がときとしてその実行において政治的に解釈されることはあるとはいえ、国会での議論を軽んじ一方的に解釈することが安倍内閣では常套化していることからも、その意図は透けてみえる。
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<精神の自由>の発露たる<表現の自由>を定める現行憲法第21条で新たに加えられた第2項の規定は、その自由を委縮・阻害する内容を含んでいる。「公益」「公の秩序」という政治が関与し易い錘を精神的自由と天秤に吊るすことでもある。
この「公益」「公の秩序」については自民党憲法改正草案での憲法第13条でも加えられているので要注意であろう。
現行法では
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
即ち、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利(幸福追求権=幸福を追い求める権利)」は人権相互の矛盾・衝突の調整(「公共の福祉」)の上に認められるとしている。ところが、自民党憲法改正草案では「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」と書き換えられ、「人権相互」から「社会の利益・社会の秩序」とその相対が「社会」に置き換わっている。
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戦前を知る人なら、すぐにピンとくるだろう。「公益」「公の秩序」を市民レベルで擬制すれば<隣組(官主導の隣保組織)>であり、<一億総○○>と擬制すれば<国体(政体)>となる。

(隣組の作曲者・飯田信夫については拙稿「縁(えにし)の糸」で触れている)


(安倍夫人が名誉校長を務める幼稚園・すでに擬制が始まっている。)
「人権相互」の中からは決して生まれない「非国民」なる言葉も、<隣組>や<国体(政体)>であればその相対として慣用的に用いられ、市民・住民同士が互いに監視し合い密告も是とする予定調和的空気を醸成する。安倍政権になってから「非国民」なる言葉が頻繁にメディアに露出するようになり<国体(政体)>を声高に唱える国家主義が頭をもたげつつある。「素晴らしい・すごい」と称揚する対象が<個人>から、いつの間にか<日本人・日本国>になってメディアに溢れかえっている。
それらは単なる社会現象(ブーム)ではなく、憲法の基本理念の大転回、つまり「国家が人の人格的生存を侵す国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。(小林節慶大名誉教授)」、その過程にあると重大に認識すべきことである。
そして先に触れた「組織犯罪処罰法改正案」について危惧される「監視社会」と密接に絡んでくる。
その目的は我々国民から<自己統治>というカギを奪うことである。奪う者は誰か?国体(政体)であり国体思想を奉じる一部の輩とそれに共鳴、又は何気に巻かれる人々である。戦前の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社禁止を目的としていた。つまり、国民の精神の自由に発する<自己統治>であっても「国体」なる「政体」を侵すものであれば制限されて然るべきという「監視社会」を招来し「国体」思想は日中戦争・大東亜戦争でその頂点に達し破滅したことを忘れてはならない。「公益」「公の秩序」が「国体(政体)」に擬制され、「テロ等準備罪」が「国体の変革」であると政治的にみなすことは全て対象とする「共謀罪」にすり替わる可能性があることは、過去の歴史が示すところである。戦前の「治安維持法」も法案審議過程では「一般市民に及ぶことはない」とされながら、法制化されるやそうでなくなったことはその時代を生きた私の父母から何度も聞かされたことである。「泣く子も黙る」の喩えにあるように、特高警察と聞いて怯えたのは何も共産党員ばかりでなく一般市民も同じだった。「非国民」としてしょっ引かれる対象が一般市民でもあったからだ。
「国体(政体)」の復活をモットーとし、「一億総○○」などとあたかも一つの身体かの如くに国民を括り上げる安倍政権。マスコミを懐柔し市井の人々の批判すら許さない空気が急速に充満しつつある。この空気の下、「組織犯罪処罰法」で「一般市民」が例外となる保証は一つとしてない。イスラム7カ国からの入国禁止の大統領令と同じで「一般市民」であろうとなかろうと、ということになる。
「何度も伺っても、総理のその答えない力、逃げる力、ごまかす力、まさに神っています。(蓮舫議員)」。その言われた本人がマリオに化けてまでショーアップする2020東京オリンピック・パラリンピックは、これも「神の国」と言って憚らない森元総理の息がかかっている。五輪に向けて「国体(政体)」の息を吐く安倍総理が「神って」無敵となるはむしろ当たり前なのだろう。
その「神った」ラスボスを倒せるのも、我々国民が「知る権利」共々<自己統治>というカギを握っている間だけである。
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「カギのかかった箱の中のカギ」は、ジャーナリストの神保哲生氏と社会学者の宮台真司氏がメディア論で引き合いに出すテーゼ。以下も極めて示唆に富む内容なので参照されたい。
追記:
東京新聞は私も購読している。そして、同紙の副主幹(長谷川幸洋氏)が自身司会を務める東京MXテレビの番組『ニュース女子』における「1月2日放送分の沖縄・東村高江で起きていた米軍ヘリコプター離発着場建設に対する反対運動の現地報告」について、2月2日付朝刊上の「『ニュース女子』問題 深く反省」と題した深田実・論説主幹の署名入り文章を読んだ。
長谷川氏は東京新聞の文章について、「謝罪文(長谷川氏の言うところの)」であり「事なかれ主義」と強く反発し、同紙面上ではなく現代ビジネス(電子版)で縷々自身の見解を述べている。
東京新聞の「謝罪文」は「言論の自由」を侵すものだと、長谷川氏は主張する。そして、「事実に基づかない」とみられている点について「事実関係は番組スタッフが取材を続けているので、私としてはその成果を待つ」と述べているが、この言葉から、事実確認の順序が逆であると判る。
放送する前に「事実関係」についてその番組の司会者たる長谷川氏は何ら確認していないということである。今、問題となっているのは放送された内容であって、その内容について適切な手段・客観的な事実と取材活動によって得られた成果であったと放送に先だって確認していたか?ということが問われているのであって、「その成果を待つ」話ではない。事実、この番組を巡っては自局の報道規定に照らし、取材方法や事実確認について問題があるとして放送を取り止めた地方局もある。
また、一方的に論評され公共の電波に実名で晒された者の人権に何の配慮もない。東京MXテレビが準用する「日本民間放送連盟 放送基準」に照らして(特に第6章 報道の責任)、長谷川氏は番組の内容を放送前に確認・注意すべきであった(同基準には「取材・編集にあたっては、一方に偏るなど、視聴者に誤解を与えないように注意する。」とある)。それはジャーナリズムに身を置き副主幹という重責にある者であれば当然のことである。
しかし、それを怠った。そして、そのことを怠惰とも瑕疵とも思わない長谷川氏のジャーナリストとしての資質を東京新聞は指摘しているのである。
そのことを棚上げし「言論の自由」の侵害であると主張し、放送された番組内容と何ら関わりのない他者まであれこれと巻き込んで自分が騒動の渦中の被害者であるかの論説を張っている。挙句にイデオロギーが何だかんだと書いて締めくくっているが、ジャーナリストとしての資質が自らに問われていることへの答えを煙に巻いてはぐらかせているだけである。
「事なかれ主義」だとか「私とは正面とは戦いたくない」と東京新聞に対して言うなら、東京新聞の紙面上で、同紙主幹と長谷川氏との間で堂々とディベートすることを読者の一人として希望したい。これは大いに読み物となろう(東京新聞紙面上の歴史的大論争については拙稿「縁(えにし)の糸」でも触れている)。
(おわり)
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