いささか旧聞に属するが、オンライン動画配信サービスHuluのテレビCMでポリゴンと合成音声の<淀川長治>を観た人は多いのではないだろうか。Huluによると「映画界のレジェンド 淀川長治さんが蘇る!生前の生声とCGで完全再現」とのことだった。
淀長さんの生前の実際の声の素片をデジタルサンプリングし、当人の発声の変化や抑揚などと併せてライブラリー化し、そこから音声素片を接続・加工する技術(ボーカロイド)を用いているようだ。
「権利者の許諾を得ている」とHuluは言明している。著作物としての映像や音声については放送事業者に著作隣接権が与えられているのでその許諾の範囲ということだろう。声の素片にしてしまえば、原著作物の創作的部分に当たらなくなり元の著作権が及ばない。それをボーカロイドしCGを用い<淀川長治>に似せたキャラで甦らせることは著作権上の「翻案権」に当たりそうだが、声の素片なる<ロンダリング>経れば「著作物を翻訳・変形し」に当たらないのだろう。もちろん、淀長さんの映像や音声といった原著作物の存在を前提としているが、独立したパロディの領域に属すると解されるということだろう。
あれは所詮パロディであって淀長さんに再会できて「好評」とする人もいれば、CGのキャラクターが亡くなった人になり代わって物言うことへの疑問も多い。「淀川氏の死後に公開された映画をさも本人が褒めたかのように演出している。淀川さんは精魂傾けて映画を評論した。彼の業績に対する敬意を感じない。私の中にある淀川さんの思い出を悪用しないで欲しい。」といった厳しい意見もある(「 CGでよみがえった淀川長治さんのCMに“好評”とはちょっと違うご意見」)。
淀長さんが亡くなったのは1998年。しかし「蘇った」淀長さんはHulu上で配信された2012年制作のスタローン主演「エクスペンダブルズ2」を推したりしている。上述の技術があればそんなことも蘇った<淀川長治さん>にやらせることできる。
「私の中にある淀川さん」については同感だ。それは私にとっては雑誌「映画の友」で健筆を奮っていた頃の淀長さんであり、リスナーからの質問に立て板に水の如く熱弁したラジオでの淀長さんであって(「淀川長治ラジオ名画劇場」)、見かけのキャラだけを他人が好き勝手に利用することについては「敬意を感じない」とする側である。
いずれにせよHuluは淀長さんの著名性に由来する財産的価値(集客力・顧客吸引力)を期待しているのだから、その経済的価値は本来「パブリシティ権(パブリシティ価値)」(後述)であろう。
この辺りは「死者にパブリシティ権があるのか」という問題に関わってくる。「パブリシティ権」を「人格権」として捉えるのであれば(裁判例)、死亡と共に「人格」が消滅し「パブリシティ権」も消滅する。しかし、上述の「敬意を感じさせない」といった捉え方からも死者(有名人)に対する名誉侵害の蓋然性はあるのだから、「人格権」とは別に「パブリシティ権」が保護されても然るべきと私は思う。憲法で定められた「表現の自由」との均衡も図られねばならないだろう。
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ところで最新の技術を用いれば、生前の淀長さんの実際の映像(著作物)から素片をマッピングしてリアルなCGにすることもできるだろうが、声とは違って二次元・三次元的映像素片(声と違って、映像はそもそも素片にならない)のマッピングは著作権法上の「翻案権」に当たる可能性がある。ポリゴンCGに留めている理由もここにあるのだろう。
ハリウッド映画では俳優の顔を三次元的映像で取り込みアーカイブ化(記録保存)し、当人が亡くなっても容姿の似た他の俳優の顔にマッピングし動作ごと全身をCGで「甦らせる」ことができるようだ。実際にそのようにして制作された映画もある(「ワイルド・スピード」で撮影中に亡くなったポール・ウォーカーが代役の体を用いて「蘇った」例など)
しかし、あくまでもこれは「撮影中に亡くなり、その作品を代役で完成させる」範疇であって、全く別の場面で蘇らせることについては、米国では認められている「(死者の)パブリシティ権」で考慮されるマターだろう。
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昨年来ピコ太郎の寸芸が世界中でブレークしている。
その余勢を駆ってか、国民的大歌手・三波春夫がそのPPAPを歌い出した。もちろん三波さんはすでに故人なので歌っているのは、当人のボーカロイドである<ハルオロイド・ミナミ>である。
巷ではなかなかの好評のようだが、この<ハルオロイド・ミナミ>についても私はそんな好評とは違う意見である。
三波さんは生前、歌い手の音楽著作権について腐心していた。同氏の著作「歌藝の天地: 歌謡曲の源流を辿る」でこう綴っている。
『この一人芝居は印象的であったのだが、最後の幕切れのときに、私は「おやっ?」と思った。私の古い歌がその芝居に使われていたのである。(中略)私の歌が一か月も芝居のなかで使われていることを知らなかったのである。もちろん、歌は歌手の喉から出た瞬間から社会の共有財産となるものだから、どこで使われてもよいのだが、(中略)歌手の労働(歌唱権と言うべきもの)を、隣接権の場で認めて戴きたいと・・・』
歌手の労働(歌唱権と言うべきもの)自体に何ら権利が認められていないことに腐心をしていた三波さんを思えば、本来、三波さんの歌藝を若い歌い手に継がせ、そういう特別な技を身につけた者の権利が認められるように社会に働きかけることが何よりも故人に敬意を払うことではないだろうか。
<ハルオロイド・ミナミ>を三波クリエイツのHPでは、『本物の「三波春夫」の歌藝の宣伝マン』と謳っている。『三波春夫をご存知ない世代の方々にも三波春夫を知って頂き、ハルオロイドの音声で、創りたい歌の世界をどんどん生み出して頂きたい!』とある。
「歌藝」の「藝」とは、草木に実際に手を添えて土に植える意味である。それがたとえ宣伝マンとしても、音声合成技術の賜物<ハルオロイド・ミナミ>なるボーカロイドで良い筈はなかろう。本人の音声を素片にし、継ぎはぎして何が生み出されるというのだろうか。ボーカロイドは技術であってもそれが「藝」となることは決してない。いくら送り手が<ハルオロイド・ミナミ>は宣伝マンであって、本物の三波春夫を知ってもらいたいのだ、などと言ったところで、<ハルオロイド・ミナミ>なるバーチャリティは独り歩きし世の中に膾炙されつつある。「すごい技術だ。本物を超えた。ヒップホップでも何でも歌わせてみたい。東京五輪では初音ミクと競演だ」など。
それが一生涯をかけ三波が遺そうとした「歌藝」への解釈なのか?大いに疑問である。
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その初音ミク。私は良く知らない。実在する声優の声を素片にした元からバーチャルなキャラクターで、キャラクター画像に合わせてボーカロイドによって誰もが歌わせることができるそうだ。2018年日仏友好160周年の日本博で「現代日本文化を世界に発信する」としてその代表として安倍総理大臣は「初音ミク」を推している。つまり、バーチャルアイドルが現代日本文化を背負うということらしい。
初音ミクは技術的にはバーチャル・インストルメントであり「楽器」の範疇なのに、ユーザはミクを「鳴らす」とか「使う」とか言わず、「歌わせる」とあたかも人格があるかのように扱う。
何事も世界から注目を浴びたい安倍総理ならば、法律を変えて電子楽器「初音ミク」に人格を持たせることも考えかねない。ミクのファンなら諸手を挙げて歓迎するだろう。バーチャリティとリアリティの見境を曖昧にする社会は、新憲法草案で自民党が狙っているように現行憲法で定められている絶対無二の「個人」を集合としての「人」にスルりと変えて、一億総○○などと括りあげることを許す。
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「個人」とはこれ以上分けることができない単位を意味し、リアリティ(現実)に唯一無二に自ずと存在する(絶対性)。
他方、「人」集団や社会を前提とした(集団や社会あっての)単位のバーチャリティ(仮想)である。自ずとは存在し得ない(相対性)。
詳しくは拙稿「「個人」か「人」か(憲法第13条)」
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そんな十羽ひとからげにされた若者たちがスマホ片手にミクを追っかけて、気が付いたら鉄砲を担がされそこが戦場だったなどということにもなりかねないのである。
「仮にこうなったら」と世界観を決め、さもそれが現実かのように我々に思いこませるのが現政権である。ホルムズ海峡の機雷の脅威という話が、いつの間にかテロ予防対策と称して人間の内心を照準にした「テロ等準備罪」(実質は共謀罪)の成立がなければ東京五輪は開催できないと言い出す。東京五輪開催は国際公約であって反故にできないから、従って「テロ等準備罪」の成立は必須である・・といった思い込ませ方である。
人間の内心を探るよりも、テロの格好の標的となる原発の再稼働停止こそ現実的な対策であろう。
「人は死んだら蘇りますか?」に「蘇ります」と信じさせるのがバーチャリティの最たるもの。そのバーチャリティを象徴する機関が靖国であり続けている。七生報国とばかりに死者すら親元に返さずにこの社に呼び戻す。命の蘇りを興すのが「みそぎ」であり、その「みそぎ」なる言葉を多用し何度でも蘇りを果すのが政治家でもある。彼らが一般国民よりも先に戦場で死ぬことはない。そして戦争で勝ち負けがつくという彼らの前時代的な観念こそバーチャリティであって、核ミサイルのボタン一つで世界が終わるリアリティの前には何の意味も為さない。つまり、外交努力で核のない世界を日本が率先してこそ最大の国防となる。
今度戦うときは負けないといった戦争をし直すための「蘇り」の社に安倍総理が拝礼する限りは、「蘇らない=生き返らないからこそ、命=現実を大切にしましょう」「戦争をしないで済む外交努力をしましょう」とはならないだろう。
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名優・神山繁さんが亡くなった。「たまに思い出してくれればいい。亡くなったら、ただのカルシウムだよ。葬式無用 戒名不要」と言残したそうだ。
リアリティを地でいくとはこういうことだろう。生きていてこそ価値とは、彼の従軍経験から導き出された人生訓なのかもしれない。そしてその通り長命し大いに人生を謳歌した。
淀長さんも三波さんも「たまに思い出してくれればいい」と思っていたに違いない。
(おわり)
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