デイヴィット・モロニー(Davitt Moroney)によるJ.S.バッハ「音楽の捧げもの」のCDを聴く。
この曲は、大バッハが1747年5月7日にプロイセン王フリードリヒ2世の宮廷を訪ねた折、自身音楽家でもあった同王から与えられたハ短調の主題を用いて即興演奏を行い、その後作品に仕上げて献呈したものとされている。
(同曲から14. Trio-Allegro Moderato)
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現代楽器では、ト音記号の五線譜の中の「ラ」の音、つまり鍵盤の49番目「ラ」(a)の周波数=440Hzを「国際標準ピッチ」としている。NHKの時報として毎日我々がそれと知らず耳にしているピッチでもある(「ピッピッピ、ポーン」の最初の「ピッピッピ」は440Hzの音が3回、後の「ポーン」は880Hz(440Hzより1オクターブ高い音)。
その「国際標準ピッチ」よりも半音低い調律(415Hz)がピリオド楽器である。言い方が間違っているかもしれない。元々、415Hzであった楽器が時代を経て半音高い調律の現代楽器となったと言うのが正しい。
その半音低い調律(415Hz)でのピリオド楽器での演奏は半世紀前まではアカデミック(時代考証)の範疇であったが、今ではその楽器の時代の作品(ルネサンス=バロック期音楽)演奏会では一般的となっている。モロニーの演奏もその調弦のピリオド楽器が用いられている。近頃ではモーツァルトやベートーヴェンなど古典派の作品演奏にまでピリオド楽器が進出している。
それが一般的でなかった頃、たとえばカール・リヒター(Karl Richter)に代表されるバッハ作品の演奏(「ラ」(a)音=440Hz)に親しんできた私の耳には、同じ曲でも半音違えば印象が異なって聴こえるが、今どきのバロック音楽愛好家にとっては、リヒターの演奏に多少違和感を抱くのではないだろうか。そのあたりは、古くはランドフスカ女史、ヴァルヒャやリヒターが好んで用いたモダン・チェンバロ(プレイエルやノイペルト)がその現代調律ゆえに今ではルネサンス=バロック期音楽演奏で使われなくなったのと同じことかもしれない。
(同曲から14. Trio-Allegro Moderato)
リヒターの明晰な楽曲の解釈は数学的且つザハリッヒである。おそらく彼なら頭の中で完璧に全ての楽器を奏でることができたであろう。表現する以前に解釈が成立していれば、楽器や調律、奏法に付随する時代考証は二次的要素であって、楽譜=音符の配列こそ全て(Da-sein)だったのかもしれない。
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モロニーのCDのスリーブには蝋燭の薄暗い灯の下でフルートを演奏するフリードリヒ2世の絵画が装丁されている。目を閉じてモロニーの演奏にしばらく耳を傾けると、不思議にスリーブと同じ絵が心に浮かんでくる。このあたりはアナログ写真と同じかもしれない。即ち、ピッチや奏法といった要素は、フィルムやレンズの特性、現像などのケミカル処理に相当し、色調やコントラストや諧調はそれらに依存している。解釈よりもこれら要素が占める割合が多い。こちらの心の有り様もその要素の一つである。その分ノイズが入り込みやすい。
このモロニーに比べてリヒターの演奏は明るいが聴き疲れがする。最初からこうあるべき(Es muβ.)と楽譜からの膨大な彼なりの入力の積分を見せつけられているようだ。デジタルカメラの演算処理と似てシャッターボタンを押す前にファインダに映る像がすでにデータとして約束されている点、解釈が先に在りきなのだろう。ノイズも受け付けないデジタル写真に喩えられるかもしれない。
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調律(「ラ」(a)音=440Hz)を半音下げることは、ピリオド楽器ばかりでなく、現代楽器にも要求されることがある。オペラで2点ハ音(ハイC)の発声で声帯を酷使するソプラノ歌手にとっても、楽器間の正確なアーティキュレーションを求める指揮者にとっても、半音下げは願わしいことらしい。
生身の人間が処理できる限界が調律にはあるようだ。
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クラシック音楽の世界ばかりでなく、半音下げ調律はハードロックやヘヴィメタルで使われているチューニングでもある。
全ての弦を半音下げると、通常の調律よりもヘヴィーでダークな音なる上、半音分弦を緩めるので、フィンガリングやチョーキングが容易になり、結果として表現の幅を広げることができるようだ。
(Stevie Ray Vaughan - Little Wing)
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写真や映像の色調やコントラストや諧調にも、生身の人間が処理できる限界があるようだ。
世の中「高画質」時代。4KやHDRといった高解像度・高輝度・広色域・コントラスト・高諧調などスペックを売りにする商品が目白押しである。コンタクトレンズに超小型のカメラとディスプレイを組み込んだ技術まで開発中というから際限がない。
私などは視神経が疲れてしまうので、ブラウン管が放逐された2011年7月を以て、この「高画質」狂騒から身を引いた一人でもある。
映画であれば昔のモノクロのムービーからも光を感受し色を想像することができる。また、古い写真アルバムの褪せた写真からもその当時の記憶をたどることができる。それで十分だと思っている。「目だけは正直に年を取る」はその通りで、中年も過ぎれば、4KやHDRどころか、昔のブラウン管の走査線に追随するのがせいぜい程度に視力・視認力の衰えが始まるものだ。
膨大な情報の積分を4KだHDRだと見せつけられて、いい加減疲れてきた消費者も多いのではないだろうか。拙稿「ピュアは毒なり」で述べたように、生身の人間の生理など度外視した「売らんが為の」経済活動から生まれるピュアさが我々の内なるミネラルをどんどん奪っていく。
アナログ写真に私が回帰したのも、ミネラルたる感受性・想像性を大切にし、半音調律を下げると同じく、インビボのアーティキュレーションを保つためである。
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サイアノタイプも同様。せいぜい8諧調の表現幅で、そのデジタル・ネガがディザリング(2値)でも十分でありながら、その結果物は内なるミネラルとなるだけの感受性・想像性を養ってくれる。

そして、カメラの世界でも「低画質」コンセプトが最近話題になっている。
レジ用感熱ロール紙プリンタと一体化したインスタントカメラ(PrintSnap・未製品化)で、1本150円程度のレジ用感熱ロール紙で150枚の写真を撮ることができる。インクを使わないので故障の心配も少ない。このカメラは外部と一切通信手段を持たない上、感熱紙ゆえの保存性の「悪さ」が逆にメリットとなって、個人情報漏えいの心配もない。そして疑似グレースケールでディザリングの粗目の画像は、感受性・想像性を豊かにしてくれると、もっぱらの評判である。
枯れた技術に我々が求めていたミネラルがあったということかもしれない。
半音調律を上げ続けるかの市場技術に、その受容者たる生身の人間が悲鳴を上げる限界点は遠からず訪れることだろう。半音下げる商品への期待が若者の間で少しずつ高まっているように感じる。
(おわり)
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