2016年12月26日

ロシア機墜落で失われたもの


『アレキサンドロフ・歌と踊りのアンサンブル』のLP盤を私の父はよく聴いていた。

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「白系ロシア人は天賦の才なのか数人でも集うと見事なポリフォニーで歌い始めるが、あの日も次第に近づく彼ら兵士の朗々とした歌声ばかりが記憶に残っている。我が家は接収され、家財道具は次々と窓から中庭に放り出されて焼かれて、ピアノの上に掲げてあった劉生の油絵も奪われたのにね(拙稿「私と岸田劉生」)。野卑で無教養だと一目で判るような連中に美しい想い出なんて不思議なものだ。」などと、何度か父から聞いた覚えがある。

満州国新京での話で、その当時父は多感な青年。その父が戦後、勤め先で合唱サークルを起し、年金生活となって再びアマチュア合唱サークル活動に没頭したのも、この最初の出会いがあったからだと思う。

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(オレ・オラ会)

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そして、1970年の大阪万博。父母に連れられて、ソ連館のステージで歌と踊りのアンサンブル(アレキサンドロフのアンサンブルではないが)に触れ、同館のレストラン「モスクワ」で本格的なロシア料理を口にしたのが、私にとって初めてのロシア体験だった。その後、父の買ってきたスヴェシニコフの合唱団によるラフマニノフの「晩祷」の2枚組のLPの地の底から響き渡る歌声に圧倒され、エイゼンやズィキーナが民族楽器をバックに歌ったロシア民謡のレコードに親しみ、すっかり父の好みを受け継ぐことになった。このブログでもソ連邦を代表する歌手だったアンナ・ゲルマンについてエッセイ「星になった歌手」を上梓している。

ソ連時代『赤軍合唱団』と日本では呼ばれた彼らの訪日には右翼が街宣車で邪魔したりなど何かと困難な時期があったが、政治的イデオロギーとは関係なくボニージャックスやダークダックスの歌唱で日本語になったロシア民謡に我々は親しんだものだ。日本ではあまり知られていないが、メンバーの一人がロシア人の血を引くロイヤルナイツはソ連で圧倒的な人気を得ていた。今も彼らの訪ソ時のコンサートやラジオでのインタビューの様子がインターネット・ラジオで不意に流れてくることがある。

『アレキサンドロフ・歌と踊りのアンサンブル』はソ連時代からの映像が数々YouTubeでアップされているので、絶大な人気を誇ったハリトーノフも映像で確認することができる。


(「黒い瞳のコサック娘」ハリトーノフ歌・アレキサンドロフ指揮)

私の手元にもソ連邦崩壊前の同アンサンブルの演奏を収録したLDがある(引退したボリス・アレクサンドロヴィチ・アレキサンドロフが、万雷の拍手に迎えられ覚束ない足取りでステージから観客に挨拶するシーンが特に印象的)。

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(過去の演奏から抜粋したアンソロジー・愛聴盤でもある。)

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戦地慰問とはいえども、このような形で最期を迎えようとは思いも寄らなかった。文化使節として終えることが叶わないのはこの楽団の特殊な宿命かもしれない。彼らもいざとなれば銃を取って軍人としての役割を果たさなくてはならない(ハリトーノフが銃を構える映像をYouTubeで観たことがある)。兵士を鼓舞して戦意を高めなくてはならない。

彼らの独特なポリフォニー(勇ましさと悲しさ)の原点はグルジアにあると私は個人的に思う。あの独裁者スターリン(ジュガシヴィリ)を生んだ地。この楽団の出自はスターリン時代の祖国解放戦争下のソ連邦にある。ソ連邦崩壊後は政治・軍事的にロシアと「向かい合う」関係が長く続いたグルジア(現:ジョージア)だが、そのグルジアの大作曲家ギヤ・カンチェリのHerio bicheboを以って悼みたい(ジャンスク・カヒッゼの歌唱)。我々には想像もつかないような複雑な使命や背景を負って(或いは向かい合って)彼らが歌ってきたのだと思うとそれら全てに悼む気持ちである。


(Herio bichebo)

(おわり)
posted by ihagee at 18:18| 音楽