2016年11月16日

プラグマティズムとポピュリズム(トランプ氏考)



原爆死没者慰霊碑の石碑前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。

2016年5月27日、オバマ米国大統領が慰霊碑を訪れ、犠牲者に黙祷を捧げ献花を行った。今年のわが国の10大ニュースの筆頭に挙げられるできごとである。



産経新聞の嶋田知加子記者は「かつて原爆を投下した国の指導者であるオバマ氏が、碑の前で、わがこととしてその主語に「人類」を当てはめたのでは、そんな想像さえした」と評している。少年時代を広島で過ごしたモーリー・ロバートソンは、オバマ演説での「帝国は盛衰し、民族は支配下におかれたり解放されたりしてきた。それらの節目で苦しんできたのは罪の無い人々だった」での「帝国」はアメリカを指しており、また、この慰霊碑の主語が「人類」であることがオバマのスピーチで解ったと評し、「今まで欠けていたピースが71年の時間を経て、ぴったりはまった気がしました」と述べている。(wikipediaより)

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この碑文の主語は何を指しているのか長らく論争があった。

私も含め大多数の日本人は、人道に悖る原爆なる大量殺人兵器で残酷に殺され、生き延びても被曝の後遺症に苦しんだ我々の同朋に心を寄せ、ことある事に<ヒバクシャ>の<被>の立場から核抑止(非核)を国際社会に訴えてきた。

<被>の立場であるからこそ、慰霊碑でのオバマ大統領の黙祷に「過ちは」の主語となる<加>の側の「今まで欠けていたピース」を米国も含む「人類」に見つけた気持ちになったのだろう。「人類」が犯した過ちであると、多数の擬制に真(ピース)があると理解した人々は多い筈だ。

しかし、本当に「過ちは」の主語は「人類」であってそれが<真>なのか?オバマ大統領になぜ訊かなくてはならないのか。

それ以前に、我々は自問自答していないのである。

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坂口安吾は「もう軍備はいらない」の冒頭に、「原子バクダンの被害写真が流行しているので、私も買った。ひどいと思った。しかし、戦争なら、どんな武器を用いたって仕様がないじゃないか、なぜヒロシマやナガサキだけがいけないのだ。いけないのは、原子バクダンじゃなくて、戦争なんだ。」と綴っている。

「いけないのは、戦争なんだ」、原爆だからいけないではなく、戦争を始めたことがいけない、と因果の<因>を説く。戦争経験者の多くは<不戦>を掲げた新憲法発布に坂口と同じ想いを抱いたことだろう。私の父も同じだった。<過ち>は坂口や私の父といった、戦争やむなしと合意を形成していった日本人一人一人がその主語であると認識していた時代である。

ところが、時代を経て戦争経験者が少なくなった今、なぜ、原爆という<過ち>の主語をオバマ大統領にまで求め、「人類」にまで探そうとしているのか?原爆だろうが通常兵器だろうが、戦争を始めたことが先ず以て「いけない」ことではないのか。その戦争を始めた日本人一人一人が<過ち>の主語であろうことを、「人類」の業などと抽象化・美化してしまって良いのか?

<ヒバクシャ>以前に<戦死者>であり、<非核>の前に<不戦>でなければ、死者は浮かばれない。<ヒバクシャ>を<被曝者>と書かず<被爆者>とするのであれば、原爆であろうと通常兵器であろうと碑文を前に先ずは<不戦>を誓わなければ嘘になる。

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我々は<因>を忘れがちである。「殴ったことを忘れても、殴られたことは忘れないのが人間」でありそれは時を経るにつれて「殴った覚えもないのに殴られた」となる。

広島・長崎の「罪のない人々」を以て、日本という国、日本人全体も「罪のない人々」に染まりたがる。軍部主導とは言え大多数の日本人の意思で始めた自衛(縄張り)を大義とした戦争の実質的結果は、他国への侵略であり、他国の側に立つ米国の広島・長崎の原爆投下が更なる結果であるなら、そもそも合意形成し戦争を始めた大多数の日本人一人一人の罪ではないのだろうか?<人類>にピースを見つけてもらってそれで終わりなのか?(「私たちはどこまで階段を登っていますか?」)

これを言うと「自虐史観だ」と必ず大勢から非難反論されるが、日本人の他民族への虐待(他虐)まで「自虐史観」と言いくるめて何の罪もないとする不遜さ・横柄さこそ戦争を始める動機と表裏一体であり、その結果が広島・長崎の原爆投下であれば、自ら仕掛けた戦争で自らを虐げる結果となるが自虐そのものではないか。これを<自虐>と呼ばず何と言うのだろうか。武力や戦争を肯定することこそ自虐史観と言うに相応しい。

<非核>と言いながら原子力と言い換えただけの<核>を受け入れ、その結果原発事故を招来する。これを<自虐>と呼ばず何と言うのかと同じことである。原発を肯定することこそ自虐史観と言うに相応しい。戦争を始めたことが先ず以て「いけない」と同じく、原発を始めたことが先ず以て「いけない」ことだと未だに認識できない。

戦争を始めたことが先ず以て「いけない」と言えば、売国奴・敗北主義者と罵られる。「偽りを述べる者が愛国者と讃えられ、真実を述べる者が売国奴と罵られた世の中に、私は生きてきた」は三笠宮の遺した言葉である。愛国者という言葉があれば、それは言論によって「戦争に戦う者」であって、武力によって「戦争で戦う者」ではない筈だ。非現実の綺麗ごとと言われようと、憲法によって理念として国際社会で追及できるのはわが国だけである。そんな理念すら不要とする社会の側こそが<自虐>である。言葉よりもハジキがモノを言う暴力団の社会・その中の抗争と何の違いもない。憲法第9条を改正して<不戦>を撤回することは、堅気をやめてやくざの看板を掲げ抗争に身をやつすことと同じである。それが「普通の国」になることであれば、何とも愚かなことだ。

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ヴァイツゼッガー大統領(西独)の有名な言葉「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」には様々な解釈がなされているが、ドイツに於いてこの言葉が自虐史観などと偏狭な括りにされることはない。3万人以上の一般市民が犠牲になったドレスデン大空襲という<過ち>の主語をドレスデン市民およびドイツ人が英国首相に求め、「人類」にまで探すようなことはしない。戦争を始めたドイツ人一人一人に先ずは責任があると<因>を忘れることはない。だからこそ立場を超えて英独の<和解>が可能になる(「写真家・ヴァルター・ハーン(Walter Hahn)とドレスデン」)。「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命背負わせてはならない(安倍総理大臣)」では将来世代にわたって永遠に中韓と<和解>はできないだろう。

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原爆慰霊碑の碑文の主語を社会の多数の擬制にかけて<人類>と言わしめることに対して「違う」と明言しているのが、トランプ氏が次期政権の首席戦略顧問に指名したスティーブン・バノン氏(Steven Bannon)であり、彼の右派系新聞であるBreibart News誌面である。



社会の多数の擬制にかけて<真>を見つけようとするのであれば、パールハーバーや南京大虐殺、従軍慰安婦の犠牲者もそれぞれの国の社会の多数の擬制にかける論理となる。「多数が良いとするのが良い」と擬制するなら、安倍総理はそれらの地に赴き黙祷をしなくてはならない。

Breibart News誌面では原爆慰霊碑の碑文にみる、「何がそうした・そうさせた」と因果の論理的整合を求めるプラグマティズムに照らして、日本人の<被>を前提とした<過ち>の主語探しを否定する。<加>としての日本人のピース以外、整合し得ないとしている。パールハーバーやバターン死の行進、南京大虐殺、従軍慰安婦の犠牲者も<加>としての日本人のピース以外、整合し得ないと言う。(War Crimes of Imperial Japan: A Lesson In Moral Equivalence for Mr. Obama)

プラグマティズムは必ずしも多数決にならない。その点、多数決による「無定見さ」も良しとするポピュリズムとは異なる。

ポピュリズムとは、皆がそう思えば(皆にそう思わせれば)従軍慰安婦など元から存在しなかった。となる。しかし、軍が組織した慰安婦制度は当然に存在していた。そして軍隊経験者はそれを臆さず(場合によっては自慢げに)語ったものだ。満州大連の駅舎で婦女子を引き連れた帝国軍人に「戦場にご婦人をお連れになって?」と迂闊に質問してあとで祖父に余計なことは知らなくてよいと窘められた話を私の祖母からよく聞かされたものだった。従軍慰安婦問題が取り沙汰される以前、その存在を当然と認識していた時代にその通り小説にも映画にも描かれている(「兵隊やくざ」)。ちなみに、日本が統治していた時代、朝鮮人は第二国民とされていた為、「強制連行」という言葉の定義がなかっただけで実質は本人の意思と関わりなく「徴用」されその先に慰安婦制度があった。従って「強制連行」とどこにも書かれていないのだから、自発的に志願して慰安婦になった者しかいないとするは事実の歪曲。

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トランプ氏をポピュリズム(無定見)の旗手のように錯覚してはならないだろう。彼はそのビジネスマンとしての資質からもその政治信条はプラグマティズムに立脚している。因果の論理的整合がなければはっきり「ノー」と言い、あれば周りが反対しようが「イエス」と言うだろう。「多数が良いとするのが良い」という無定見さに陥らない。

安倍総理大臣はどうだろうか?彼は「刹那的な世論だけに頼っていたら、自衛隊も日米安保条約改定もできなかった。国民のために本当に必要だと思うことは、多少支持率を下げてもやってきた。これが自民党の歴史だ」と言う。「ポピュリズムに迎合しない」と吉田茂の如くポーズする。

ポピュリズムに背を向けているように見えるが、それがプラグマティズムかと言うとそうではない。積極的平和主義にみるように武力による他国の紛争への介入や原発再稼働など、巡り巡って<自虐>となると深く考えもせずに(因果の論理的整合などないがしろに)、「この道」しかないと<果>しか言わない。政権に都合する輿論(「この道」)を官邸内で醸成し、政権側にべったり与させたマスコミを使ってそれを増幅拡散し、いつの間にか見かけ上(ネット上)の世論にする術まで身につけている。支持率の上げ下げなどはその術中である。また、アベノミクスにみるように、その<果>が逃げ水のように遠ざかるのも過去との連続性に立って<因>を見究めようとしないからである。従軍慰安婦問題がいつまでも<和解>に至らないのも、過去から積み上げてきた歴史観の継続性をスパッと断絶し<因>を頑なに見ない姿勢にある。そして、原爆慰霊碑の前でオバマ大統領に黙祷させ、日本人の大多数の<被>感情に迎合するところは、その世論を自製する術こそ新しいが、その本質は従来型の「ポピュリズム」の政治家である。

集団的自衛権に基づく限定的武力行使にしても、隣家の火事の稚拙な喩え話に終始するばかりで安倍総理大臣は国民に向けて論理的整合のある説明は何一つできなかった。「我が国は軍産複合体に経済の活路を求める。紛争地の確保と兵器の使用によって巨額な軍需が生み出される。従って、海外の紛争地に積極的に武力介入し需要を創出したい。それは国際兵器市場に日本企業が進出することであり、我が国の軍事産業の振興のために必要である。積極的平和主義と集団的自衛権の限定的武力行使は日米の海外権益の確保であり、経済面に実利があり、安倍政権としては実利を追求する。そのために自衛官諸君が犠牲になる可能性もある。その可能性を否定するつもりはない。憲法上の制約があるのなら改憲を国民に促す。」と正直に本音(これが本音だとしても、私は良いというつもりは寸分もない)を言えば良いのである。その範囲であれば論理的整合はありプラグマティズムと言えなくない。政府専用機に安倍総理と共に搭乗した防衛装備庁防衛装備政策部長の行先が仏国際武器見本市『ユーロサトリ』でありイスラエル国防省幹部と密談している事実、日本の国是であった武器輸出三原則を2014年に撤廃した事実を知って、あの隣家の火事のポンチ絵そのままに小さな話として理解する国民はいない。そんな小さな話にして多数の民意を取り付けようとするところがポピュリズムなのである。



TPP(環太平洋経済連携協定)にしても然り。「市場経済の競争機能・資源配分の効率化機能を多国間で発揮させるための協定であって、米国を中心とする多国間の安全保障戦略の一環であって社会保障制度ではない。自由主義経済にあって競争や資源の配分に与れない産業セクトや労働者(経済的敗者)があって当然。努力した者だけが報われると理解して欲しい。」とキャピタリストやエスタブリッシュメント側の理由と目的を正直に本音(これが本音だとしても、私は良いというつもりは寸分もない)を言えば良いのである。その範囲であれば論理的整合はありプラグマティズムと言えなくない。資本家と労働者の間の所得格差拡大もTPPであれば一国の政治の責任に問われない。市場原理に委ねた内政の放棄でもある。そういうグランドデザインを示して初めて説明となる。それができないのであれば、議会の数の力で強行採決=多数決の原理に従うしかなく、即ち、ポピュリズムなのである。

集団的自衛権に基づく限定的武力行使せよTPPにせよ「この道」と叫ぶわりにはその道の始まりから論理的に説明できない点、落としどころは自家製ポピュリズムである点、トランプ氏とは資質が異なる可能性がある。「具体的な行動につながらないものは無意味」とするプラグマティズムからすれば、「三本の矢」とか「輝く女性」といった政策は今のところ「無意味」スローガンでしかない。為替介入や国債買い入れなど、理由と目的に整合性が認められないことは「アンフェア」と容赦なく言われる可能性が高い。プラグマティズムに照らして安倍政権の諸政策は足元を見られる可能性があるということだ

くれぐれも「ウマが合うかもしれない」などと取り巻きの鮨友同然に相手を抱き込めるなどと思わないことだ(ちなみにトランプ氏はsushiは食べないとのこと)。

(おわり)

追記:

「日ソ共同宣言には、歯舞、色丹の2島がどのような根拠で、誰の主権の下に置かれ、どのような条件で返還するか書かれていない」(北方領土問題に関するプーチン大統領の会見)

日本が北方領土の日本側の<真>の論理の根拠としてきた日ソ共同宣言。因果の論理的整合を求めるプラグマティズムに照らされている。「誰の」「どのような条件で」が元に書かれていなければ、北方領土問題それ自体だけを取り上げて交渉することが難しくなる。

だからといって北方四島の経済援助をロシア主権(法律下)で進めれば、領土問題の存在を日本が否定することになる。「具体的な行動につながらないものは無意味」とするプラグマティズムからすれば、経済援助こそ先に日本が示すべき「具体的な行動」と迫っている。安倍総理大臣はプーチン大統領を日本に招く立場。相手から訪日自体成果のない「無意味」と言われないよう「具体的な行動」を取れば領土問題が怪しくなる。さりとて、取らなければ、対ロ外交の糸口を失い兼ねない。賽は日本に投げられている。どちらも剣ヶ峰である。だから安倍総理の顔色が浮かないのだろう。

元に議論を返されると途端に窮するが安倍政治なのかもしれない。論理的整合性を普段からないがしろにして、カネで露骨に相手を懐柔しようとする外交は足元を見られる。巨額収賄の容疑でのウリュカエフ経済発展相の突然の解任・刑事訴追も日本側からの懐柔の証拠の一つでも紛れていれば、プーチン氏に日本側は足元を見せたことになる。次期大統領に金品を手渡す・マスコミと一緒に飯を食って馴れ合う・こういう贈収賄まがいの習癖を冷たく観察する相手もいる。プーチン氏に続いてトランプ氏もその一人になるかもしれない。
posted by ihagee at 18:17| 政治