俳優・平幹二朗氏が亡くなった。
蜷川演出の舞台は知らない。1973年NHK大河ドラマ「国盗り物語」前編での、油売りの庄九郎(斎藤道三)役が強く印象に残っている。永楽銭の穴に「とうとうた〜らりとうたらり・一滴たりとも穴の外に油が溢れればただでしんぜよう」とえごま油を通す場面である。どうせ溢すと高を括る客を集め、しかし一度たりと溢さずに商売が成る。志ある者は事竟に成るが如く、「とうとうた〜らり」と国(美濃)を盗った男のドロリとした胆汁ぶりを演じてみせた。
「国盗り物語」の後編、道三の娘婿・織田信長を高橋英樹が演じた。高橋も若々しく好演であった。
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志ある者は事竟に成る、は戦国の時代ばかりでない。明治期においても「とうとうた〜らり」と油売りが現れた。
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「カムチャッカ半島は北緯51度から60度の間にあり、その海岸線は約1200カイリ、日本本州の海岸にほぼ匹敵し、西側はオホーツク海、東側はベーリング海と北太平洋でかこまれています。半島の地形は西海岸は平地が発達し、河川が多く、岬もなければ湾もなく、荒波は直接沿岸を洗っています。大陸棚が広く発達して、サケマスのほかにトロール、タラ、カニの漁場を形成しています。(マルハニチロ「 近代〜現代のサケ漁」から)」
「日本人が最初にカムチャッカに足跡を残したのは、明治27年、千島列島の北端幌延(ポロムシリ)島を根拠にカムチャッカ半島に渡航した郡司大尉一行であるという。一行は西海岸南部のオゼルナヤ付近でサケ・マスの漁獲を試みている。また、明治8年の樺太・千島交換条約には「日本船及ビ商人通商航海ノ為オホツク海諸港及ビ堪察加(カムチャツカ)ノ海港ニ来リ又ハ其海及海岸ニ沿ッテ漁業ヲ営ム等渾テ露西亜(ロシア)最懇親ノ国民同様ナル権利及ビ特典ヲ得ルコト」とあり条約締結以前にすでにこの方面に出漁していたことが窺われる。だが、実際日本人がカムチャッカで漁業に従事するようになったのは、明治29年露国オットセイ会社に雇用された日本人漁夫が同地に渡った時とされている(『日露漁業沿革史』)。同社の事業は、元々、コマンドルスキー諸島、カムチャッカ半島周辺海域のラッコ、オットセイ猟業、およびサガレン、黒龍江以北の海運、物資の販売業であったが、主業とした海獣猟業が不振で、その挽回策として、明治28年、ウスチカムチャッカにおいてサケのボーチカ漬けの製造を始めることになり、同年に約200樽のボーチカ漬けを生産した。だが製法が不十分で販路も狭く事業は失敗に終わった。しかし、日本向け塩蔵魚の生産が有望であることに着目し、翌29年、サガレン島のロシア人漁業家セミョーノフ、デンビーらと合同して、塩蔵鮭鱒の生産を開始することになり、同年5月、函館から鮭鱒の漁撈とその塩蔵加工に習熟した漁夫46人を雇入れ、同社のカムチャッカ漁場に送り込んでいる。そして、同年9月、日本人漁夫の送還時に塩蔵鮭鱒7000尾を函館に運び販売している。これは、カムチャッカ産のサケ・マスが日本に輸入された最初の記録であるという。」(函館市史「カムチャッカ出漁の始まり」から)
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カムチャッカ沖での日本船のサケ・マス漁業は「塩蔵鮭鱒の漁撈とその塩蔵加工」における技術拠点・函館から始まったようだ。そしてゴールドマインともいえるカムチャッカ沖に志を固めた者たちがいた。
四日市・九鬼紋七、函館・田中正右衛門、江刺銀行頭取・永滝松太郎、新潟県代議士・牧口義方、江差の大島重太郎、そして私の曾祖父である(曽祖父については「一枚の舌と二個の耳」「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」)。
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九鬼紋七(四日市):
信長に仕えていたのが志摩の九鬼嘉隆であり彼の水軍だった。明治期・その末裔に九鬼紋七(四日市九鬼家八代目)がいた(「九鬼家のルーツ」)。「紋七は1891年(明治24年)に父の遺業を継いで肥料産業・石炭産業などの事業を営み、先進的な従来の人力圧搾法に代えて洋式の搾油機械を導入した四日市製油所を起業した。(Wikipediaより)」
明治に始まる四日市製油所とは庄九郎がその昔「とうとうた〜らり」と売ったと同じ植物油の製造所である(現在の石油製油所は昭和30年代に始まるもので別)。現在では九鬼ブランドは胡麻油で周知されている。搾油は油糟が副産物とするので、紋七は製油と共に肥糧業も営んだ(現:九鬼肥料工業株式会社)。
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田中正右衛門(函館):
紋七が家業を継いだと同じ頃、函館の大問屋・大津屋を仕切っていたのが、田中正右衛門(四代目)である。大津屋は凾館・旧沖の口問屋で代々正右衛門を名乗っており、四代目も最初は回船問屋と漁業(厚岸)を経営していた。函館の商工会に於いては銀行設立など理財に多大に貢献し、明治21年には函館汽船社長に就いていた。
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永滝松太郎(江差):
明治28年江差姥神町に江刺銀行が設立された。永滝松太郎がその専務取締役に就いた(後に江差町長)。江戸時代「江差の五月は江戸にもない」と言われた程、鰊漁で賑わい、明治になってから漁獲量は少なくなったとは言え、鰊は江差の主要な経済源であった。鰊は魚油を取る為に漁獲しており、搾油した後の糟は肥料とした。搾油後の大豆の搾り糟とこの魚糟を合わせて配合肥料としたのは前述の九鬼紋七である。
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牧口義方(新潟)と大島重太郎(江差):
鰊漁で江差が栄えるきっかけを作ったのが、北前交易で代々業をあげてきた牧口家(新潟)であった。延宝元年(1673年)、牧口又八が、地元柏崎荒浜に伝わる「あぞ網」(刺網)漁法を江差に持ち込み大量漁獲の礎を築いたと言われる。「荒浜の人々が創った町」と江差が呼ばれるようになった。
その五代目・牧口義方(嘉永5年−明治32年(1852-99))は衆議院議員であった。同時期、柏崎との交易関係者の中で江差で長年商いをし、土着した人は荒浜の大島重太郎がいた。
大島重太郎は函館に於いて海運会社設立にも参画した。明治19年の渡島組(汽船渡嶋丸)がそれで、後に函館汽船会社と改称され(明治21年)、前述の田中正右衛門(四代目)が社長に就いた。
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汽船・筑紫丸(函館):
明治30年、九鬼紋七、田中正右衛門、永滝松太郎、牧口義方、大島重太郎の出資で汽船・筑紫丸(ちくしまる)3000屯を購入し、私の曾祖父はロシア人漁夫を含む250名を引き連れカムチャッカ沖に鮭を求めて出漁した(明治31年)(なお、曽祖父は手記では「築志丸(つくしまる)」とあるが、筑紫丸のことである)。
九鬼肥料工業株式会社のウエブサイト(沿革)では、「明治30年 肥料運送の便を計るため、四日市港に3000トン級の貨物船2隻(小雛丸、筑紫丸)を擁した。」と記載があるが、筑紫丸と九鬼氏の関わりの初めは、上述の通りである。
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「このとき大の漁獲をして、鮭六十万尾を捕獲したのであった。それを内地即ち日本に送り届けたのである。このときの出資者は十三割の配当をした盛況であったのである。これを露領軍が見届けて日本は乱獲をするから魚族を絶やす虞あるとして出漁許可を露官憲より申し渡され、遂にこの一年きりで出漁できなくなって船もあり何とかこの後始末をするために図られたのが、幸い営口が貿易港に開港されたので、これに目をつけ、四日市 九鬼氏は製油業であるので満州大豆を輸入してそれを絞ることとなり、その大豆買い入れの為、船を手つねがあるのを使いて行うこととなり…」(曾祖父の手記)
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カムチャッカ沖の筑紫丸での鮭漁は一年きりで、その後、船の使途に困っていた。
義和団事変後の天津条約で牛荘(ニウチヤン)の港が開かれることになったが、その港は水深が浅く堆砂も酷く、商港に不適な為、遼河河口のロシア領営口(インコウ)の港市が外国人の居住貿易のために開かれた(明治33年)。
「この事変で清国営口インコウ、元はニウチヤンという名称であったのを、その土地の名インコウをそのまま名称することとなり開港したのである。ニウチヤン「牛荘」というのはこのインコウより川上九里(日本里数)の所にある城下町であるので、始めはニウチヤンと名称していたのである。この営口は、揚子江の海の入口で港が悪く、昔より支那の舟より出入りできなかったのである。河口が浅く、汐の出入りの高低が甚だ高く干潮は歩行していけるのが満潮になると河口の深さは十尺以上になる。もっとも朝鮮の仁川はこの干満の差は十七八尺もあるのである。
この営口「インコウ」は昔から満州広野の農産物の集積地で、揚子江の奥地より産出する大豆及び諸穀物の集散地で、特に満州産の大豆を絞り油と粕に分けて粕は板状にして大支那の農地に肥料として輸出し、油は各地へ販出されてこれはいずれも支那のジャンクで運ばれていた。しかし、日本と密接な貿易が起こり、この油粕を丸い板状とし、目形は一個は四貫匁位のものを日本に向けて輸出していた。これは日本で味噌と醤油の原料として使用するので、その数量は多大なもので汽船に荷造りもせずそのままばら積みにして輸出するのである。」(曾祖父の手記)
「そこで私が明治33年日本から営口に汽船をもって行き、大豆類を日本に輸入するために行ったのがその5月です。私が32才のとき、カムチャッカの漁業禁止のため、当時使用した汽船筑紫丸の運行について四日市 九鬼紋七さんが製油業者であって、支那より大豆を購入して製油を盛んにするために計画をし回航することになり、それに選ばれて私は船主代理として公の手続は尽くし、事務長として海員名簿に登録してこれに従事し、営口に滞在して大豆買い入れに従事したのである。それからが満州の働き場であったのであります。その時は現在の大連の港も何もなく、ダルニーという一つの漁港であった。昔はここに山東方面から旅客は着いてこれから満州に朝鮮にと渡っていたのであります。ですから、それを今日みる大連にしたのは全て日本人がしたので、我が国民の偉大な力であります。引き揚げ時の大連の人口は70万人といいますから、そんな大多数の人が生活のできるようにしたのが日本人であります。しかも市街は西洋に負けない設備があり文化に富んだ、しかも無税港ができてそこに住む人々は別天地であったのです。そこに私は50年も居たのです。」(曾祖父の手記)
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営口は日露戦争の結果、日本が占領することになり、営口を拠点として大連が整備され満州国建国へと繋がった。
その最初の橋頭保である営口が「満州広野の農産物の集積地」であり、特に「満州大豆」には四日市の九鬼氏がいち早く「筑紫丸」を営口に回航し、搾油用の大豆や肥料用の豆糟を積んで四日市まで運んだようである。
明治40年、大倉喜八郎、松下久治郎が「日清豆粕製造株式会社(後の日清製油株式会社・現:日清オイリオ)」を立ち上げ、営口に出張所を設けて九鬼氏の後を追った。

(1957年日清製油創立50周年記念・前列左端が祖父)
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「満洲大豆を利用した油・粕の生産は技術的進歩および大豆粕の利用度の向上により,食用面で重要となった。関東大震災を契機に,大豆油の需要が増大するようになり,食用油として国民生活にかかせないものとなった。」(IDE-JETRO「 製粉・製油業の近代化」より)
「とうとうた〜らり」と油売りが、その昔美濃の国を盗ったように、大豆を追って、日本の油房工業が営口・大連中心に発展し、その権益を中心に満州国という「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」が樹立された。
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曾祖父は大正9年大連郊外土地株式会社社長になり、官地六十万坪を払い下げを受けるのと、静浦に埋立地三万坪をつくり大連郊外に三千戸の住宅を、光風台、晴明台、文化台等々命名・開発するなど、政商として巨万の富を築いた。

(大連郊外土地株式会社が建てた光風台の家・1998年当時現存・父撮影)
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「国盗り」の最後は道三・信長ともに、その報いを自ら受けることになった。「志ある者は事竟に成る」も「国盗り」はいつの時代にあっても成らぬものである。
カムチャッカから、営口、そして満州なる「国盗り」に続く物語も、函館・汽船筑紫丸の一抹の航跡と同じく泡と消えた。
日清豆粕製造株式会社が前身の「日清オイリオ」の「日清(Nisshin)」にはそんな「国盗り」の名残が残っているのかもしれない。
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「その内でも私共は敗戦の結果海外より引き揚げてこねばならぬ破目となり、親類各々散り散りばらばらで着の身着のままという哀れな姿で日本に帰ってきて、無一物からどうやらその日の生活に困らないになったことは努力の結果もあるが、しかし国民の温情と助け合うと信念の賜物であり感謝の思いに満ちておることを声明いたします。」(曾祖父の手記)
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同じ「日清」でも安藤百福が戦後設立した「日清食品」の「日清(Nissin)」とは百福の理念「日々清らかに豊かな味をつくる」から取ったものだそうだ。この百福の志の軌跡なら消えることはないだろう。「国盗り」ならぬ憲法泥棒さえいなければ。
(おわり)
追記:
「安倍首相が“明治復活”旗印にする『坂の上の雲』、作者の司馬遼太郎が「軍国主義を煽る」と封印の遺言を遺していた」なる記事。
司馬遼太郎が生前著作<坂の上の雲>について映像化を固辞したのは、小説の世界を仮想であっても置き換えたりすると、我々日本人は「いっせいに(現実に)傾斜」する「おそろしい民族」であると見抜いていたから。全くその通りだと思う。
「佐貫亦男氏『発想のモザイク』から」でも佐貫氏はこの「いっせいに傾斜」する「おそろしい民族」について、「大股で踏み出」し「顛倒する」と指摘している。「顛倒しても」それが「ゲイン」というコインの表裏であり、戦争(武力紛争)なる表面が(敗戦を経て)経済成長という裏面となるかも知れない。しかしそれが国民にとって多大な不幸を伴うものであることは歴史が証明するところである。そう企んでいるとしか思えないのが安倍政権である。死んで花実の一つも咲きはしない(「梓(あずさ)とサクラ」)。
「線を引いてここからが自分の土地、向こうがあちらの国、その結果、奪い合いをしてどっちが得したとか損したとか、そのために兵をあげてどうするとか、そういうものに血気盛んになられても困るんです」という司馬氏の言葉など一字たりとて「国盗り」安倍政権は理解していないだろう。
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