2016年10月21日

巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)



「百万ドルの夜景」そんな言葉があった。

イルミネーションに縁取られた煌びやかな夜景のことで、ハリウッド映画辺りに言葉の所以があるのかと思っていたら、昭和20年代に「六甲山から見た神戸の電灯の電気代」に絡めて電力会社が考え出したキャッチコピーらしい。そして「百万ドル」なる価値基準は「百万ドルトリオ」(ハイフェッツ・ルビンシュタイン・フォイアマン)からの転用のようだ。本国(米国)でもそう彼らは総称され、私の祖父の時代、ベートーヴェンの大公トリオの音盤は「百万ドルトリオ」か「カザルストリオ」(カザルス・コルトー・ティボー)と相場が決まっていた。

日本三大夜景なるものもあって、「函館山から見る函館市の夜景」「六甲山(摩耶山)・掬星台から見る神戸市・阪神間・大阪の夜景」「稲佐山から見る長崎市の夜景」がその三つとなっている。

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その一つ「函館山から見る函館市の夜景」は昼間でもその景色の明媚さは比類ない。海辺が陸に抱きこまれた函館の港はその形から巴(ともゑ)湾、そして風順なことから綱不知(つなしらず)の港とも呼ばれている。巴は函館の市章でもある。



新鮮な魚介類が水揚げされ、それを目当てに多くの観光客が訪れるが、その海の幸に供する地元の清酒がない。北の誉酒造(小樽)、國稀酒造(増毛)、男山(旭川)、福司酒造(釧路)など、北海道には少なからず清酒の蔵元が存在する。が、函館には蔵元がないのである。

これでは画竜点睛を欠くとばかりに、北海道新幹線開業を記念し、青森弘前の六花酒造が、函館の酒米(吟風)を白山山系の水で仕込んだ純米大吟醸清酒「巴桜」を発売した。巴は函館、桜は弘前城に由来する。

県外の蔵元ではあるが、ようやく函館に「地酒が戻ってきた」と喜ぶ声が多い。

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その昔(明治時代)、函館にも清酒の蔵元が二十数軒あった。そのことを覚えている人はもういないかもしれない。

「丸善菅谷商店」がその筆頭であった。その主、菅谷善司(安政2〔1855〕〜. 明治41〔1908〕)は明治期の「北門名家誌」に載る名士であった。

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菅谷はラムネ製造販売から事業を始めた。

ラムネ(つまり、炭酸入りレモネード)に日本人が最初に出会ったのは、米国ペリー提督浦賀来航の折(1853年・嘉永6年)と伝えられている。キュウリ壜のコルク栓を開ける際の炭酸の放つ音に驚き、幕府の役人たちは思わず刀の鍔に手をかけたとかの逸話もあるようだ。

「明治元(1868)年に築地居住地が開かれると、入船町軽子町畔に蓮昌泰という中国人がラムネ屋を開店している。同じ年、横浜ではイギリス人ノースレーが機械、ビン、香料、炭酸などを輸入してラムネの製造販売をしている。(『図説明治事物起源事典』 湯本豪一/著 柏書房 1996年)」

横浜や神戸あたりでは、舶来のラムネが出回っていたようだ。明治十年代にコレラが大流行すると、「瓦斯を含有した飲料水を飲むと恐るべきコレラ病にかかることなし(東京毎日新聞)」と喧伝されたこともあって、ラムネは庶民の間でも飲まれるようになった。

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函館実業界の大立者・渡邉熊四郎が購入した舶来のラムネの製造機械を用いて、金森ラムネ製造所の名義を以て、明治23年、菅谷は日本人として初めてラムネの製造に成功した。金森は渡邉の屋号で、函館の観光名所「金森赤レンガ倉庫」のその元は渡邉が明治時代に開業した金森洋物店である。

菅谷は日本人として最初にラムネを製造した人物となる。

菅谷のラムネは函館の港に停泊中の軍艦から注文を受けて生産し大いに儲け、それを資金として菅谷は谷地頭に洋酒製造所を建てたようである。

ラムネ製造はその後石垣隈太郎が続いたが、石垣もラムネでの儲けを元手に北洋漁業・海運業に転じた(石垣が函館ラムネ界の先覚者とされている)。

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函館山の裾には「谷地頭(やちがしら)」という地域がある。水が溜まってジメジメとした沼地を「谷地」、虚ろな眼(まなこ)の様に見える沼の穴のことを「谷地眼(やちまなこ)」と言う。その沼を明治11年(1878年)の函館大火後の整備事業として埋め立て人が住みはじめたのが「谷地頭」である。併せて温泉も掘り当て、温泉地でもある。

新開地であった谷地頭に明治23年、菅谷は洋酒(再製葡萄酒)製造所を建てた。

「北門名家誌・1894年・魁文舎刊」の記載に拠ると、

「国産たばこに印税を課した為に輸入たばこが出回り、国富が害され、酒も同様で日本酒を捨てて舶来の洋酒を嗜む時世となったが、菅谷善司はこの時世を見抜いて、洋酒醸造を志すべく郷里(千葉)から京阪の商界を歴遊し、渡米して洋酒醸造の法を研究・伝習して明治22年2月15日に帰国した。
横浜に洋酒醸造所を設け、輸入洋酒の勢いを殺いだ。
明治23年函館・谷地頭に洋酒製造所を設け広く販売に従事した。
世人の好評を得て、兎印薬用葡萄酒、兎印薬用ブランデー、鷲印香鼠葡萄酒、菊水白酒、菊水焼酎薬用焼酎等で、賞揚せられたのも、海外で勉強研究した効果である。(原文は文語体)」

ということらしい。

輸入葡萄酒はそのままでは当時の庶民の味覚の嗜好に合わなかったのだろう。「香鼠葡萄酒(こうざんぶどうしゅ)」は輸入葡萄酒に蜂蜜や砂糖で甘味をつけハーブで風味を高めた再製葡萄酒である。この「香鼠葡萄酒」の日本で最初に製造したのは 神谷傳兵衛のようだ(1886(明治19)年「蜂印香竄葡萄酒」)。

「香竄(こうざん)」は神谷傳兵衛の父の俳句の雅号から由来しているので、菅谷の鷲印香鼠葡萄酒は神谷のそれを真似たものかもしれない。

「香鼠」や「薬用」といった再製に飽きたらず洋酒醸造の道一筋にワインやウィスキーを究めた神谷やマッサン(竹鶴政孝)とは異なり、菅谷は手広く事業を行っていたようだ。丸善菅谷商店の広告の見出しがそれを表している。

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「銘酒醸造販売・洋酒缶詰各種・札幌ビール特約店・輸出品各種・雑貨類、そして日本酒醸造元」

神谷傳兵衛がフランス人に、マッサンがスコットランドで学んだように、渡米し酒の醸造を学んだ菅谷であるから英語は堪能だったようだ。その英語を菅谷から伝授されたのが私の曾祖父である。

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私が生まれた時、明治元年生まれの曾祖父は健在で94才の腕に抱かれた当時の写真が残っている。

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政商として満州(大連)で成功した資産家であり、明治人らしく気骨稜々たる人生を歩んだようだ。そして筆まめなこともあって自分史について克明な記録を残していた(曽祖父についてはさらに「一枚の舌と二個の耳」で触れている)。

その記録の中に菅谷が登場する。

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「私は変なことを言いますが、私を16〜7才のころから面倒をしていただいた人で菅谷善司という人があります。この人は子供がないので私を子にするつもりでおられたので、その人のおかげで英語も話せるようになって、横浜商館に入れる基礎ができました。」

「私は18才のとき、横浜に行き居留地三十番館サミュエル・レビュー商会に入社したのです。この会社は米商であったが輸入する物は時計から食料品、飲料品なぞなんでも各国の物が輸入されて帽子からシャツ類まで諸雑貨があったのです。それを日本人の商人に売るために、初めは取引人という名前で日本人が横浜に店を構えて中継ぎをしていましたが、後には私共が東京に行き商人と売り買いすることになってきたのです。それから外国よりなんでも輸入してくるようになって外国品は需要が高まりそれと西洋文明を見習うために多くの人が舶来ものを好むようになって、その売れ行きは日に日に高まってくるのです。ちょうどその当時役者・川上音二郎が俗謡で唄ったようになったのです。」

「相州の「秦野」という土地は煙草の葉が産出するので、それを私がレビュー商会に在勤中、買い出しに行ったが、横浜からわらじ履きで通ったものであります。聞くところで、葉巻の煙草の中に巻き込むと質が良いので、外国人は好むとかで、大きな貿易品となって輸出されたのです。」

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「国産たばこに印税を課した為に輸入たばこが出回り、国富が害され」ることに憤り、舶来品に負けない国産品を作ろうと思い立ったことが、菅谷が事業家を志すきっかけであった。曾祖父も菅谷から強い影響を受けたことだろう。秦野の煙草の葉の話もどこか重なるところがある。

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さて、明治23年函館・谷地頭に洋酒(再製葡萄酒)製造所「丸善菅谷商店(社屋は地蔵町)」が建てられた。

明治29年には音羽町に酒造場(清酒)が建てられ(職工13名)、明治37年には谷地頭に第二酒造場(焼酎)が建てられた(職工4名)。 明治38年の函館の清酒・焼酎の製造量・製造額に於いて、丸善菅谷は同業他社を抜いて筆頭の地位だったようだ。

谷地眼の土地ゆえに水に恵まれているように思えるが、鉄分が多い硬水で酒の仕込み水としては使えなかった。函館近郊の大沼で有名な七飯から水を取り寄せたようである(後に焼酎の酒造場は七飯に移る)。また、酒米も道外に求めたようだ。低廉な酒には安価で品質が安定した越後や佐渡の米を、上等な酒には兵庫県氷土群の天穂(山田穂?)を取り寄せて使った。

酒造場(蔵元)のみ函館とはいえ、函館の清酒であることに変わりなく、丸善菅谷の醸した「北遊」「菅ノ井」「巴港一」は、北海道十一州清酒品評会で一等賞を受領した函館を代表する銘酒であった。

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上述の三種に加え「北正宗」「丸善正宗」「鍔正宗」「五陵正宗」も好評を得、菅谷は北海全道清酒品評会の副会長に就任した。

清酒の評判を受けて、青柳町の醸造庫は年々その数を増す程、醸造業は繁盛した。しかし、国内にばかり営業するのは菅谷の志ではなかったようだ。商業会議所議員としてロシア領沿岸に度々調査に赴くなど、菅谷はロシア沿岸、そして朝鮮(元山津)にまで営業の場を求めた。明治40年「丸善菅谷商店」は「丸善菅谷合名会社」となり、これからという時に菅谷は死んだ(明治41〔1908〕)。53才であった。

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明治45年4月12日、函館は大火に見舞われた。火元は音羽町で、その音羽町にあった丸善菅谷合名会社の清酒酒造場は焼失した。函館市本町に清酒酒造場を建て直し、七飯村酒造場の焼酎とともに、道内一円及び樺太を販路に酒類・食料品の販売業を続けた。


(昭和10年・丸善菅谷合名会社時代の五稜正宗の輿)

しかし、醸造業界にあって、清酒・焼酎共に石数に応じた生産調整が行われるようになり、造石高の元々少ない丸善菅谷合名会社は、経営基盤の強化が必要となり、昭和12年に札幌燒酎株式會社に吸収合併された(札幌の日本清酒も合併)。

その前年、昭和天皇の本道行幸を記念して丸善菅谷合名会社は七飯の酒造場から「君萬歳」と銘じた焼酎を販売していた。丸善菅谷合名会社の代表銘酒「五陵正宗」とこの由緒ある「君萬歳」が、札幌燒酎株式會社に引き継がれたようである。

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(札幌燒酎株式會社(日本清酒)時代の五稜正宗)

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「五陵正宗」はしばらく本町の酒造場で製造されていたようだが、昭和30年代にその本町に丸井デパートが十字街から移ることになり、酒造場は閉鎖され「五陵正宗」も消え、「丸善菅谷商店」に始まる函館の銘酒の系図はここに終焉した。

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曾祖父は菅谷善司をこう綴っている。


「その恩人である人が私が大連にいるとき死なれる前、病院でしばらく居てくれと言われたのだが、その時は大連で私は事業上おることのできないので、惜しき別れをしてそれきりでありましたが、その人が日蓮宗、俗に云うカタボッケと云う信仰者であって、身延山に遺骨を納めてありました。私は位牌堂に赴いて拝礼しているとき、何万という位牌があるのに、その菅谷善司氏の位牌が目に入り、住職に頼み手に取ってみますと、確かに本人の位牌でありますので私は不思議に思っておりましたのですが、今日、私はブリストル先生のサイエンスを研究しておりますが、これは私の信念の魔力が働いていると信じますと、こんな風になるものだと信じまして、昔のことを思い出して嬉しくなりますのです。」

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曾祖父の信念の魔力が死に目に合えなかった恩人の位牌を引き寄せた。

「五陵正宗」の現身かのように「巴桜」に働いたのは、もしかしたら菅谷の思い残した信念の魔力なのかもしれない。

魂の形に見える巴(ともゑ)の力なのだろう。巴(ともゑ)湾なる函館の持つ魔力なのかもしれない。

(おわり)
posted by ihagee at 18:38| エッセイ