哲学者怒る「日本の公共空間はうるさすぎだ」との記事を目にした。
『私(中島 義道氏)はこのことをかつて「優しさの暴力」と呼んで、そうした単行本も書きましたが、わずかの賛同者は得られましたが、「日本人を目覚めさせる」ことはできなかった。放送を流す側も聞く側も「善意」と確信しているのですから、それをなくすのは大変なことなのです。』
・・・だそうだ。
社会生活上の自己のモラル(意識)の管理まで他者に安易に預けてしまう<意識なきシステム>が楽だとする社会(拙稿「<意識なきシステム>で「世界一」となる国」)が背景にある。この<意識なきシステム>がいかに国際社会で特異(通用しない)であるかという点と、<サウンドスケープ>という考え方を説明した方が良いと思う。
以下、ブログ記事を再掲したい。
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東北復興支援と言いながらなぜか東京再開発(復興)。建設資源(ヒト・モノ・カネ)は東京に一局集中。「東京への影響はない(竹田五輪招致委員会会長)」なる言葉の通り、未だ仮設住宅の被災地を尻目に3/11の被災地を踏み台にした都会人の横暴としか私の目には映らない。
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そんな<東京復興需要>に浮き足立った東京。国際都市をやたらアピールする。そんな国際化?の中で在日外国人や外国人観光客に「日本がいかに素晴らしいか・凄いか」を言わせるテレビ番組が氾濫し、その自画自賛・夜郎自大ぶりには辟易する。相手の文化や歴史・価値観などお構いなしである。
ところが、訪日外国人(特に欧米人)がほとんど異口同音に言うのが「日本人は静かなのに、なぜ公共交通機関はああも騒々しいのか?」である。特に、首都圏の電車・プラットホーム・構内の音は異常に感じるらしい。
私自身もそう思う。私の子どもの頃は今みたいに騒々しくなかった。とくに発車メロディやら車内の注意放送の多さ・音の大きさは冷静に考えれば異常である。都営地下鉄は昔ながらに程々なのに、東京メトロは特に酷い。音の洪水である。
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「あぁ違う国に来たのだな」と最初に思うのは、その訪れた先の鉄道を利用するときかもしれない。

(フランクフルト中央駅・1984年 / 筆者撮影)
欧州の鉄道、たとえばドイツの場合、ミュンヘン国際空港からミュンヘン市内まではS-バーンという鉄道で向かうのであるが、プラットホームも車両の中も我が国ではおなじみのあの<音>がない。
(ハンブルクのS-Bahn・静かだ)
<音>とは駅構内や車内での定型的な案内放送のことである。ドイツではそれらは録音されたもので短く且つ繰り返しがない。例えば、プラットホームでは<Bitte einsteigen, Türen schließen! ビッテ アインシュタイゲン、テューレン シュリーセン>「お乗りください。扉が閉まります。」、車内では "Die nächste Haltestelle ist Isartor. ディー ネヒステ ハルテシュテレ イスト イザールトア"「次の停車駅はイザールトア。」と僅か数秒で復唱しない。そして、列車は駅に到着し、たまに車掌がホイッスルを鳴らしたりホームで<ポン>と短く発車のチャイムが鳴ったりすることがあるが、たいていは乗降が終わるとさしたる合図もなくスルスルと走り出すのである。S-バーンなど中近距離路線では事故や重大な遅延以外で車掌が車内放送をすることもあまりない。市内のU-バーン(地下鉄)も同様である。そしてどちらにも我々が普段目にしているようなフラップドア式の<自動改札機>は存在しない。ドイツでは乗車券を買ったら乗客自身の手でガチャンと券売機横の機械に通して日時などを打刻するが、自動改札機とは当地ではこの機械のことを指す。従って、乗車券を買わなくとも、打刻せずとも、乗り込むことができる(抜き打ちの車内検札で捕まれば多額のペナルティを課されることになるが)。
案内を聞き逃したらどうしてくれると、我が国なら乗客が車掌に詰め寄るところだが、ドイツでは隣にいる乗客に訊けば良いだけの話である。乗車券を買って打刻して乗るのが大多数の当たり前なので、それが当たり前でない少数の人々の為にわざわざフラップドア式のゲートを設置したりしないだけの話である。
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ミュンヘン市内のU-バーン(地下鉄)に至っては、行き先の異なる2系統の列車が同じホームに発着したりするので、駅や車内の案内放送の少なさはお年寄りや身障者にとっては不便だろうと我々は思うが、ドイツでは周囲の人々が手を差し伸べるのが社会生活の常識となっている(移民を多く受け入れるドイツではもはや常識ではなくなりつつあるが)。放送がなかったとか、説明が足りないと駅員や車掌に詰め寄る前に、先ずはその場にいる人々で解決するというハンザ精神なのかもしれない。私も過去何回かのドイツの鉄道旅行では隣の人に助けられたし、逆に見ず知らずの年寄りに手を貸して乗り降りを手伝ったりしたものである。
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ドイツでは公共施設やオフィスでは必要最小限の照明が相場であって、駅の構内も例外ではなく我々日本人にとって薄暗く感じる。<音>の無さと薄暗さは、常に頭上から案内ばかりか注意やお願いなどが降るように鳴っていて、どこもかしこもコンビニの照明のように明るいことが生活環境の一部となっている日本人にとっては、冷たく寂しく感じるのである。これが「あぁ違う国に来たのだな」、と思わせるのだろう。
執拗なまでの駅放送・車内放送やフラップドアの自動改札機など、他者や機械に行動規範(モラル)や判断を委ねることにさして疑問を覚えさせないオートパイロットモードで、電車の中で居眠りをしていても無事目的地にたどりつく日本人にとって、このひんやりと突き放されるような感じはいきなりマニュアルモードに切り替わることと言ったらわかりやすいかもしれない。
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ドイツの話に戻るが、車内放送が少ないからといって誰もが降りそびれるわけでもないし、フラップドア式のゲートがないからといって誰もが薩摩の守(ただのり)をするわけではないだろう。日本人もドイツに行けばその通り郷に従っている筈である。従って、我が国でもドイツと同じように音なしゲートなしでも構わない筈だが、だからといってその通りにして個の判断や行動規範(モラル)がまともに尊重・信用されることに我々日本人は大いにたじろぐのである。たとえば、明日からいきなり駅間の車内放送が一言だけで入構のゲートが取り払われて、「あなたを信用していますから」と鉄道会社に言われたら、「居眠りしたら聞き逃す。案内を繰り返してくれ。」とか、「ズルするかもしれないからゲートを設置してくれ。」と言うのが我々日本人であろう。
つまり、個の行動規範(モラル)や判断が尊重・信用されること、裏返せば、各自で主体的に判断しその結果責任を負うことについては、面倒だ・嫌だ・というのが我々の共通する思いなのかもしれない。フラップドアのゲートの例でいえば、個々のモラルや意識に担保されるべきことを機械といった意識なきシステムに簡単に負わせてしまう。それがあたかも賢い解決の仕方だと合点してしまう。レールに沿って仕分けされる商品のように思考や判断を停止したまま会社にたどり着けるシステムに毎日身を委ねているのである。
最近、首都圏の鉄道で僅か数分の電車の遅延でも車内放送で「深くお詫びもうしあげます。まことに申し訳ございません。」などと最上級の詫びが入るようになったのもある意味でこの判断・思考停止だと思う。鉄道会社の言い分だと、数分遅延しただけでも大迷惑な乗客も中にはいるかもしれず、些細なことであっても一言丁重に車掌が乗客全員に謝ることがマニュアル化されているそうだ。乗客同士の喧嘩や痴漢が原因で運行に支障が出ても、鉄道会社はそれらマナー違反の乗客に代わって「深く詫びる」ことになっている。挙句は、本来は乗客のモラルに委ねるべき車内マナーや所作まで、一々放送しなくてはならないのである。乗客同士も互いに注意し合うことに関わりたくない意識もあるのだろう。そう言う側もそう言わせる側も、根本の部分で思考が停止して、先ずはマニュアルとして言う・言わせている、社会が見えてくる。ある首都圏の私鉄では駅や車内放送のマニュアル集が一昔前に比べて三倍の厚さになったそうだ。個々の判断や思考はやめて、ついついお互いの合点や合意を求めてしまうのである。
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<些細なことでも謝れれば悪い気はしないし、そういうのは日本人同士の気遣いだから>とする人が大半かもしれない。しかし、このような社会生活上の小さな判断・思考停止が習慣的に積み上がると、根本の部分の思考が停止した合意前提のムラ社会ができあがる。原発(ムラ)然りである。
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さて話を逆に向けてみるが、ある雑誌の調査によると、日本に訪れた欧米人にとって「あぁ違う国に来たのだな」と最初に思うのは<発車メロディ>を耳にするときだそうだ。
首都圏の鉄道で駅ごとにそれも上り下りで別々に電車やホームのドアが閉まる時にプラットホームで鳴るあの電子音楽のことである。
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同様の案内は車内で英語を伴って自動放送され(有楽町線の自動放送は太く響く女声で且つ音量が大)、車掌(ワンマン運転の場合は運転手)が復唱し、注意やお願いお詫びの言葉がさらに付け加わる。通勤時間帯の「女性専用車両」の案内は該当車両(最後尾車両)だけでなく全車両に「ご協力をお願いします」と執拗にアナウンスされるが該当車両以外の乗客には何を協力されているのか意味がわからない。
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<発車メロディ>とは「鉄道駅において乗降中の利用者に列車が発車することを伝える音楽あるいはそのシステム(wikipedia)」との定義である。そもそもの目的は「乗降中の利用者に列車が発車することを伝える」ことであって、従来からあった<発車ベル・チャイム・ブザー>がその目的を果たしていたと思っていたら、いつの間にか<メロディ>に代わっている。地方ではその土地に因む民謡や歌謡曲が採用されていることからも地域振興の目的があると理解できるが、東京メトロなど首都圏の鉄道駅での<発車メロディ>はそのようなご当地ものでもなく、多くは作曲家の手によるオリジナル作品なのだそうだ。
従って、首都圏の鉄道の<発車メロディ>の<メロディ>である理由は、各鉄道会社の説明を総合すると、ベルやブザーは乗客にストレスを与えるがメロディはそのストレスを和らげる、メロディがあれば乗客は乗降の時間を推しはかることができる(メロディが終わる迄に乗り降りすれば良いとわかる)、駅に親しみを持ってもらうことや場を和ませること、メロディから駅や上下線の区別がつくことなどだそうで、耳に心地良く乗客に乗降する動作を促すような音節やメリハリや長さが要件とのこと。どうやら、ベルやブザーといった単純な信号の方が耳につかずに良いと思うのは私を含めてマイノリティーなのかもしれない。
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欧米では鉄道駅、それも乗客が乗り降りするプラットホームで音楽を鳴らすことはまずありえない。ニューヨークの地下鉄でも様々なジャンルのミュージシャンが交通局の許可を得てパフォーマンスをしているが、プラットホームでは保守安全上の観点から原則、認めていない筈だ。
乗降の為に<メロディ>が鉄道システム上、必要だなどと露程も思っていない欧米人が、東京を訪れて耳にする<発車メロディ>はその意味でカルチャーショックのようである。パフォーマーへの許可どころか当局が率先してそれもプラットホームでのべつ幕なし鳴らしていること、上り下りで別々の<メロディ>が重なり合ってカオス状態で鳴り響く中を気にするそぶりもなく乗り降りする乗客を見て<weirdウィアード>と彼らはツィートするのであろう。
<メロディ>でありながら誰も聴き入らないが、さりとて無視するわけでもない。<環境音楽>のアーティストであれば、大いに創造力を掻き立てられる景色かもしれないし、安倍首相の言う<クールジャパン>をそこから額面通り受け取ってくれる欧米人も中にはいるかもしれない。しかし、所詮は<ジャラパゴス>であり、欧米諸国の鉄道システムとは何ら互換性を持ちえないものだと思う。
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映画の世界ではこの<発車メロディ>は邪魔にしかならないだろう。まして演歌の世界ではそれは今も昔も<ベル>でなければサマにならないのである。メガネをかけかえれば、やはり異質な景色に映るのである。
ドラマ<七人の刑事 終着駅の女>でも上野駅の16番線ホームに転がる死体の背後でジリリリと鳴る駅のベルの実録音がちょっとした演出となっているし、NHKのドラマ<駅>でも佐藤慶が小林千登勢と絡むシーンも同じくベルが効果的に鳴る上野駅だと記憶している。ベルだから台詞や動作に過度に被らないわけだし、
♪白い夜霧の あかりに濡れて/別れせつない プラットホーム/ベルが鳴る ベルが鳴る/さらばと告げて 手を振る君は/赤いランプの 終列車♪、と<ベルが鳴る/さらばと告げて>だから春日八郎の<赤いランプの終列車>は絵になるのである。
ちなみに上野駅では今でも発車ベルである(一部の番線では<発車メロディ>採用)。そのベルに集団就職で降り立ったことを思いだす<ああ上野駅>世代からの要望あってのことだそうだが、上野がターミナルでなくなった今、いずれ全て<発車メロディ>になることだろう。
駅という人と人がすれ違う場ゆえに、ベル以上はおせっかい。と私は思うのだが・・
話がいささかくどくなった。
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鉄道駅の<発車メロディ>が「乗降中の利用者に列車が発車することを伝える」を目的とするシステムであれば、横断歩道にも<メロディ>や<擬音>を用いたシステムがある。
それは、視覚障害用の横断歩道<音響装置付信号機>のことであり、<メロディ>や<擬音>の目的は「視覚障害者が安全に道路を横断できるよう歩行者用青信号を音響により知らせること(警察庁)」である。
<音響装置付信号機>にはメロディ式と擬音式があって、メロディ式は童謡の<通りゃんせ>がお馴染みであるが、都心部を中心にメロディ式から<カッコー>や<ピヨ>なる擬音式に代わりつつある。この擬音式では、一方向から誘導音「ピヨ」(または「カッコー」)が、逆方向から「ピヨピヨ」(または「カカコー」)が交互に鳴る異種鳴き交わし方式が主流となりつつあると言う。音の出どころと鳴き交わしによって、方向(音源定位)とタイミングを視覚障害者に効果的に知らせるシステムとのことで、たいていの横断歩道には視覚障害者用の誘導用ブロックが敷設されているので、ブロックとこの誘導音によって安全が担保されているということらしい。
さて、視覚障害者にとって鉄道駅の<発車メロディ>はどうであろうか?
視覚障害者のネット上の意見は少ないが、駅や上下線の別を<メロディ>の別で認識できる点では助かっているようである。<発車メロディ>よりも、誘導用ブロックと最近設置が進んでいるホームドアや階段位置を示す<ピンポーン>と鳴る音サイン、点字の案内標識などがシステムとして重要なことは言うまでもない。
自身の足音や白杖の地面を打つ音が周囲に物に当たって反射する音を聞いて周囲の環境を認知することの多い視覚障害者にとって、<発車メロディ>は上述のように駅や上下線の区別に役に立つかもしれないが、それ以外の聴覚上の認知を妨げる要因にならないかと心配する。杖の音が拾えないとか、音サインを聞きそびれるといったことである。
先般、視覚障害者がホーム下に落下して電車にはねられて死亡する痛ましい事故があった。ホームの構造やホームドアの設置有無と併せて<サウンドスケープ>についても見直す必要があるのではないか?
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<音>と<環境>のかかわりを考察する社会科学分野を<サウンドスケープ>と呼ぶそうだ。
その分野からすると、視覚障害者にとってはまさに<音>は意味世界そのものであり、そのような障害者にとっての必須な音と不必要な音との切り分けの点から都市空間をデザインする試みにおいて、我が国は欧米からかなり立ち遅れていると指摘されている。ここでの<音>は視覚障害者にとっては命にかかわることであり、健常者にとって<発車メロディ>が音づくり(プラスのデザイン)であっても、視覚障害者の側に立てば、それは音の規制(マイナスのデザイン)に照らしてみるべきことなのかもしれないという、互いの対極に立った考え方である。
ドイツの鉄道駅や車内の音のデザインはこの意味でマイナスのデザインを基調とするものかもしれない。
<クールジャパン>なるカルチャーでデザインしていては、<音>を介した人間と環境との関係性という社会生活における根本命題には到達しないであろう。<クールジャパン>の範疇では、いつまでたっても、隣駅が<鉄腕アトム>ならばこちらはどんな楽しい<発車メロディ>にしようか?である。
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<音>から考える事例をもう一つ。
ニュース番組はその報道の性格上、制作者の主観を極力排し、事実の描写をその目的としなくてはならない筈である。ところが、民放テレビ各局においては定時のニュース番組で演出を映像に加える傾向が強くなっている。その演出の際たるものが、映像の本質とは無関係な<音(BGM)>の付加である。
なぜ、<音(BGM)>を加えるのか?ニュース番組であっても視聴率の為にはバラエティ化・エンターテイメント化が必要でありその演出手法として入れているという説と、<音(BGM)>を加えることによって映像にある意味の印象操作を施しているという説があるが、いずれにせよ、映像の本質とは無関係な<音(BGM)>の付加に変わりない。
BSチャンネルでBBCやZDFなどの海外放送局のニュース番組と比較すると差は明らかである。それらにおいて映像と関係のない<音(BGM)>は一切加えられていない。天気予報ですらそうである。ついでに言うとアナウンサーの品格までもが違って見える。おかしな<音(BGM)>がなければそう印象付けられるのである。
BBCやZDFなどの海外放送局のニュース番組においても、音のデザインはマイナスのデザインを基調とするものなのだろう。
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<笑点>で先日、三遊亭圓楽が「欧米に比べて駅の案内うるさ過ぎませんかね〜」と持ち上げたが然りである。圓楽はたまに社会問題をそれとなく噺のくすぐりに使うが、<音>一つをとっても社会生活においてはプラマイ(±)の思考が及ぶ社会であってほしいものである。
ドイツを旅行して鉄道駅の<音>の違いに気付くのであれば、或いは、BSの海外放送局のニュース番組の<音>の違いをじっと見つめれば、その背後に考えのある社会が見えてくるのではないだろうか?
(おわり)
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