2016年09月29日

「反博の塔(岡本太郎)」

『安倍政権が、2025年の国際博覧会(万博)の大阪誘致に向け、立候補の調整に入ったことが分かった。20年の東京五輪後の景気浮揚策として有効と判断した。来春にも博覧会国際事務局(BIE、本部パリ)に立候補を届け出る方向だ。(中略)安倍晋三首相は28日の衆院本会議での代表質問で「万博は開催地のみならず、我が国を訪れる観光客が増大し、地域経済活性化の起爆剤となる」と答弁。(毎日新聞電子版 9月28日報)』

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大阪万博といえば、日本が高度経済成長期の只中にあった1970年のあの万博である。当時、子どもだった私も父母に連れられてアメリカ館の<月の石>やソ連邦館の宇宙船など、いくつものパビリオンを見物した。外国人というものをまとめて見たのもあの時が初めてだった。その記憶は鮮やかに残っている。千里丘陵の万博会場は今、記念公園に整備され、岡本太郎の<太陽の塔>が往時のシンボルとして残されている。

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1970年(昭和45年)は高度経済成長の締めくくりの時期に当たる。科学万能・技術礼賛・国威発揚で輝く未来・夢の未来を志向する「人類の進歩と調和」という万博のテーマに一般大衆は何の疑問を持たなかった。しかし、岡本は「人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。皆で妥協する調和なんて卑しい」とばかりに、そんな万博を否定し睥睨するかの如く<太陽の塔>をこしらえた(岡本は「反博の塔」と言っていたようである)。

<太陽の塔>の背中には不気味な<黒い太陽>が描かれている。

黒い太陽.png
(筆者・8mmフィルムから)

<黒い太陽>とはアステカやマヤなどの古代文明、中世ヨーロッパの錬金術に共通して、死と闇・混沌と腐敗・原始といった概念を表すとされている。この概念は「人類の進歩と調和」なる能天気な未来志向とは相いれない。その通り<太陽の塔>の内部は原始・古代の生命の樹が生い茂り、古代人の呪術のおどろおどろしい声が響く。<黒い太陽>の臓物である。

ピカソが1937年パリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画としてジェノサイドの阿鼻叫喚を<ゲルニカ>として描いたように、万博に共通する一辺倒な未来志向に対して、現実を見よ・過去との継続性は断ち切れないと言っているようにも思える。

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岡本は高度経済成長期の只中にあって、死と闇・混沌と腐敗が過去から変わらず未来に続くことを見通していたのかもしれない。「人類の進歩と調和」如きでその連続性が断ち切れるものではないと。

科学万能・技術礼賛という一億総予定調和(安全神話)の象徴たる原発が脆くも大事故を引き起し、未だ収束の目処もたたない現状はその一つなのだろう。原発事故が招来するものは、核爆弾と同じく放射能汚染・被曝であり、原子力と核は本来同義であるのに、「人類の進歩と調和」というテーマを「核」に添わせるだけで「原子力」と言い換え、あたかもそれらは違うかのように見せかけているだけである。戦争への道の果てに落とされた原爆。「過ちは繰り返しませぬから」と言いつつもそのピカドンと同じ正体を原子力と言い換えてこれは便利と受け入れる国民性。そして原発事故にて再び「過ちを繰り返す」愚である。その先にまた戦争への道を用意する安倍政権。<未来>を声高に叫ぶ安倍政権であるが、そのやらんとすることは過去に犯した愚の繰り返しである。

「人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。(岡本太郎)」は然り。

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その然りの「反博の塔」を無視するかの如く、再び安倍政権は2025年大阪万博で、科学万能・技術礼賛・国威発揚で輝く未来・夢の未来を志向する「人類の進歩と調和」を打ち上げようとしているのだろうか。2020東京五輪とも共通する<理念なき狂騒>である。五輪は商業主義によってすでにその高尚な理念を失い、万博の場合そのテーマすら岡本によって半世紀前に否定され、その通りの現実となっている。政治にとっては理念やテーマの是非・有無などどうでも良く、五輪も万博も「景気浮揚策(カネ儲け)」の都合でしかないことはあからさまである。

小池都知事がそんなカネがらみの都合を暴き始めている。施設建設(ゼネコン)あっての五輪とばかり、森大会組織委員長が小池都知事に噛みつき出した。スポーツという理念すらゼネコンの都合の方が優先すると言いたいようだ。やはり<理念なき狂騒>と言われても仕方あるまい。

大阪万博誘致を安倍政権が決めれば、2025年まで総裁任期延長と言い出しかねない。自ら存在理由を作って独裁となる。デカルト転じて安倍流の「我決める、ゆえに我あり」か。

「景気浮揚策」と言えば聞こえが良いが、その手段たる五輪も万博も我々有権者を政治的盲目にする<パンとサーカス>となる可能性がある。その<パンとサーカス>も原資の多くは都民・国民の税金で「もてなす」相手は外国人観光客だと言うから、我々は身銭を切る一方である。外国訪問先では数十〜千億円単位の大盤振る舞いを繰り返し、国内にあっても外国人に「もてなし」をせよと言う安倍総理大臣とは一体どこの国の総理大臣なのだろうか?

そして、万博が終わるまで協力せよと政権が我々に<一億総○○>のスローガンの下、調和を求めるだろう。その国民総予定調和の下で憲法改正を企てる。これが安倍政権の本願である。騙されてはいけない。

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<未来志向>と言っては、歴史問題や憲法解釈などで過去との論理や思考の継続性を簡単に断ち切り、「一億総○○」で一億総予定調和をぶち上げる、岡本が生きていたら「皆で妥協する調和なんて卑しい」と再び言っていることだろう。

1970年の大阪万博から半世紀経っても何一つ進歩していないのが政治家なのだろうか。

塔の内部にうごめく原始生物よりも彼らは進化的に低位に属するのかもしれない。「進歩なんかしない」と岡本が言い放った通り、<太陽の塔>に再び進歩なき万博が戻ってくる。

それすら見通していたかのように<太陽の塔>なる<反博の塔>は今も岡本の意志が通っているかの如く存在し、進歩なき我が国の政治の愚を照らす<モノリス>となりつつある。

(おわり)

追記:
2020東京五輪の費用が3兆円を下らないことが都の調べで判った。
小池都知事は費用の大幅な削減・施設計画の見直しを公言している。
これに対して、森大会組織委員長ばかりか、当のスポーツ界までもが「長い時間をかけて議論を重ねて作り上げてきた。ポンと思いつきで考えたようなもので一気に壊すことをしないでほしい。コスト削減は必要だが、譲れないものがある(荒木田裕子理事)」と猛反発を始めた。。

イタリア(ローマ)のラッジ市長の発言を彼らは肝に命じるべきだろう。
「ローマの五輪招致を支持するのは無責任なだけではない。持続は不可能で、ただ手に負えないだけだ。」
「ローマは1960年大会の開催のために作った借金をまだ返済している境遇だ。」
「イタリアとローマの未来を抵当に入れることはできない。市民にもっとお金を借りよう、お金をもっとくださいとも言えない。」
「オリンピックとスポーツには反対しない。しかし、スポーツを新しいセメント(建設)ブームの口実にしたくない。」
「(五輪招致を)砂漠に大聖堂を作ること。」

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深刻な財政問題を抱える我が国。イタリアを他人事に思える状況ではない筈だ。
にも拘わらず3兆円を下らない費用に税金も充てられる。そんな高額なスポーツを常識化しなければならない五輪なら返上したいとスポーツ界自身・アスリート一人一人が声を上げるべきところだろう。下手をすれば将来世代にまで負の遺産を残しかねない建設ありきの五輪、「未来を抵当に入れて」然りとするスポーツとは一体何なのだろうか?

一旦招致・開催決定をしたからと言って、返上できない訳もない。開催決定後、返上を決定した開催都市の事例は過去にもある。2020年の国際的約束への責任(メンツ)よりも、その先の未来への責任(負の遺産)を考えるべきである。その上で潔く引き際を決めることもスポーツ精神ではないだろうか。
タグ:万博
posted by ihagee at 17:53| 東京オリンピック