2016年09月25日

「捨てるに捨てられなくて」!?

捨てるに捨てられなくて20年間押し入れに眠っていた「ネガ」を、“どうにか”してみた。と、
富士フィルムが家庭で眠っているネガのデジタル化サービスを行っている。

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「今回送っていただいたデータは、15〜20年ほど前のものということですが、とても保存状態がいいですね。とはいえ、保存状態がいいフィルムでも50年以上経ってくると、物理的に限界になってくるものも出てきます。古いフィルムほど、早めのデジタル化をおすすめします。・・・ネガフィルムをデジタル化し、いつでも見られるようにするとともに、安全にバックアップしておくことにした。(富士フィルム)」

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デジタル化自体はそれなりに意味がある。
しかし、デジタル化(電子化)されたデータがほんとうに物理的に安全なバックアップなのだろうか?

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富士フィルムのサービスでは電子化されたデータはDVD(DVD-Rディスク)で納品される。「DVDの寿命は10年ほど」と言われている。業界では「10年以上は持ちます」と言っているそうだから、10年が最低寿命ということになる。私の手元にある音楽用CDやDVDソフトにはすでに10年以上経過したものがあるが、パソコン上でデータを検証するとエラーばかりで再生不能なディスクがかなりの数存在する。基材のポリカーボネートが経年で劣化し記録層に影響が及んだのだろうか。エラー部分はソフトウェア的にスキップして再生しても音楽CDの場合はそれなりに流して聴くことができるが、DVDの場合は動画はフリーズし写真はノイズが入って見られたものではない。たとえ、ハードディスクやSDカードにバックアップしても、それらには物理的に寿命がある。また、データは再保存する度に劣化を起こし(特に上位の保存形式にデータを書き換えると)、最後には読み出せなくなる可能性がある。だからといって、保存形式をそのままにしておくと、読み取るためのソフトやハードウェアがなくなってしまう(VHSなどのビデオテープと同じ)。

ノイズ.png
(再保存を繰り返した結果、色を失いノイズが入ってしまったデジタル写真・2001年撮影)

記録媒体としてのDVDという規格の寿命についてはわからない。アップルのパソコンでは数年前からDVDドライブさえなくなった。パソコンに代わるスマホやタブレットPCにDVDドライブはない。つまり、DVDという規格や記録媒体自体がすでに市場では陳腐化しつつある。陳腐化は承知の上のDVD(DVD-Rディスク)なのだろうか。

そして、今はクラウド上の仮想ディスクが記録媒体の時代である。そのクラウドでさえ機密性・安全性・保存性は常に脅威にさらされされている。

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私の手元にあるネガフィルムは50年以上経過しているものもあるが、フィルムスキャンやプリントに耐えられない程劣化しているものはない。さすがに、押入れの天袋に無造作に放置しておけばカビたりボロボロになったりするだろうが、茶箱に入れて普通の生活環境で保存していれば50年以上の保存性はある。防湿庫に入れるなりして湿気対策をしていればさらに寿命は延びるだろう。先のブログ記事のヤフオクで入手した昭和30年代初め頃の他人様のネガフィルムなどは骨董市など渡り歩いてきたものだが、まだまだフィルムスキャンやプリントに耐えられる状態。寿命など到来していない(水に落としたと思われる一本のスリーブのフィルムのみカビだらけだった)。

将来、本当に半永久的に保存・記録性を保証する記録媒体が現れるまでに寿命に限界がくる可能性があるとすれば、それはフィルムではなくDVDかもしれない。

「保存がいいフィルムでも50年以上」ということは50年がフィルムの最低寿命ということだから、「10年以上」のDVDに必ずしも分があるとは限らない。ましてや規格としてのDVDはすでに陳腐化しつつある。フィルムなる規格は登場から100年を経ても未だ健在(ブームの兆しすらある)。キタムラなどのカメラ店で新しいフィルムは買えるばかりか、現像もプリントも問題なく行える。古いネガフィルムもボロボロでない限りはプリント(デジタルプリント)を頼むことができる。多少の傷やカビでも綺麗に修正してプリントする技術はデジタルプリントの賜物かもしれない。

デジタルのハード・ソフトが常に《トレードオフ》という頻繁な《追求と犠牲》の関係にあるのに比較して、アナログフィルムやカメラは100年を経ても絶妙に《追求と犠牲》の調和が保たれている。120フィルム(中判)が登場したのは1901年、それから何ら規格は変更がない。パトローネに入った35mmフィルムが登場したのは1934年、同様に今に至るまで何ら規格に変更がない。それらを用いるカメラも同様。コンシューマ向けの工業製品でこれほどの規格寿命を得ているものは稀である。優れた設計思想が最初からあったことの証でもある。

換言すると、《トレードオフ》という頻繁な《追求と犠牲》は昨今はメーカー側の都合であって、消費者の側の都合でも目的でもない。その頻繁さは優れた設計思想とは程遠いものかもしれない。そんなメーカー側の都合に踊らされるばかりで、飽き飽きした若者が本来の都合や目的に立ち返ってアナログフィルムに回帰する気持ちはよくわかる。

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そして、デジタルデータ(電子情報)自体が「安全」である保証は何もない。拙稿「紙は最強なり」でも述べたが、電子情報は勝手に足が生えて拡散する可能性がある。

「SNSで共有してみる!facebookなど、旧知の友人とつながっているSNSで、懐かし写真を共有。(富士フィルム)」はまさにそのデータに足が生える可能性を考慮する必要がある。

記録媒体としてのフィルムは紙と同じく現物保存であり、束ねて一所に縛っておけば厳重に管理ができる。つまり、オリジナルの情報の在り処は明確である。ところが、電子情報は足が生えて拡散した先でそのオリジナリティを失って改竄される畏れがある。そうなると記録媒体としての「安全」かどうか以前のプライバシーの安全性にも関わってくる。

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そして「捨てるに捨てられなくて(富士フィルム)」とくれば、電子化すれば「捨てられる」という誤ったメッセージを消費者に発信することになりはしまいか?「安全」なDVDがあれば、フィルムは捨てても大丈夫という誤解を招く。フィルムを捨てるということは前述の現物としてのオリジナル情報を失うことにもなる。そうなると、あとはメーカー側の都合に付き合うしかなくなる。「古くなっていつ読めなくなるかわからない「DVD」を、“どうにか”してみた」・・と。《トレードオフ》の《頻繁》さに今後付き合わされることになる。「とても保存状態がいいですね。とはいえ、(富士フィルム)」の話の転換の先はメーカー側の都合のような気がしてならない。古いフィルムを補修したり、劣化しない新素材のフィルムを用いた複製という形であくまで媒体の規格を保証すべきなのに(これは光学8mmフィルムの場合と同じ)、DVD化でフィルムを「捨てる」ことを助長し、あまつさえ《トレードオフ》の《頻繁》で移り気な規格に消費者を乗り換えさせる。その先にデータが保たれる保証は何もない。あるのはメーカー側の都合ばかりだろう。《フジフィルム・Fujifilm》とフィルムを社名に留めるのであれば、徹底的にフィルムという規格に拘って欲しい。それがフィルムで稼いできた企業の社会的責任というものである。

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そして、数十年分の写真を一枚のDVD(またはハードディスク)に収めてその一枚に万一があったときに被る損失は大きい。リスク管理上、やはりフィルムは残しておくべきだ。

スキャンもプリントも元のフィルムあっての物種。嵩張ると言っても家具程でもないだろう。東京オリンピックに向けて箱物(ハード)に次々と巨費を投じる位なら、そのカネでみすみす失われていくフィルムという時代の記録(ソフト)を東京都が積極的に一般から収集・保管(アーカイブ)すべきなのかもしれない。アナログフィルム全盛時代の人々が年老いて社会から消えていくと同時に、その資産もゴミとして処分される憂き目にある。先日の他人様のネガフィルムの一件はひどく考えさせられた。たまたま拾われて私の手元に来たが、毎日どこかでゴミに出されているのだろうと。家族(個人)の記録の背景には社会で広く共有していた時代性が写り込んでいることが多い。その時代性を偲ぶ映像記録が次々と消え去る喪失感・危機感である。デジタル時代にあってその利便性はデータの保存性・安全性を犠牲にしているとの指摘もある。近い将来、社会全体でデータの暗黒時代(全て一瞬に失っていた)が到来しないとも限らない。電子社会は大混乱に陥る。電子データなる電気や磁気の挙動を明日には突然消え去るカゲロウの様なものかもしれない。そんな脆弱性をテロリストは狙うことだろう。

石や紙などに刻みつけた文字や絵があって数千年の歴史は記録され伝えられてきた。アナログフィルムも化学変化が物理的に定着したものである。あくまで記録手段も媒体も現物主義である。現物ゆえに管理は易い。デジタル化(電子情報)は記録性・安全性・保存性からすると、大きな退歩かもしれない。

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東京五輪に向けて都心は《再開発》のラッシュである。今必要なのは《再開発》ではなく《過去を失わない努力》であろう。五輪が東京を再び《破壊》することを危惧する(拙稿「「五輪」という破壊」)。

1959年
(1959年頃・祖父(フィルムからスキャンしたもの))

(おわり)
posted by ihagee at 08:11| 古写真・映像