2016年09月21日

縁(えにし)の糸

都会の喧騒を離れその年の夏も夫妻は立山山麓のホテルに滞在した。本宅は五反田にあるが、この地に居ることの方が多いのも富山の名人にマッサージの措置を受けることと、森林をわたる澄んだ空気の下で体を休めるためかもしれない。夫妻は結婚して5年目を迎える。いつも温かく迎えてくれる富山の人々に、帰京前に何回かのリサイタルを以て返礼をするのが常であった。老紳士はヴァイオリン、そして夫人はピアノを奏でた。

いつになく体調が優れ、帰京後のリサイタルの準備に夜遅くまでとりかかったその翌朝、夫人と愛器グァルネリを置いて老人はホテルの居室で亡くなった。
1993年(平成5年)7月のことである。

話はそれからおよそ60年前に遡る。

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1930年代、音楽愛好家の間で音盤を通じ名声を確立していたゴルトベルク=クラウスのデュオは、1936年(昭和11年)に来日し、同年3月23日から27日にかけて日比谷公会堂で演奏会を開いた。



2・26事件の僅か1ヶ月後のことである。カール・フレシュ門下の俊才シモン・ゴルトベルク(Simon Goldberg)は14歳でベルリン・フィルハーモニーの演奏会でプロ・デビューし、名門ドレスデン・フィルハーモニーのコンサート・マスターを務め、そして弱冠19歳にして、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーから請われてベルリン・フィルハーモニーのコンサート・マスターになった。しかし、程なくしてナチスが政権を取り、人種差別問題でゴルトベルクはこの栄えあるポジションを奪われ、ピアニストのリリー・クラウス(Lili Kraus)とデュオを組んで世界演奏旅行の途中に日本に立ち寄ったわけである。クラウスはアルトゥール・シュナーベル門下の逸材としてすでにドイツを中心に活躍していたが、ゴルトベルク同様、彼女も人種差別問題でドイツを追われる身であった。

音楽好きな近藤という青年が新妻を同伴して演奏会を聴きにきていた。そして奥田もその演奏会場にいた。彼らはクラウスのファンであった。

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1939年(昭和14年)、その年の12月にドイツ軍がポーランドに電撃侵攻し第二次世界大戦が始まる。戦雲漂う欧州を避けて、この頃、ゴルトベルク=クラウスのデュオはアジア楽旅を行っていたようである。1940年(昭和15年)その楽旅の先でクラウスはゴルトベルクと別れて、家族とともに蘭領ジャワ島に居を構えた。ゴルトベルクはソリストとして演奏活動を続けていた。

1941年(昭和16年)の12月には日本は米英に宣戦を布告。翌1942年(昭和17年)には蘭領東インドに侵攻し、クラウスの住むジャワ島も日本軍の占領下となった。クラウスとは別に、ゴルトベルクも彼の家族とともに、同じジャワ島に拘束されていた。

やがて戦局が厳しさを増すと、ゴルトベルク、クラウスの二人は「敵性外国人」として、それぞれの家族も島のいくつかの抑留所に、互いに引き離されて送られた。

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そのジャワ島に小林がいた。
実家の酒造問屋に出入りしていた絵描きから絵を学んだり、ヴァイオリンを習ったり、叔父の経営する写真館の手伝いをしたりと彼は物心がついた頃から諸事にわたって好奇心が強かったようである。

そして青年となり、プロのヴァイオリニストになるという大志を抱いて、密航同然で渡欧を試みたもののうまくいかず、その旅路の途中、インドネシアのスマトラでドイツ人の撮影技師と親しくなる機会を得、その縁でスマトラ・メダンのコダック社に入り、撮影の手法を学んで1935年(昭和10年)に帰国した。程なくして、尋常小学校の教材映画の製作を手掛けていた十字屋(現:銀座十字屋)の映画部に小林は入り、細菌を相手に顕微鏡を用いた撮影技法も身につけた。

しかし、間もなく十字屋映画部は東宝の文化映画部と共に日本映画社に統合され、国策の下、ニュース映画を製作する日本映画社で、小林はメダンで覚えた現地語の能力を買われて、再び南方特派員として日本の統治下にあるジャワ、ジャカルタの支局に配属された。1942年(昭和17年)のことである。前年に日本は太平洋戦争に突入し、蘭領ジャワは日本の占領下におかれていた。

ジャカルタで小林は多くのヨーロッパ人が敵性外国人の嫌疑の下に抑留されていることを知る。そしてその中に小林はゴルトベルクを見つける。世界的ヴァイオリニスト・ゴルトベルクを、その道のプロを一度は志していた小林が知らぬはずがなかった。

『自らもバイオリンを弾いた父は、ゴールドベルグ氏を訪ね、恐る恐る、氏の演奏する姿を日本にいる子供達に送りたいので写真を撮らせてほしいと申し出た。ゴールドベルグ氏もそれを快諾され、百数十枚の写真を撮らせてもらった。(中略) ゴールドベルグ氏はその後、日本軍部の特別許可をもらって抑留者のためのコンサートを企画、自分の記憶の中にあるオーケストラパートを雑誌の余白で作り、また5,000人の抑留者の中からオーケストラメンバーを選び、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。その時の美しく心に深くしみる演奏に涙を流しながら聴き入っている人達のスケッチが残っており、ゴールドベルグ氏は、飢えや明日をも分からない人生に苦しんでいる人達を唯一精神的に支えられるのは音楽なのだということを悟ったと話している。(小林健次氏)』

運指・運弓を記録したその百数十枚の写真をもとに小林が祖国に残してきた二人の息子は懸命にヴァイオリンを練習した。

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クラウスは夫と二人の小さな子どもたちから引き離されて一人抑留所にいた。クラウスが世界的なピアニストであることを帝国軍人たちは知らない。しかし、偶然そこにあの奥田が居合わせた。日比谷の演奏会に来ていた今は一等兵の奥田である。奥田は蘭領時代に宣教師がジャワの教会に置いていったリード・オルガンを調査する任務で大宅壮一が率いる「治部隊」と呼ばれる宣伝班に配属されていた。彼自身オルガン弾きであると共に、戦争が始まる前は高等小学校向けの音楽教育研究の場に身を置いていた。そして同じ宣伝班にいた国民唱歌「隣組」の作曲者飯田信夫を介してクラウスを宣伝活動に使うことをその当時のジャワ軍司令官に提案した。司令官はその温厚高潔な人柄で知られる「仁将」今村均である(後に陸軍大将)。今村はこの提案を快諾し、クラウスに対して「抑留された西洋人、また捕虜の慰安の為、慈善演奏会を開いて欲しい。」と頼んだ。クラウスはこの言葉に大きな感銘を受けたようである。こうしてクラウスは日本軍の宣伝活動の一つとしてラジオ放送向けの演奏を任されることになった。

音楽活動に自由を与えてくれた今村が軍命を受けて激戦地ラバウルに移動し、クラウスは抑留所を転々とするうちに再び暗い抑留者生活に戻されてしまう。ピアノを弾く為の指はバケツの水汲みに酷使された。そして戦局が厳しさを増した1943年(昭和18年)、その年の9月にクラウスが抑留されていたジャカルタ地区抑留所の所長が代わった。新任の所長はしばらくしてあることに驚愕することになる。その管理する抑留所にクラウスがいることを知ったのである。奥田と同じく7年前日比谷公会堂でゴルトベルク=クラウスの演奏会を聴いていたあの近藤であった。

近藤がクラウスに手を差し伸べたことは言うまでもない。粗末なアップライト・ピアノしか施設にはなかったが、彼女のためにピアノが弾ける環境を作った。しかしクラウスは自分の為にピアノを弾こうとは思わなかった。クラウスの要望を近藤が取り成して、その年のクリスマスに抑留者の為に演奏会が開かれたのである。『家族や愛や夢など、人生の大事なものをあらかた剥奪されながら、最後のひと皮のところで何とか残っている人間性に、拠り、縋り、再生を願う、その祈りなのだ。(中略)音楽の価値が、聴き手を感動させ、人に何がしかの力を与えることにあるとしたら、どのような一流のステージも、ここでの純度、密度には敵わない。』(《リリー、モーツァルトを弾いてください》 多胡吉郎著、2006年12月・河出書房新社刊)。

今村も近藤も共に、戦時にあっても敵味方なく人間の尊厳を重んじ、人間性を取り戻す力を音楽に認め、クラウスを介して抑留者にもたらしたのである。

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ゴルトベルク=クラウスが来日した1936年(昭和11年)。ベルリン・オリンピックが開催され「前畑ガンバレ」の連呼に国民が沸き立つ我が国にナチス・ドイツから逃れてくる音楽家は少なくなかった。ゴルトベルクとおなじポーランド系ユダヤ人、指揮者ヨーゼフ・ローゼンストックもその一人である。新交響楽団(現:NHK交響楽団)の招請で半ば亡命の形で日本の地に降り立ったのがその年である。この新響のコンサート・マスターはトットちゃんの尊父、黒柳守綱である。

『ヒトラー治下のドイツからやって来た身には、(日本は)極楽のように思えた』(《ローゼンストック回想録》 日本放送出版協会刊 )

しかし、その楽観もすぐに潰え、1941年(昭和16年)太平洋戦争とともに、軍政下の文化統制が厳しさを増し、1944年(昭和19年)の2月の日響との演奏会を最後に多くの「敵性外国人」とともに軽井沢に終戦まで幽閉されることになる。

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(戦時中、富士フィルム・川上工場長(祖父)が技師として匿った外国人夫妻・母の遺品より)

軍歌を弾きたくないと最後まで戦争に反対してきた黒柳もその年に大陸に兵士として送られた。

当時の文化統制に積極的に係わったのが楽壇の重鎮、山田耕筰であった。山田は軍部の後ろ盾で発足した日本音楽文化協会の副会長として、ナチス治世下でゲッペルスが音楽を通じて行ったと同じ国民教化、宣伝活動を模倣し、楽壇から英米を中心とした敵性音楽の排除、ユダヤ人音楽家排斥を公言して憚らなかった。『戦争の役に立たぬ音楽は今は要らぬと思う。』(《音楽之友》1943・7月号刊)



戦後、NHKラジオの「音楽の泉」の司会進行役で知られる音楽評論家の堀内敬三氏も山田と並んで、この当時は「ユダヤ禍排撃」の急先鋒であった。

『日本に居るユダヤ系指揮者や演奏者には優秀な技術を持つ人々がある。しかし、たとへ其の人々が神の如き手腕を持つてゐたにせよ、其の人々を尊重する事が今日の国民思想に悪い影響を及ぼすならば考へ直さなくてはならぬ。国家あつての芸術である。』(《楽団戦響/音楽之友》 1943年刊)

『戦争の役に立たぬ音楽は今は要らぬ』の言葉通り、学徒を戦地に壮行する音楽、国民の戦意高揚に期する音楽が日比谷公会堂で奏でられることになるのである。今や年末恒例のベートーヴェンの<第9>も元をたどればこの時期の学徒壮行の為の音楽であった。
東京大空襲で帝都の中心が灰燼と帰した中で奇跡的に戦禍を免れた日比谷公会堂にあって、窓の外は焼け野原・死屍累々のありさまにも、《歓喜の歌》を昭和20年6月迄演奏したとの記録が残っている。

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その頃、小林はニューギニアの深い森の中を彷徨っていた。日本映画社のジャカルタ支局でニュース映画のカメラマンとして戦闘機に搭乗し前線の様子を撮影するように命じられていたが、空にカメラと共に命を投げ打つよりも、妻子の先行きを案じ何としても生き延びる道を選択したのであった。撮影に出かけると口実をつけて自ら行方知れずになったのである。先住民アポリジニの集落に約2年間身を潜め、日本軍がジャワから撤退するやジャカルタに戻り連合軍(オランダ軍)の捕虜となった。ここで2年間の収容所生活を続けるがその間に彼らからパンの作り方を習った。

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日本が戦争に敗れ、ゴルトベルクとクラウスの抑留生活は終わる。連合軍がジャワ島を素通りして日本本土に向かった為にジャワ島は戦火を免れたこともあり、彼らのばらばらに抑留されていた家族は全て無事であった。ゴルトベルクはイスラエルを経て米国に渡り、クラウスは英国籍を取得し同じく米国に渡った。彼らの名声は衰えることなく、ソリストとしてまた、それぞれ新たなパートナーとともに演奏活動を繰り広げた。しかし、この二人が戦後再びデュオを組むことはなかった。その理由はわからない。

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日本映画社のジャカルタ支局のカメラマン、監督、プロデューサの多くが、復員後直ちに映画界に復帰することができた。映画を通じて占領下の教育・啓蒙活動を図ろうとしていたGHQにとって、日本映画社の人材はまさに好適であったからである。
GHQの要請で戦後直ちに、株式会社日本映画社が新生・再建される。1951年(昭和26年)に教育映画部門が分かれて日映科学映画製作所としてジャカルタ撮影所次長であった石本統吉により設立された。この日映科学映画製作所には小林が戦前勤めていた十字屋映画部からも優秀な人材が合流し、今日に至っている。

日本映画社のニュース・記録映画部門はその後東宝の出資を受け、日本映画新社として2009年までその系譜が続いた。劇場用映画の幕間に上映された《日本ニュース》も同様に戦前からの系譜が1992年(平成4年)まで続いたのである。

日本映画社がその後様々な系譜を今に残しているに比べ、同じ国策映画でも俳優を使って劇映画を撮影していた満州映画協会は違った。満州国の終焉と理事長・甘粕正彦の自死によって全てが終わり(一部のスタッフは戦後も大陸に残り、新生中国の放送・映画界に貢献したとされる)、協会に属していた監督、俳優などは戦後の混乱が収まり庶民が娯楽に戻るまでのしばらくの間、不遇を託つことになる。1951年(昭和26年)、黒澤明監督の《羅生門》ヴェネチア国際映画祭金獅子賞が彼らの戦後の始まりであった。

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収容所生活から復員した小林は日本映画社に復帰し、石本統吉と組んで<生きているパン>(35ミリ・白黒)を1948年(昭和23年)に製作した。微速度顕微鏡撮影を駆使した戦後科学映画の始まりである。

その前年から始まった小麦と脱脂粉乳からなる「完全給食」の啓蒙普及目的でGHQが製作を石本に依頼したのかもしれない。いずれにせよ、そのパンの作り方を収容所生活で学んでいた小林にはうってつけの題材であった。しかし彼はGHQの期待するようなパンなる食習慣の啓蒙を描かなかった。パンを頬張る学童の姿も描かなかった。代わりに小麦粉をパンに変える目には見えない酵母(イースト)、パンを酸っぱくする乳酸菌、パンに付くカビなどを丹念に描いてみせたのである。ニューギニアの奥地で原住民と暮らした2年間が彼の「いきもの」への洞察と関心を深めたのであろう。それら顕微鏡の下の小さな生物の働きを単なる現象ではなく、あたかも人間の個性のように描き分けたのである。微生物一つでもしっかり舞台を与え、そこで存分に振る舞わせることで18分の映画は作れること、そして科学的鑑賞に耐えること、をこの映画で彼は確信する。

1951年(昭和26年)黒澤明監督の《羅生門》ヴェネチア国際映画祭出品に先立つ3ヶ月前に、小林が撮影を手がけた《いねの一生》がカンヌ国際映画祭に出品された。戦後日本の海外映画祭出品の先駆けが科学映画の《いねの一生》であることを知る人は少ない。

そして、1959年(昭和34年)の<ミクロの世界-結核菌を追って>は小林にとって本格的な生命科学映画の最初の作品となった。続く1963年(昭和38年)の<生命誕生>は「卵一つでも映画はできる」と後に小林の口癖となる記念的作品となった。

監督・俳優はおろか、脚本も字幕も場合によってはナレーションも不要と小林は考えていたようである。必要なのは顕微鏡の先の対象物と精緻な映像そして映像と完璧に調和する音楽であった。何かしらの形で音楽と生命科学を映像の上で融合したいと考えていたのである。だからと言って、モーツァルトを映像に重ねるようなことは決して考えなかった。映像からわずかでも耳を奪うような旋律は視線を奪う字幕と同じとの考えだったのだろう。

この当時、前衛音楽の最先端にジョン・ケージがいた。生物や事象の挙動の不確定さをそのまま楽譜におこす作風は定まった音列も旋律もなく無機的・記号的であった。それ以前のいかなる音楽技法ともルーツを共有しないこのケージがアメリカで巻き起こした作曲界の一大パラダイムは日本にも波及し、多くの若手作曲家、芸術家が触発される。マイルス・デイヴィスの調和のないモード奏法、そしてその音を映像と組み合わせたルイ・マルの作品<死刑台のエレベーター>などにもその影響を認めることができる。その時代の嗜好であったのかもしれない。

小林はそのケージに学んだ新進気鋭の作曲家、一柳慧をはじめ、黛敏郎・武満徹・松村禎三・間宮芳生等の現代作曲家に作曲を委嘱することになる。

顕微鏡映像と前衛音楽を一体化したその完成度は従来の生命科学映画の域を超えた総合芸術として諸外国で絶賛され、毎日映画コンクール教育文化映画賞、ヴェネチア国際科学技術映画祭最高科学映画賞など数多くの映画祭の最高賞を総ざらいした。1963年(昭和38年)は湯川秀樹博士が日本人としては初めてノーベル賞を受賞したこともあり、科学界において湯川氏と並ぶ快挙として大きく取り上げられ、その人物、小林こと「日本科学映画の父」小林米作が誕生したのである。

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文民でありながら将校のように軍服を着、《音楽挺身隊》を組織し、敵性音楽の排除を叫んでいた山田耕筰が今や、GHQの下で進駐軍の音楽活動を支える側に宗旨替えしていた。この「裁かれない戦犯たる」山田に筆誅を加えた者がいた。戦前山田と同じ音楽文化協会にいた音楽評論家の山根銀二である。東京新聞上で1945年(昭和20年)12月23日から始まる楽壇戦犯論争は社会に大きな波紋をもたらす。山根も山田から同根と反論され、双方ともに火の粉を被ることになる。

そしてその《音楽挺身隊》の砦であった日比谷公会堂はGHQに撤収され、進駐軍兵士の慰問の為の演奏会が催されるようになった。

1948年(昭和23年)未だ、戦禍の爪痕が生々しく残る東京にジャワから復員した奥田はいた。戦争下、人間性の否定の中で音楽の力によってかろうじて心を取り戻した抑留者たちと、クラウスの姿が奥田の脳裏にあった。

奥田が復員する前年、原爆で焦土と化した広島復興への願いと共に、シカゴの音楽教師リリアン・コンデットからヘンデルのオラトリオ《メサイヤ》の楽譜30冊が広島流川教会に贈られ、それを契機として、同教会の教会員や広島の師範学校の生徒を中心に男女混声合唱の聖歌隊が組織され同年の市民クリスマスや同教会のクリスマス音楽礼拝の中で《メサイヤ》の抜粋演奏が行われた。奥田はこの話を知っていたのかもしれない。

彼も人声なる楽器を集めた。そして恵泉女学園大学(K)、青山学院(A)、YMCA(Y)の各合唱団の混成で合唱団が奥田の下で結成された。1948年(昭和23年)12月18日、かつて奥田がその客席からゴルトベルク=クラウスを舞台に仰ぎ見ていた日比谷公会堂で今度は彼がその舞台に上がって合唱団《KAY》の指揮をすることになったのである。GHQから進駐軍の慰安の為にと要請のあったのは広島で奏でられたと同じ《メサイヤ》であった(山田和男指揮・NHK交響楽団)。この時の公演はFENを通して海の向こうの全米中に放送されたと言われる。

これが《KAY》合唱団による我が国におけるオラトリオ音楽の黎明となり、奥田はその後、日本オルガニスト協会を創立し、オルガン音楽(パイプ・オルガン)の発展・奏者の育成に尽力する。戦前から日本人には馴染みがあった足踏みオルガン(ハルモニウム)についても、戦前戦後を通じて奥田は数多くの練習曲や編曲を手がけ、学校教育の場での足踏みオルガン普及に多大な貢献を行った。

『音楽の喜び、感動こそが人々の心を豊かにするに違いない。それを実現させることが自分の使命である。』の信念の下、彼の教えた数知れない音楽家と手塩に育てた《KAY》合唱団が今日に至っている。そのおおもとは、あの抑留所のクラウスであることを奥田こと、奥田耕天は終生語り続けていたと言う。

そういえば、木下惠介監督作品の映画《二十四の瞳》で高峰秀子演じる大石先生がオルガンを踏みながら範唱し、生徒たちそれに続く場面で涙腺が緩むのも、足踏みオルガンが同じ思い出とともに心の琴線につながっているせいだろう。奥田の上述の想いがそのどこかで通じているのかもしれない。

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1949年(昭和24年)、若手音楽家の登竜門とされる毎日音楽コンクール(第18回)のヴァイオリン部門で小林武史は一位に輝いた。その翌年、武史の弟、健次も渡邊暁雄指揮の東京フィルハーモニー定期公演でヴァイオリニストとしてプロ・デビューする。小林米作の二人の息子たちである。二人ともヴァイオリン教育の祖・《スズキ・メソード》の鈴木鎮一に師事したが、それ以前に戦地の父から送られてきた写真の人物のことも忘れていなかった。その人物はアスペンにいた。

19世紀後半、ロッキー山麓の銀鉱山の町として始まり、鉱山業が衰退後はその良質の雪を以てスキーリゾート地として1950年代に再興したコロラド州西部のアスペンには、余暇を過ごす富裕層がスキー以外にも様々な文化を持ち込んだ。その一つにシカゴの実業家夫妻が同地に創設した《アスペン音楽祭》(Aspen Music Festival and School)がある。その名の示す通り、単なるフェスティバルではなく、教育の場・若手演奏家の夏季のトレーニング・コースとして、セルゲイ・クーセヴィツキーが教育プログラムとして発案した《タングルウッド音楽祭》、パブロ・カザルスの指導で一躍有名になった《マールボロ音楽祭》などと並んで優秀な教授陣を配している点で特徴がある。数多くの演奏家がここから巣立っている。時代を経て同趣旨の音楽祭は《サイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)》や《軽井沢国際音楽祭》など、市民・自治体と企業による文化メッセとしてすっかり我が国でも定着しているが、小澤征爾がSKFを創設し世界で名だたる音楽祭にすることができたのも、これらの音楽祭がその手本となったからである。

そのアスペン音楽祭が創設されて程なく、ゴルトベルクは教授として招聘され同地で若手演奏家の指導・育成に当たっていた。そこに、ある日、一人の日本人生徒が訪ねてきた。
「ジャワでカメラマンをしていたのは私の父です」と。健次であった。

ジャワのカメラマンのその後の活躍や、そのカメラマンの息子たちがプロのヴァイオリニストとなったことをゴルトベルクが知っていたかどうかわからない。いずれにせよその場のゴルトベルクの驚きようは想像に難くない。

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同じ頃、クラウスは米国で積極的な演奏活動を行っていた。日本軍政下の抑留生活から解放され十年余り経過していたが、当時の不可思議な感覚にふと立ち返る自分に気付くのである。

無数の忌まわしい出来事の中にあっても音楽だけは剥ぎ取らず、その力を抑留者の為に残した日本人たちと、そこでなぜか達成された稀有な音楽体験を思い出すその心が今以て日本に捕らわれたままであることに、大きな戸惑いを覚えるのである。

その戸惑いが日々彼女の中で増幅し抑えきれなくなったのだろう。クラウスは意を決し、1963年(昭和38年)再来日する。日比谷での演奏会から実に27年後である。彼女を戦前から知る多くの音楽愛好家とともに、ジャワ抑留時代の関係者とも再会を果たすことができた。その中には奥田耕天もいた。今村均もいたかもしれない。しかし、あの近藤の姿はなかった。

そして、次の来日となった1967年(昭和42年)6月、クラウスは近藤と再会を果たすのである。この23年ぶりの再会とジャワ島でのエピソードは、近藤利朗なる人物とともに全国紙の社会面記事で取り上げられた。クラウスにとっても彼との再会は心の転機となったのだろうか、もはや戸惑うことなく、その後幾度となく日本を訪れ、多くの聴衆をその華凜な演奏で魅了した。
「桜の咲く日本」への再訪を願いながら、1986年(昭和61年)11月6日に米国で亡くなった。



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山田耕筰と楽壇戦犯論争を繰り広げた山根銀二には銀五郎という弟がいる。銀五郎は兄とは異なる畑を進み、若くして東大の植物学・生物学教室で頭角を現し、その分野で大成し第七高等学校教授・後に鹿児島大学名誉教授となる人物である。しかし音楽に対する造詣は兄と比肩する程深かった。銀五郎の番外の音楽講義は学生の間でも評判となっていたようである。シューベルトの歌曲<野ばら>について、数多の名歌手のレコードの中から特にエリーザベト・シューマンの歌唱を推す理由を、単なる好みの問題ではなく、ドイツ・リート特有の発声の仕方の違いにおいて彼女の歌い方が最も理に適っている旨を学生たちに説明したり、第七高等学校教授時代にドイツ語教師として赴任してきたエルンスト・プッチェルのピアノに合わせてバンカラな七高生の前で銀五郎が朗々とドイツ語でシューベルトのリートを歌ったり、七高寮歌や地元の小学校の校歌を作曲したり、と逸話は多い。

このプッチェルであるが、単なるドイツ語教師ではなく、本国では《カペルマイスター》の称号を持つ教会オルガニストであった。日本橋三越本店に今もあるパイプオルガン(正確にはシアターオルガン)の弾き初めを行ったのもこの人物である。興味深いことに、戦前期のわが国の音楽教育研究の資料に寄稿者としてプッチェルの名を多く見つけることができる。そこには同じオルガンで共通項のある奥田耕天も名を連ねているのである。二人の間で個人的な接点があったかどうかは寡聞にして知らない。

銀二・銀五郎から山根一族の世系を俯瞰すると、資産家、財界人、音楽評論家、科学者、はたまた無頼漢まで、多彩多能な人物を輩出している。その中に美代子がいた。彼女は一族の中から音楽の遺伝子を引き継いだのかもしれない。若くしてピアニストを志し、欧米に留学するなどして外国語も研鑽を怠らなかった。

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<ミクロの世界-結核菌を追って>で一躍時の人となった小林米作。映像と完全に調和する音楽を見出した彼は、次にナレーターとして城達也を起用した。

城は1963年(昭和38年)に小林が撮影で関与した松下電器産業の産業映画<力の技術-モートル>に起用されていたが、小林が製作会社東京シネマの下で製作した作品の多くは声優の小林恭治(ひょっこりひょうたん島の<ダンディ>やおそ松くんの《イヤミ》の声で有名)が長らくナレーションを務めていた。

製作会社東京シネマを出て、1967年(昭和42年)にヨネ・プロダクションを立ち上げるにあたって、小林恭治と共に城を起用したのである。そのプロダクションを設立して間もなくの作品<アレルギー>(1971年)で城はナレーションを務める。この作品は1971年(昭和46年)パドヴァ大学国際科学教育映画祭ブロンズ牛頭賞を受賞した。

この頃、城には3つの顔があった。俳優、声優とナレーターである。自身も二枚目でありながら俳協の専務理事としてデスクの仕事が主で役者としての実績にはめぼしいものはない。しかし声優としての城の人気は高く、その持前の甘い声はグレゴリー・ペックやロバート・ワグナーなどのダンディな面立ちに特に馴染んだ。

そしてナレーターとしての城がある。TOKYO FMをキー局に夜半に放送されていた音楽番組<JET STREAM>ではナイトフライトの機長として、心地良い音楽とともにリスナーを夢見の世界に引き込むその語りはCD化され、番組を知らない若い世代も含めて今も多くのファンを獲得し続けている。

そのような巷の評判とは別に、産業界や科学者・研究者の間では、小林に起用される前から「産業映画の声」が彼の代名詞であった。

映画のナレーションは無声映画時代に場面ごとにその内容を語る活動弁士(活弁士)がその始まりであるが、トーキーから今に至って劇映画においてナレーションは必要とされなくなる。活弁士として出発した徳川夢声が名作小説の朗読、司会者で新たな境地を開いたが、夢声が活弁士時代に習得した独特な間合いや口調を受け継ぎ、さらにドキュメンタリー、ドラマや紀行もののナレーションに一つの型を作ったのがアナウンサー出身の芥川隆行であり、それを今に引き継いでいるのは加賀美幸子かもしれない。

それらとは異なり、城が開拓したのは歴史の浅い産業映画のナレーションであった。それは大衆の話題にも好みにも膾炙される分野でなく、また劇場で一般公開される類の映画でもなく、企業が特定の人々に向けて製作する映画のナレーションであり、それを城は買って出た。

元の声があり、「吹き替え」なるその声がまた誰かの声に吹き替えられる仕事よりも、作品の一部であり続けられる仕事こそ彼の望むところであったのだろう。

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1978年(昭和53年)、城西歯科大学の久米川正好教授(当時)の考証の下、小林は<骨>をテーマとする作品の製作にとりかかる。骨三部作<The Bone>, <The Bone II>, <Osteocyte>である。企画を立ち上げてから製作が完結するまでに、実に15年の歳月を費やした。その間、エイザイや藤沢薬品などスポンサー企業は一切口出しをしなかった。そんな良い時代でもあった。

当時、骨代謝研究者の誰一人として、破骨細胞が骨を吸収していく様子を動く映像として観たことがなかった。論文上、文字で表現される挙動を顕微鏡微速度撮影の実写で鮮明に捉えたこれらの作品はその分野の世界の最先端の研究者たちを唸らせ、彼らに再生医学研究への大きなインセンティブを与えたのである。

小林が骨シリーズに取りかかっていた頃、小林の次男、健次は桐朋学園大教授として若き音楽生の教育と指導に当たっていた。そして、アスペンで邂逅したゴルトベルクが夫人の病気の介護に専念するために演奏家としての一線を退いていることを知った。その夫人が1985年(昭和60年)に亡くなる。

それから2年後、ゴルトベルクにとってようやく心の整理が済んだころ、健次は桐朋学園の指導者としての日本に来てもらいたい旨をゴルトベルクに伝えた。健次とゴルトベルクの間の橋渡しをしたのが、あの山根美代子であった。最初は通訳として、そして彼女自身、優秀なピアノ奏者であり指導者であったことからゴルトベルクと音楽上の信頼関係を築くに時間はかからなかった。ゴルトベルクを日本に招くにあたって心から支えたい気持ちがゴルトベルクへの私情にいつしか変わったのであろうか、山根は彼に「おはなしがあるのですが」と切り出し、その心を射止めることができたのである。「私は日本人に生涯2度つかまった(ゴルトベルク)」
旅路の先を日本と定め、そこでその人生を終わらせることを決心したのである。

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1993年(平成5年)骨シリーズの最後となる<Osteocyte>が完成した。
その翌年、城達也は自ら食道癌に罹っていることを知る。そして<JET STREAM>を、「自分の納得できる声が出せない」と降板を申し出る。1995年(平成7年)2月25日に彼は死んだ。その病室には癌になっても手放さなかった愛用のライターとシガーケースが置いてあった。

城の死を受けて、タモリが<笑っていいとも>の番組中《テレフォンショッキング》のコーナーの冒頭で「城達也さんが亡くなられました。私は城達也さんに薬の使用上の注意を読み上げてもらったことがあるんですが、聞き入ってしまって言葉にならない感動があった。あれは感動しましたね。」と語った。

誰もが知る<JET STREAM>の機長としてではなく、「産業映画の声」たる城に花を手向けたのである。その最後のナレーション作品が<Osteocyte>であることをタモリは知っていたのかもしれない。城にとってはこの一言は最上の褒辞となった。その相応しい代名詞を以て城を偲んだタモリもまた只者ではない。

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美代子というよきパートナーを得たゴルトベルクは80歳になっていた。
五反田の美代子の持ち家に夫妻が戻るのは仕事があるときで、その他の時間は立山山麓のホテルが住まいになっていた。この地の人々が路地や庭先に丹精に手入れしている小さな花々を眺めることがゴルトベルクにとって心の癒しとなっていたようである。生まれ故郷のポーランドの風景と重なるところがあったのかもしれない。

後進育成に取り組むと共に、その合間にヴァイオリンの演奏を行い、新日本フィルハーモニーの常任指揮者として指揮台に立つ機会も増えた。富山でのリフレッシュとマッサージの効もありヴァイオリンの腕が衰えないことをゴルトベルク本人は大変喜んでいたという。

そして、1993年(平成5年)4月10日水戸室内管弦楽団を指揮した第13回定期公演がこの年、85歳となっていたゴルトベルクにとって生涯最後のステージとなった。水戸芸術劇場の団長として彼を招いたのは、音楽評論家・吉田秀和であった。

近藤、奥田と同様、吉田も1936年(昭和11年)の日比谷公会堂での初来日のステージを客席で聴いていたのである。

『シモン・ゴルトベルクは…リリー・クラウスといっしょに日本に来てモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ全曲の連続演奏をした。大学は出たけれど職はなく、懐もさびしかったそのころの私は、さんざん考えた末一枚の切符を買ってききにいった。会場は空席が目立ったけれど、演奏はすごくよく、充実した後味が残った。(吉田秀和)』

およそ60年前の縁(えにし)の糸を図らずも最後に手繰り寄せたのは吉田であった。

多くの人々によって、纏綿と連なった糸が此処に見事に団円となった。

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エピローグ:

ゴルトベルクが立山のホテルで急逝の報は、小林健次から関係者に伝えられた。世界的ヴァイオリニストの死として外電でも大きく報じられた。その地が日本であり立山であることにも。

篠突く雨の下、ゴルトベルクの棺は五反田の家に運びいれられた。そして山根家の菩提寺に埋葬されたのである。ゴルトベルク亡き後、その遺志を引き継ぎ、精力的に後進の指導にあたった美代子もその13年後に鬼籍に入り同じ墓に眠る。夫妻の名を刻んだ小さな墓石の上に今も花が絶えることがない。

美代子夫人から東京藝術大学付属図書館の音楽研究センターに寄贈されたゴルトベルクの膨大な蔵書(約6,100点)には、楽譜や音楽関係書籍と並んで文学書・美術書を数多く含み、芸術・文学全般への同氏の造詣の深さを物語っている。寄贈後、音楽研究センターで資料整理がなされ、藝大フレンズ賛助金助成事業として、昨年8月28日から9月10日まで、東京藝術大学音楽研究センター2階で、「シモン・ゴールドベルク資料展」を開催された。また、同氏が蒐集した現代芸術作品は富山近代美術館に「シモン・ゴールドベルク・コレクション」として収容・公開されているなど、没後も人々に大きな影響を与え続けている。

愛器グァルネリ・デル・ジェス『バロン・ヴィッタ』は、美代子夫人からアメリカ合衆国連邦議会図書館に寄贈された後、現在は将来が嘱望される若手演奏家に貸与されているようである。

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2007年(平成19年)7月15日、その日が小林米作にとっての百歳の誕生日であった。住み慣れた茅ヶ崎の自宅でささやかな祝賀会が行われた。その席で代表作《生命誕生》が上映され、息子夫婦や孫によってミニコンサートが開かれた。その年の11月6日に彼は亡くなる。



彼の立ち上げたヨネ・プロダクションは小林作品のアーカイブを保存・活用するとともに、iPS細胞など最先端の再生医療の映像化に取り組んでいる。そして、将来の科学者・研究者のインセンティブとなるべく、過去の膨大な科学映画なる教育文化資産の共有を図る目的で、NPO法人科学映像館が設立され、小林の遺徳を将来に活かす努力が続けられているのである。

(おわり)
posted by ihagee at 21:34| エッセイ