レコード芸術誌(音楽之友社)の月評では、独特の文調と決め詞(「乾坤一擲」「応接の暇なく」など)で広告主の推す音盤の演奏を遠慮もなく斬り捨てた。芸術誌ゆえの紳士的(音楽業界の提灯持ち的)評論が多い中で、臍が斜めについているかの同氏の時に読者から判官贔屓と揶揄されるマイノリティぶりは私には爽快であった。
アーベントロートやクナッパーツブッシュを昔の省電に喩えた時は、その古武士然とした風貌をすれば棒を振らずとも演奏は決まると言いたげだった。
(Hermann Abendroth)
(Hans Knappertsbusch)
そういえば、同じことを作曲家の芥川也寸志氏も生前にどこかのテレビ番組の中で言っていた。体全体から発散する強烈なオーラだそうだ。ティンパニ奏者のテーリヒェン氏もある指揮者の下でベルリンフィルの演奏会のリハーサルを行っていると突如としてオケの音色が変わったのに気がついて演奏会場の向こうを見るとそこにフルトヴェングラーが立っていた、と証言しているが、これもオーラなのだろう。演奏技術とか表現方法とかではなく、最後は「その人」に行き着く。功芳さんが評論したかったのはそれだろう。「その人」が見えない演奏は「聴かなかったことにしておこう」となる。
評論のかたわら功芳さんもオケを前に棒を振ったが、晩年はだんだんと顔つきまでクナに似て魁偉となった。大きな身振りでクナと同じくパルジファルの一幕でも振って欲しかった。冥福を祈りたい。
(Knappertsbusch conducts Parsifal in Bayreuth)
(Koho Uno)
(おわり)
追記:うっかり書き忘れた。
カメラにも「オーラ」というものがある。いつかこのカメラのオーラに襲われてみたいと思う。功芳さんの影響もあるのかマイノリティであるが強烈な存在を放つカメラに惹かれる。撮る前から何かが決まっているように思える。
