現行憲法第13条は、
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
その中でも、現行憲法の理念の核心は、
「すべての国民は、個人として尊重される。」の一語に集約されている。英語でどう翻訳されているのか興味が湧いたので調べてみると、
Article 13. All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs. (官邸HP掲載)
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自民党憲法改正草案での第13条
「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」
(下線部が現行憲法第13条と相違)
その中で
「すべての国民は、個人として尊重される。」は
「全て国民は、人として尊重される。」と改められている。
「明日の自由を守る若手弁護士の会」という若手弁護士の有志が自民党憲法改正草案での第13条を以下英訳している。
Article 13. All of the people shall be respected as persons. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public good and public order, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.
英語の上では、
「個人individual」は「人persons」と改められている。
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「個人」individualは、dividual(別けられる)の否定(in)なので、これ以上分けることができない単位を意味し、リアリティ(現実)に唯一無二に自ずと存在する(絶対性)。
他方、「人」personsはpersonの複数形であり、集団や社会を前提とした(集団や社会あっての)単位なので、personsとなるのだろう。単数形のpersonを用いるのが通常で、a juridical personは「法人」、a natural personは「自然人」といったバーチャリティ(仮想)である。自ずとは存在し得ない(相対性)。
草案では「個人 individual」を「人 persons」に、即ち、国民は「絶対的に尊重される」を「相対的に尊重される」に改めようとしている。後者には「国家」が相対する。これは、以下に述べるように現行憲法の基調たる理念の否定・転回にも当たる重大さを孕んでいる。
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自民党憲法改正草案起草者の一人である片山さつき議員は
「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるのか、ではなくて国を維持するためには自分に何ができるか、」と述べている。
このような天賦人権論の否定とは、「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという普遍的な考え(小林節慶大名誉教授)」の否定である。「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。(同氏)」ということになる。
「国家国民」という言葉を安倍政権は好んで使う。「国民国家」と言わない。国あっての民、政治家は民を下に見て上意下達に号令するのが役目などと自惚れ「一億総活用」などと勝手に総国民年季奉公をぶち上げる。立憲主義の上で主客顛倒も甚だしい。憲法によって本来縛られるべきが「国家」であり「国家権力」であるのに、その憲法を改悪して、「国家」「国家権力」が「個人」の生存する権利を縛るという転回(革命)を企てている。「最高の責任者は私だ。」「わたくしは立法府の長ですから。」などと蒙昧し、何にも縛られるべきではないとばかりに憲法の条文を政治解釈することが罷り通るのであればもはや立憲主義ではない。
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片山議員は「私達の基本的な考え方」として「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような」と「天賦人権論」を一括する。「天から付与」はあたかも個人に元々なかった権利が「下賜され」、その与える側が「国体(政体)」であるかの言い方である。「個々の国民が天然として持つ(生まれつき持つ)権利」の意である「天賦」をそのように政治的に付会している。
「国があなたに何をしてくれるのか、ではなくて国を維持するためには自分に何ができるか、」についても、「国」が「国体(政体)」であり、「国を維持するため」が「国体(政体)を維持するため」であり、「何ができるか」が「個人の犠牲(個人の人格的生存への侵害)」であれば、いつか来た道の「国家主義」であり、「個人」を「一億(全体)」と括り上げる全体主義である。
「国が先に在りき」の理念を最大限利用し他人の人格的生存を侵してまで自己の権利を主張した利己主義の最たる人が、安倍首相の敬愛する祖父であると、その時代を肌身に知っていた父は書き残した(参照:「殴ったことを忘れても、殴られたことは忘れないのが人間」)。「国を維持するため」という大義があれば、相手をアヘンで廃人にし犬猫かの如く斬り殺しても贖罪は不要なのである。廃人にされ斬り殺された人にも親や子供や家族がいて、皆で幸福に生きる権利があることすら思いを巡らすことができないでいると、その挙句が戦争に行き着く。
片山議員は「天賦人権論」と「利己主義」を牽強付会することに余念がないようだが、その「天賦人権論」を否定した時代に「利己主義」が大手を振って蔓延ったことは、安倍首相の祖父の時代が証明している。
無数の「個人」の犠牲を経て、ようやく辿りついた普遍的理念こそ「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという普遍的な考え」であり、結晶化したのが現行憲法第13条の「個人として尊重される。」なのだ。決して占領軍に一方的に押し付けられたかの如くの浅薄な考えではない。
3月2日の参院予算委で、民主党(当時)の大塚耕平氏が自民党の改憲草案を取り上げ、現行憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」としている第13条を、自民党改憲草案では「全て国民は、人として尊重される」と、「個人」を「人」に書き換えているのはどういう意味かと質問したのに対し、首相は、「さしたる意味はないという風に承知している」と答弁したそうだが、さもあらん。
首相にとっては「さしたる…ない風」程度のことなのだろうが、法律の一語たりとて疎かにできない憲法学者がこれに激怒するのも当然である。
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「国」や「憲法」を泥棒した政権こそ「個人」によって縛られるべき相手なのである。泥棒に縄を渡してはならない。泥棒に人定めをさせてはならない。泥棒に道案内を頼んではならない。我々が「個人」として尊重されるには、泥棒から「国」と「憲法」を選挙によって取り戻すしかない。主権が未だ「個人」にあるうちに。(参照:「説教泥棒・憲法泥棒」)
(おわり)
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