2017年04月03日

殴ったことを忘れても、殴られたことは忘れないのが人間


筑波大名誉教授小澤俊夫氏の「日本の未来はなくなった・共謀罪で言論の息の根が止められる」の記事。

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「殴ったことを忘れる」国民、武力解決(戦争)のために加害者意識を徹底的に排除するための「共謀罪」は実質戦前の治安維持法と変わらない。「共謀罪」の下「殴ったことを忘れる」国民に未来はない。

以下、すでに掲載したブログ記事だが再度掲載したい。

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松本何某の「おじいちゃん」を引き合いの浅薄な戯言に頷くこの国の自称最高責任者に問う。
殴ったことを忘れても、殴られたことは忘れないのが人間である。「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を 背負わせてはならない」がいかに無責任な言い分であるか。アヘンを売った政治家・中国人を袈裟懸けに斬り捨てた軍人とその心根は同じではないか。相手の痛みを想像できないのである。戦争という犯罪に加担した日本人全員が負うべき責任について、一度として日本人自身が深く考えたことはない。

(以下、父・叔母の手記から)

<父の手記>

最も民族差別をしたのは日本から来た軍人でした。私が中学の低学年であった時、目の前で馬車に乗ってきた将校が、料金を払わずに馬車から下りました。中国人である車夫は馬車から遠ざかる将校の肩に手を掛けて、料金を払えと迫りました。件の将校は振り向くと「貴様は帝国軍人を侮辱する気か」といきなり日本刀を引き抜いて、袈裟がけに車夫に斬りつけました。車夫の頚動脈からは血が吹き出て、そのまま倒れました。将校は悠然と倒れている車夫の着物で刀を拭き、何事も無かったように立ち去りました。私は悔しさと、恥ずかしい気持ちで、体が震え、涙を止めることが出来ませんでした。これは平時、首都である新京の町の真ん中で起こったことです。勿論このことは新聞の何処にも出ませんでした。その将校が、車夫には家に妻や子供がいることなど、想像すら出来なかったのでしょう。彼には中国人が人間ではなく、犬や猫に見えていたに違いありません。

このような事を考えても、残留孤児を大事に育てた中国人に感謝しなければなりません。

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私の義理の兄は東北帝大を卒業すると、満州国の官吏を養成する大同学院を卒業して、官吏になりました。幾つかの部署を経て、協和会の仕事をするようになりました。協和会は五族協和を実践すること、中国人の衛生思想の普及、学校教育、義務教育の充実と、当時、中国人の間で常習することの多かった阿片吸引の風習を、撲滅することが大きな仕事でした。そのため、中国系、韓国系の人たちの不満を聞くため、よく家内の実家である私の家に、これらの人たちを連れてきて、殆ど毎夜、酒を飲みながら相談にのっておりました。多分、外では話のし難いことがあったのでしょう。終戦の前に協和会の奉天支部長を勤めておりましたので、ソ連が侵攻してくると、早速逮捕され政治犯としてシベリアに八年も抑留されました。彼は帰国後、大阪で司法書士の事務所を開き、相談にきた在日韓国人や部落の人たちからは、一銭も金を取らなかったため、それが評判になり、姉の教師としての収入で、かろうじて生活するような有り様でした。数年ほど前に亡くなりましたが、岸信介が、熱河省で大量に阿片を栽培させて中国に売り、それを政治資金に使っていたことを知ったら、さぞ悔しがったことでしょう。

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終戦になると新京には真っ先に共産軍が入ってきました。彼らが先ずしたことは人民裁判でした。私の父は満州中央銀行系列会社の役員をしていましたから、直ぐこの人民裁判にかけられました。広場の台に立たされると、集まった住民のかけ声で死刑か無罪が決まるような裁判でした。この裁判で十数名の日本人が銃殺されたのですが、私の父が台に立たされた時、偶然通りかかった、中国人の部下が死刑だという人たちを制して、「この人は私たち中国人を差別するとか、搾取するようなことは一切していない。むしろ日本人以上に中国人を大切にしてくれた」と弁護してくれたため、運良く無罪になりました。帰ってきた父は、多分自分が中国語を話せたので、中国人とのコミュニケーションが出来ていたのだろうと語っていました。

このように昔から骨を埋める覚悟で満州に来ていた日本人は、中国人と分け隔てなく生活していたのですが、後から来た日本人や軍人の中国人蔑視は酷いものでした。中には主婦でも中国人の物売りに金を払わないで品物を持っていく人さえ出る有り様でした。

満州でも、戦争も末期に近づくと、食料が配給制になりました。
この時、日本人は米、中国人は高梁(こうりゃん)と決められました。高梁は当時でも家畜の飼料でした。とても人間が食べられるような穀物ではありません。この時、私は満州国の終末を感じました。負けた経験の無い日本人は、自分たちが世界に冠たる民族だという徹底した皇民教育の結果が、その優越感から、このような民族差別を生んだのだと思います

中国人はしたたかでプラグマティズムな民族です。現在、表面上は友好的な態度を取っていますが、中国人は未だに日本を嫌いな国と答える人たちが八〇パーセントもいることを、日本人はきちんと理解しなければなりません。殴ったことを忘れても、殴られたことは忘れないのが人間です

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私たちは昭和10年、大連の家を引き払い新京に移った。昭和20年終戦。首都を警備していた関東軍が真っ先に逃げ、残された民間人がソビエト軍を迎えなければならなかった。(以上)

<叔母の手記>

「終戦時の私の体験を娘がまとめました。
当時娘1.5才私30才身重で(後に子供は半年で昇天)、8月6日奉天に来たばかり。夫は協和会奉天の責任者として難民のお世話で帰宅せず9月2日ソ連に逮捕シベリア抑留5年間。姉32才子供8才5才1才の3人。夫が出征したので天津より新京(両親の元)へ向かう汽車が奉天で止まり、共に暮らす事になったのはお互いにとってまことに幸運なことでありました。

・何一つ届かざりき何ひとつ 新京よりの引越し荷物
・不可侵条約を破りて来る囚人兵奉天の町は恐怖におののく
・ソ連兵による掠奪、強盗、強姦で治安は悪化
・年明けの極寒(零下20度にもなる)の頃、北満より逃れ来し人、お座敷に十日間程泊まりし夜に
・前歴は?何、在郷軍人 人々声の後、銃声次々と響きぬ
・強盗に殺されし人六人 納戸にひそみし我らは無事に
・夜が明けてのぞき見えたるお座敷に死体ころがる血の海の中
・満人警官言いし「日本人の強盗多々(ターター)で心配多々(ターター)ね」と
 日本軍の敗残兵による強盗殺人が頻発した
・引き揚げの日まで一年 姉妹して四人の幼子守り暮らしぬ
・背にリュック胸に幼子くくりつけ死をも覚悟の引き揚げ行
・無蓋車は奉天駅を旅立てり 寒冷ころ島より乗船
・引揚船チフスはやりて仙崎の沖に係留一週間余
・ようやくに死神の下をくぐりぬけ敗戦の国に辿り着きたり
・8才を頭に四人の幼子は今は子を持つ親となりけり」

以上
posted by ihagee at 09:23| 政治