2016年04月22日

立ち位置を知ること

先日、世界報道自由ランキング(国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」)で日本が72位と評価された。安倍政権下では経年で順位が下がっている。

この順位に菅官房長官は即座に「どういう基準、判断か全く承知していないが、わが国で表現の自由、報道の自由は極めて確保されている」と反論した。

「どういう基準、判断か全く承知していない」とは、国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」とは何者?と無知無関心を国際社会に発信したに等しい。「全く承知していない」と言うこと自体、日本を代表して聞く耳も持たないということである。また「わが国で表現の自由、報道の自由は極めて確保されている」と言うのであれば、逆に「どういう基準、判断」で「極めて確保されている」と断言するのかを記者たちは官房長官に聞き返すのが健全なジャーナリズムというものだが、そう質問できないこと自体が逆にこのランキングの信ぴょう性の高さを証明している。

時を同じくして、国連・表現の自由調査官デビッド・ケイ氏(国際人権法学者)が来日し、特定秘密保護法や政府の圧力などで、報道の独立性が重大な脅威に直面していると警告し、政権と癒着構造にある記者クラブ制度の廃止を求めた。「自分の放送法の解釈に従わない番組があることを、オフレコ懇談で批判したと聞いた」と国連調査官が菅官房長官を名指ししているにも関わらず、当人や関係者に事の真偽を確かめようとしない記者クラブである。この点を以てしても記者クラブ制度を廃止すべきとの言は正鵠を得ていることを証明している。
(安倍政権は「全く・・ない」「ありえない」「極めて」と全否定の言い方が常套化しているが、まるで北の首領様かブラック企業の経営者の言葉である。国際政治や外交上、英語でそのまま国際社会に発信すると禁反言として言質をとられるのでこういった感情に任せた物言いはやめた方が良い。)

斯様に日本という国は、内側から見る場合と外側から見られる場合で立ち位置が大きく異なる。

国際社会から見た我が国の立ち位置を一般国民に知られたくないとすれば、外からの情報を入口で遮断する必要があるのだろう。その通り、これらの話はさしてニュースバリューがないかの如く主要メディアではまともに扱われなかった。その代わりに一般大衆には「日本ってこんなに素晴らしい」「日本人ってこんなにすごい」と外国人観光客に言わせては自画自賛・夜郎自大の立ち位置の心地よさを啓蒙することに余念がない。

熊本・大分の地震で多くの被災者と甚大な被害が出ている中で、最高責任者を自認する安倍首相の関心事はゴールデンウィーク中の訪欧訪露のようである。激甚災害指定がされた新潟県中越地震を上回る規模の地震発生回数であるにも関わらず、官邸が熊本県に激甚災害指定を渋るのもその場合の緊急対策本部の陣頭指揮に首相が縛られては外遊ができなくなるとの邪心があるからだろう。喫緊の災害対策費が「23億円」で同じ日にパナマへのモノレール建設円借款「2800億円」を決めたという。そこからも地震被害を過少化して河野太郎防災担当相の責務に留めたいとの政治的思惑が透けて見える。それにしても他国のモノレール建設の方が熊本県民の損壊した無数の住居よりも喫緊課題なのであろうか。訪欧・訪露も伊勢志摩サミットでホストとしてのプレゼンスを示すために予め国際政治に露出しておこうという魂胆なのかもしれぬ。災害対応では悲しいことに彼の尊大な名誉欲は満たされないようだ。

安倍政権(2次・3次)の外遊はのべ訪問国・地域数にして87と、ほぼ隔月の如くであり、政治日程だけではなく経済団体を引き連れたトップセールス(商談)も数多く含まれている。商談の呼び水となる巨額な円借款も含め、つまるところ税金で原子力産業や軍事関連産業など特定の利益集団に専ら便宜を図っているのである。「ジャパン・バイ」と行った先で叫び、国際社会にしきりに露出する安倍政権であるから、さぞや欧米のメディアでは安倍首相や日本が話題かと思いきや、それらに関連する記事はやたらと少ないのはどうしたことか。アベノミクスなるスローガンも欧米の紙面から消えて久しい。外遊する意味があるのか問う記事すらない。つまりジャパン・スルーである。嘘だと思ったら、ネットの電子版で欧米主要メディアのトップニュースを検索してみると良い。日本関連の記事は悲しい程少ないのである。

東洋経済オンライン版で、大前研一氏が「国内メディアだけ見る人は危ない」という記事を上げている。

国際的視点に立てば、日本を代表する企業ですら、そのプレゼンスは「その他」に分類される程低いというのである。いずれにせよ、国内メディアでは決して「その他」であることは書かない。「日本のアベノミクスを世界のアベノミクスへ(安倍首相)」などと言い出したようだが、ナチス政権下のドイツ国歌「ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれこの世のすべてのものの上にあれ」(現ドイツ国歌からは公式的に削除されている)の域に達している。アベノミクスがG7諸国の共通項になる筈もなく当然の如く安倍首相は「その他」扱いである。それにしても、自分の立ち位置が日本どころか世界の中でも見えていないこの人の脳内お花畑さには唖然とする。

大前氏は「世界における競争力をどうつけていくのか?」という視点から、「世界全体を眺め、今の日本を世界と比べ」「自分の頭で考えていくことが非常に重要」と結んでいる。つまり、自分の立ち位置は自分で判断せよということなのだろう。しかし、競争力を日本国内から世界に広げたところでそこにも限度がある。資源も市場も所詮地球の大きさしかない。だから、大前氏の言う「世界における競争力」という欲望を垂直軸にする思考もいずれは通用しなくなるだろう。それすら<コップの中の争い>である。<コップの中の争い>ゆえプレーヤーがひしめき合うといずれは大前氏の口癖の「ガラポン」ではないが、局地的な軍事紛争・戦争を期待する者も現れる。奈良の若草山の野焼きで一旦焼き尽くして新芽を期待すると同じ。焼かれるは雑草ならぬその地の一般庶民。朝鮮戦争の特需が戦後日本の高度成長経済の礎を為したと同じく、アベノミクスにはその背後に硝煙のきな臭さが芬々と漂っている。

欲望を原動力とする社会経済の中で日々競争をして、ふと立ち止まって何の為に?と自問し「競争のため」と自答するのであれば、これは強迫観念でしかない。個人で言えば何かに追われているという幻想から他人を殺めたりする麻薬常習者と同じである。集団社会で言えば欲望の極みは死の商人(軍事産業)であり紛争・戦争でしかない。

ナマケモノという南米原産の動物がいる。餌をほとんど取らずのっそりとあまり動かないので動物園では人気のない部類である。事実、ヨーロッパに紹介されたその昔は、風から栄養を摂取する動物だと考えられていた。近年、ごく少量の食物摂取(1日に8gほどの植物)でも生命活動が可能な基礎代謝量が非常に少ない稀有な変温動物であることが判ってきた。英語名Sloth は、怠惰、ものぐさを意味するが、どうしてどうして、地球環境に限りなく優しい動物なのである。「欲望」や「競争」から最も遠い存在でありながら、一万年の昔から今日まで種が存続している。彼らの生命の原動力は「ストック(蓄え)」である。蓄えて少しずつ生命活動に用いる術に長けている。

アベノミクスの経済原理とは「ストック」の反対の「ストックのフロー(流動)」の極大化にあると言われている。前者をミクロとすれば後者はマクロである。社会資本(農地やコミュニティ)や金融資本(預貯金)の壁を取り払ってため込まずに使い続け、燃やせるものはどんどん燃やして経済活動の糧にしようという考えである。経済の基礎代謝増大=経済活性ということ。本来は虎の子(ストック)の国民年金の原資まで取り崩して「運用」なる官製相場の焚き木にしている。原発に至っては国民の生命・財産まで焼(く)べようとする。軍事紛争や戦争による特需まで算段する。そんな貪欲な経済圏(TPP)を切望して止まない。基礎代謝量を増大させればその活動に応じて得るものも大きいが、逆に少しの餓えでも一蓮托生、地球の冬の時代で真っ先に死滅した肉食巨大恐竜と同じことになる。人間に置き換えてみれば、基礎代謝量の大きい若い人ほど、ガンに罹ると一気に症状が進むが、代謝の少ない高齢者ではその進み方は緩慢となる。すなわち、活性化というハイリターンの裏に早逝・即死というハイリスクが潜んでいることになる。ハイリターンもハイリスクも求めなかった時代、一億総中流意識の時代、終身雇用が当たり前の時代、サラリーマン諸氏はそこそこの給料であってもある程度人生の将来設計を描くことができたからこそ、家を買い子供を産み育てることもできたが、基礎代謝量の増大した現今の博打的な経済下では非正規・有期雇用が常態化し10年先の将来さえ見通すことは困難である。少子化は当然でありシェアハウスで雨露をしのぐ若者が社会の日常景色となってしまった。生きる・暮らす・働くという基本すら脅かされている。非正規雇用ですら「職業選択の自由」と雇用失政の責任すら雇われる側の「自由選択(「自らの意思で非正規雇用を選択している」)」に転嫁して平気な政治・経済である。経済(経世済民)とは名ばかりで、民を濟(すく)う(済民)はないがしろにされている。済民とは、庶民のかまどの煙の上がりを心ある為政者は見るというのだ。<民の竈(かまど)>、<民の炊煙(すいえん)>という言葉が消えて久しい(拙稿「炭火アイロンに想う」)。

「原発止まれば江戸時代」と脱・廃原発に異を唱える人々がいる。江戸時代がさも悪いかの如くである。しかし、今日の日本の社会・文化のオリジナリティの多くはこの江戸時代の産物である。鎖国の下「ストック」を元にするミクロ経済原理であっても、社会生活上の基礎代謝量を少なくする知恵があった時代のようである。足るを知るが第一の富であって、慎ましくも内面は豊かに生きる術を心得ていた時代である。その片鱗はいまも地方のコミュニティに残っている。経団連会長もかつてはメザシを馳走としたものである。

そして、上述の<コップの中の争い>から一歩離れて、「ストック」を元にする経済社会を見直そうという国際的な動きがある。その先頭に立つのはブータンという小国であり、その国を率いるは若きワンチュク国王である。国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)という、国民総生産 (Gross National Product, GNP) や国内総生産 (GDP)とは全く異なるベクトルは、この小国の国際社会でのプレゼンスを高めている。GNHには様々批判や反証があるが、グローバルスタンダードへのアンチテーゼとして確固とした考えであることは間違いない。ワンチュク国王はGNHの遺伝子は日本にあると言う。日本の立ち位置を聞くべきはノーベル経済学受賞者などではなく、この人かもしれない。

そして、ナマケモノである。ナマケモノ倶楽部というGNHをテーゼとする環境-文化NGOが日本にある。彼らの目指すはナマケモノに学ぶ低基礎代謝社会経済である。単なる理想やユートピアではなくその具体的な考え方や生活術を学ぶコミュニティである。自らの立ち位置を地球環境との比較で先ずは決めること。立ち位置を問うも問われるも、政治でも経済でも欲望でも戦争でもない点に、日本の過去(江戸時代)と将来が妙につながるのである。ムダに資源を消費せずに蓄えを次の世代にしっかり残す。そんなアイデンティティを秘めたナマケモノという動物がトレードマークである。世界一少子高齢化が進むとされる我が国。老人国家には老人なりの低い基礎代謝に見合った生き方もあると私は思う。目新しくないが長くずっと使い続けることができる商品やサービス、それらをメンテナンスする仕事は老人の生き方にも通じる。そういう社会・経済システムがあっても良い。それらは不幸せかと言えばそうではない。そういう物差しを持つ国が世界の中にあってもいいじゃないか。老若男女<一億総括用>とコップの中の争いに玉砕覚悟で加わることなく、<老人国家>であることを国際社会に敢えてカミングアウトし、身の回りの小さなコミュニティで倹しく(つつましく)も長く循環機能する社会・経済を目指すことが日本には最もふさわしいのではないだろうか?

追記:
『NHKが熊本地震発生を受けて開いた災害対策本部会議で、本部長を務める籾井勝人会長が「原発については、住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えることを続けてほしい」と指示していたことが22日、関係者の話で分かった。識者は「事実なら、報道現場に萎縮効果をもたらす発言だ」と指摘している。』(毎日新聞・電子版4/23)

------
「公式発表をベース」とは一体いかなることか?
公式非公式含めて、様々な観点、情報ソースを並べて、受け取る側の考えに委ねることすら許さない。
「不安をいたずらにかき立て」とは一体いかなることか?
視聴者などは、考えもなくオロオロと右往左往する烏合だと上から目線で見下す傲慢な発想である。独自のソースにまでアクセスし、多面的複合的に報じてこそ健全なジャーナリズムである。そんなことで不安になる程、世論は脆弱でも無知蒙昧でもない。原発問題は「危険性」を前提に管理すべきことであって、「笑っていれば放射能は来ない」に代表される「安心・不安」といった情緒や心理で管理すべきことではない。先の大前氏の記事にもあるが、2014年に起こった韓国の旅客船「セウォル号」の沈没事故で船が傾いてどんどん水が入ってきているのに「部屋の中にとどまってください」というアナウンスに従ったまでに大勢の乗客が亡くなった。このアナウンスというものが大抵、公式発表なるものなのである。国策たる原発について不都合ほど公式にならない。福島の原発事故で「実害」を「実害」と報道せずに「風評被害」とばかりに心の問題で片付ける悪しきマスメディアの態度である。

籾井流の考えに従うなら、NHKは今日から報道機関と名乗るのやめて、電通あたりと同じく政権側広告機関ないしは総務省方広報機関に宗旨替えした方がよろしい。

それにしても、世界報道自由ランキングが落ちたというのに、NHKともあろう日本を代表する報道機関の長が敢えて国際ジャーナリズムに対して挑戦的な発言をするとは!毎日新聞社もこれを報道するのであれば、識者の言など借りずに、毎日新聞社の社論なり担当記者・主幹による署名記事にてジャーナリストとして矜持を見せるべきである。腰が引けている。

(おわり)
posted by ihagee at 19:03| 政治