2016年10月22日

日本人形は捨て場のある消費財ではない(再録)


神社(淡嶋神社)に供養のためにおさめられた日本人形を借り受け、お化け屋敷をつくったユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が、日本人形協会から猛抗議を受け、ネットでも炎上している。

子々孫々への願いのこもった人形がその家で代々受け継がれることもなく玩具かぬいぐるみのように消費され、そして捨てられた人形が観光資源として用いられているということは、裏返せば(宗教)心が大量に捨てられ粗末にされていることでもある。日本の古くからの伝統人形には意味がある。供養のためにおさめるのであれば、「然るべく魂をお祓いして感謝の気持ちをこめて納める(焚き上げて、お別れする)ことが、人形への弔いであり、その人形を贈った人々への礼節でもあった。」

淡嶋神社もUSJも、その礼節をわきまえることができないらしい。

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怖がらせようと楽しませようと、集客目的に用いれば同じこと。その裏に心が荒んだ社会が見える
以下、今年2月の記事の再録。

「びっくりひな祭り」・じつは愚かなことなのかもしれない

鴻巣の「びっくりひな祭り」についてはすでに取り上げた

鴻巣市役所庁舎内を会場に催されてきたが、今年は鴻巣駅直結のショッピングモール「エルミこうのす」をメイン会場に数千体のひな人形が展示されている。

主を失ったひな人形、文化財として公共施設に展示するのなら理解できるが、観光資源として商業施設に人寄せ的に積まれることには、何となく違和感があった。

そして、以下のブログ記事を目にした。

「先日、六角通り柳馬場東入るにあるお店を訪ねて第七代目大木平蔵様とお会いしたが、昨今の雛に対する一般の考え方が変わったためか売れ行きがどんどん低下し、雛を作る職人も減ってしまって、末は、衰退するだろうと嘆いておられた。これは、単純に経済的な理由などではなく、根本に宗教心の薄れがあるからだろうと思う。
 子供の安全、無病息災を願い人形に子供を守ってもらうことを念願して飾ったものが、雛も粗製乱造儲かればなんでも良い買う側も安ければいいと言う時代だから、今は平気で捨てられタライ回しされ果ては山に積まれ、観光客の人寄せに使われている愚かさに、心ある人は内心悲嘆に暮れているように思う。世の中には事情があって泣く泣く手放さなければならない人もいるだろうが、全ては、そのようだとは思えない。
 私の友人の娘さんは、自分の雛が40年もたったからと顔や衣装を直して貰いに人形店に持ち込み、修復してもらったと語っていた。」

よく考えれば、その通りである。

子々孫々への願いのこもった人形がその家で代々受け継がれることもなく玩具かぬいぐるみのように消費され、そして捨てられた人形が観光資源として用いられているということは、裏返せば(宗教)心が大量に捨てられ粗末にされていることでもある。

鴻巣の賑わいに触発されて各地で同様の「ひな祭り」が広まりつつある。「びっくり」にしたくて、家庭で不要になったひな人形の寄贈を呼びかける自治体や事業者まであらわれる。「泣く泣く手放す」ばかりか「喜んで手放す」ことを助長することかもしれない。それは却って、ひな人形に対する我々の宗教心を稀薄化することになりかねない。雛祭の唱歌にもあるようなハレをめでるそれぞれの家の中の催事を、祭りという不特定多数の為のイベントにさらっと置き換えてしまう浅薄さである。

そして、そのような「びっくりひな祭り」をすればするほどひな人形は捨て場のある消費財と化して、「雛に対する一般の考え方が変わったためか売れ行きがどんどん低下し、雛を作る職人も減ってしまって、末は、衰退する」という道を歩むことになる。

ひな人形は元々、祖父祖母・両親が人形に子や孫への思いを託した祭礼用途の人形であり、魂(心)がその人形に宿るとされていた。従って、人形が壊れるなどして処分せざるを得ない場合は、然るべく魂をお祓いして感謝の気持ちをこめて納める(お別れする)ことが、人形への弔いであり、その人形を贈った人々への礼節でもあった。親先祖の心を無碍にはできないと思えば、手放すことなどせず人形店に直してもらったものだ。

壊れても修理せずにいられないくらいの物しか買わない」という、修理を前提とした物に対する真剣な接し方を我々がしていれば、「売れ行きがどんどん低下し、雛を作る職人も減ってしまって、末は、衰退するだろう」ということにはならないだろう。愛用・愛着という心を介せば、作り手も使い手も末永く共存することができるのである。

ところが、修理する位なら捨ててしまっても良い程度の物を作り、安さに免じてその程度の物とわかって買い求めるが、今の我々である。「雛も粗製乱造儲かればなんでも良い買う側も安ければいいと言う時代だから、今は平気で捨てられタライ回しされ果ては山に積まれ、観光客の人寄せに使われている愚かさ」になるのだろう。

市場経済の大量消費社会にどっぷり浸かって、物に対して我々がいかにぞんざいに接してきたことを、人寄せに積まれた大量の人形から知るべきなのかもしれない。単なる物どころか心を現すひな人形であればなおさらである。雛段の巨大さではなく、捨てられた心の大きさに「びっくり」すべきなのか。

親先祖の心が宿ったまま、それとは何のかかわりもない観光的・商業的目論見を背負わされ、衆目に晒される人形はさぞや不条理であろう。昨年撮った写真をあらためて見返すとどれも悲しげである。「悲」の「非」の語源は互いに背を向けることから、心がちぎれる意味である。「親先祖の心をちぎるような、愚かなことはしてくれるな」、と人形たちが言いたげである。

「鴻巣びっくりひな祭り」の人形たち
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(Exakta VX1000, Carl Zeiss Jena Pancolar 50mm f2.0, Kodak Gold 200 / 2015年2月27日撮影)

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(Exakta VX1000, Carl Zeiss Jena Pancolar 50mm f2.0, Kodak Gold 200 / 2015年2月27日撮影)

我が家のひな人形(大木平蔵(丸屋)の明治期の作)
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(Rolleiflex SL66, Rollei Planar 80mm f/2.8 HFT, Kodak Ektar100 / 2016年2月7日撮影)

(おわり)
posted by ihagee at 04:21| エッセイ