
(子安・Carl Zeiss Jena Flektogon 2.8/35, Fuji Across 100, Exakta RTL1000)
マイナンバーの通知が届いた。
この国はこれから国民を名前でなく番号で呼ぶそうだ。世の中総じて電子化である。電気的に情報を記録することがあたかも万能であり、便利・簡単・効率的であるかのように吹聴されている。紙の台帳や原簿の類はどんどん電子化されていくのであろう。
紙(中性紙)は千年単位で保存可能だそうだ。正倉院には702年に作られた日本製の紙(楮紙)が残っているし、平安時代の『源氏物語』や和歌集も美しい状態で残っている。かたや電磁記録媒体は数年〜十数年単位でしかない。常に新たな媒体に移し替えるなりバックアップを取らなくては消失する。複製の繰り返しであり、原本なるものが最初からないのである。
近年後を絶たない機密情報の漏えいは、紙原簿の時代では考えられない現象である。紙原簿は情報を物理的に現物管理することであって、情報自体に勝手に足がはえて逃げ出したり動き回ることはない。紙であるから束ねて一所に縛っておけるのである。その時代の漏えいの場合、漏えいの経緯や範囲が特定できたし、紙を媒体とするので漏れた情報は物理的に回収もできた。この時代のスパイ映画が成り立つのも、媒体が特定できるからである。つまり、何を奪う・何を奪い返すかがモノで特定できたので、ストーリーにしやすかったのである。
電気的に記録された情報はそうはいかない。わずかな媒介・媒体さえあればインフルエンザのウイルスのようにあっというまに広まりどんどん複製される。一旦広まればもうその情報はなかったことにはできない。だから、スパイ映画にもならない。物理的に回収という手立てがないのである。その情報が個人のプライバシーに関わることであれば、漏えいとは、憲法で保障されている個人の生命・財産・思想・信条などの自由が、それらが無限定に公に晒されることによって侵されることでもある。
電子情報には勝手にはえる足や動き回る性質がある。つまり、政治的判断を伴えば、無限定に収集・蓄積・利用・提供に最も適した情報である。紙媒体の情報では物理的にできないことも、電子情報なら何なくできるのである。<漏えい>を悪意(犯罪)で語るなら、<無限定>は意図的な<漏えい>であり、この国や為政者がその意図を最初からマイナンバーに期待しているとすれば、由々しきことである。
行政による電子情報管理の杜撰は、すでに社会保険庁の年金記録問題で露呈した。紙で管理していた時代にはこれ程の情報管理の杜撰は起こらなかったのである。当時、安倍首相(第一次政権)「最後の一人まで正しく年金をお支払いしていく」と繰り返し言明していたが、未だ数千万件は宙に浮いたままである。同じ首相が今度は「マイナンバー」である。電子情報とはかくも無責任と無謬性を伴うと我々は認識しなくてはならない。
(おわり)
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