2015年12月05日

フィルムは化け物なり(続)

フィルムは化け物である。と記事を掲載した。

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(昭和37年)

デジタル写真と異なって、フィルム写真には<空気感がある>と一般に言われている。しかし、その空気感ですらデジタルなら表現できるそうだ。だからフィルム写真は単なる懐古趣味だと言われる。そういう人には「データを処理すればそりゃなんでもできるでしょう」と答えておく。カメラの前に何も置かなくてもバーチャルにあたかもあるように表現するならCGである。CGをバーチャルだと思わない人に対しては不用な答えはしないでおく。

<空気感がある>とはフィルムの感光体の化学変化の雑味であると思う。その割り切れなさ、計算高くないところが今や貴重な価値観となっている。

世の中計算できるモノばかりが溢れている。二値化した単純社会に我々はどっぷり浸かって<勝ち組・負け組>なる馬鹿げた物差しでお互いの身の丈を測る始末である。物事はすべて割り切れると勘違いしている。雑なるものを忖度しない。雑味を排除してピュアが良いとされ、デジタルとはそのための純化である。ピュアは毒なり

雑なるモノに人間の本性は本来則しているのである。多様だからこそひっそりと生きることができるのであり、フィルムに惹かれるのも人間の本性の要求だと思う。ノイズが音や光になるとなぜかそこに温かみを感じる。フィルムばかりでない。真空管ラジオやアナログレコード、白熱電球然り。白熱電球は今やムダの象徴とされ、デジタル光のLEDに置き換わろうとしている。

ひっそり生きることも許されない総背番号制<一億総活用>の世の中に大いに逆らいたい。(おわり)
posted by ihagee at 16:51| エッセイ