2015年11月27日

LEDは<省エネ>に非ず

「政府は26日、財界関係者らが参加した「官民対話」で、電力消費量の少ない発光ダイオード(LED)照明の利用を促すため、蛍光灯や白熱電球の生産や輸入の規制を強化し、原則としてできなくする方針を示した。2020年度以降に、全ての照明の供給をLEDにすることを目指す。今後、詳細な制度設計づくりに入るが、LEDの価格はまだ高いなど課題もあるため、20年度をめどにしたLED使用の目標値の水準が、普及の鍵を握りそうだ。政府は、30日からパリで開かれる国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)を前に、省エネへの取り組み姿勢を強調した形だ。(東京新聞・2015年11月26日報)」

国が主導して、蛍光灯や白熱電球からLEDへの転換を図るようだ。蛍光灯や白熱電球は近い将来、製造も輸入も販売もご法度の禁制品になる可能性がある。<省エネ>が錦の御旗の<LED社会>が到来しそうだ。

LED自体が本当に従来の蛍光灯や白熱電球に比べて<省エネ>であるのか否かは、製造・輸送・使用・廃棄の各段階で投入したエネルギーの量を以て、従来型の蛍光灯や白熱球の場合と比較する必要がある。LEDの製造段階でのエネルギー投入量はそれら従来型と比べて高いが、使用段階での消費エネルギー量は格段に低いため、トータルで計算するとどうやらLEDに軍配が上がりそうである。政府・財界の認識は<省エネ>一点であり、蛍光灯や白熱球から代替することによる、照明器具を中心とした買い替え特需に色めきだっているようである

しかしLEDに照らされる我々の生活となると話は分けてしなくてはならない。

屋外型のテーマパークは光のイルミネーションでどこも大賑わいである。LEDが安価になり、数万個のLEDを用いて多彩な演出が可能となったからである。消費エネルギーが少ない為にLEDを<大量に用いる>場面が増えつつある。テーマパークに限らず、照らす目的なら何にでも用いることになる。

<省エネ><安価>ならば<大量に用いる>のが消費経済の常であろう。長寿命のLEDならば、とにかく大量に使ってもらわなければ特需にならないから、白熱球や蛍光灯と取り換えるようにとお達しが出るのである。街中がチカチカ煌々とLEDの明かりで埋め尽くされても、使用時の電気消費量は少ないのなら、そんなチカチカ煌々が好きな人にとって何の問題もないかもしれない。液晶テレビ、パソコンやスマホのディスプレイのバックライトから公共交通機関の照明に至るまで全てがLEDとなったら、生活空間においてLEDから我々の逃げ場はなくなってしまうだろう。<省エネ>だから気軽に大量にどんな場面、いかなる時間においてもLEDを用いることになるのである。

<ブルーライト>(日本の研究者3名がノーベル物理学賞を受賞した「青色LED」)の発明によって、LEDは白色光の合成ができるようになった。白色光を得たからこそLEDが白熱球や蛍光灯に代替するポジションを得たとも言える。つまり、生活空間において白熱球や蛍光灯にLEDが全て代われば、四六時中 
♪街の明かりはとても綺麗ね♪ とばかりに白色光に隠れた<ブルーライト>に我々は照らされるということである。

<ブルーライト>を日常生活で浴び続けることに対して警鐘を鳴らす学者は少なくない。体に障害を与える危険性について(網膜への障害、体内時計の狂いなど)、LED化を推進する産業セクターからは「問題がない」に近い見解しかないが、そういう産業セクターやそれにベッタリと寄り添う政治から距離を置く学者や研究者からは<ブルーライト>を含むLEDの安全性について検証を行うべきとの声が強い。産業への貢献が安全性をないがしろにしたものであれば由々しきことである。原発推進で散々振り撒かれた<安全神話>が大嘘だったと同じく、このLEDについても、ばら撒かれつつある<安全神話>には眉に唾をつけておいた方が良い。リスク度外視で<省エネ>の御旗を掲げて新たな産業の創造とばかりに邁進するのではないかと強く警戒するものである。

太陽から受ける自然光が人体の生理に適っていることは、その下で数千年の間進化してきた人体が一番知っていることである。近年の研究から、体内時計(概日生物時計)の調整に関わるホルモンの分泌が自然光と密接不可分であることが解明されてきた。朝日を浴びれば体内時計の狂いがリセットされ正常化されるのである。このように自然光の果たしている役割は単なる明るさではなく、生物の体内リズムの調整など雑多である。お日様が沈めば人間は眠り、日の出と共に人間は活動するのが自然の摂理なのだろう。日の出・日の入りもなくLEDで隅々照らす環境において壊れされるのは体内時計であり乱れるのは体内リズムであることは、火を見るよりも明らかなことである。「この道しかない」が我が国の首相の口癖だが、LEDにおいても「LEDしかない」は、先のブログ記事で取り上げた「ピュアは毒なり」で述べたと同じく、毒となり得る純化だと思う。雑なる(多様)がゆえにリスクは分散・回避されるのであり、「…しかない」(純化)とするとリスクは不可避に集中する。上述のように学者からそのリスクを指摘されているLEDについて、「LEDもある」となぜ言えないのか?

燃焼性光源(燈火・白熱球)→蛍光(蛍光灯)→EL効果(LED)と照明技術が開発された。そして、比例するように就床行動は後退し夜間化しているのである(昼間時間の延長)。
燈火時代:油がもったいないし火事になっては困るから早く消して寝る → LED:省エネ・火災の心配がないから点けっぱなしでよい=常夜灯・いつまでも起きている、となるのである。

照明技術が新しくなる程、生活パターンはどんどん夜型化し<省エネ>と反比例する。
そして、体内時計は昼間に相当する時間が就床時間まで延長されることで狂いが生じる。その狂いを調節するホルモン(メラトニン)の分泌において、分泌抑制に働く波長帯にLEDの青色付近の波長成分が折悪しくも特異的に重なって、LEDを夜間の生活環境に用いれば、体内時計の狂いはなおさら調整できないというジレンマに陥るのである。(参照:「ヒトの社会生活における光環境と生物時計について」)

<省エネ>が国際社会の共通課題であれば、体内時計が狂わぬように我々が生活のパターンを自然光に合わせれば良いだけのこと。つまり、人間自身が消費するエネルギーを減らせば良いのである。照明器具の性能や効率の問題ではないと言いたい。そして<スローな社会>こそ<省エネ>に最も近い。その<省エネ>動物の代表たるナマケモノに学ぶ社会であろう。(おわり)
posted by ihagee at 18:21| エッセイ