2015年11月20日

<綴るという行為>

スキャン 32b.jpeg
(1950年代・父撮影)

落語に「たいらりんか、ひらりんか、いち(一)はち(八)じゅう(十)の、ぼ〜く(木)ぼく(木)、いち(一)してちょい(、)してちょい(、)してとお(十)き〜(木)き〜(木)」というのがあった。充てようとしている漢字は<平林>である。綴りは判るが読みが覚束ないといった小咄。子ども時分、祖父から何度も聞いた覚えがある。

近頃、漢字が書けなくなった。と言う人が多い。
とは言っても漢字そのものを知らないというわけでもない。先の小咄で言えば「たいらりんか、ひらりんか」と読みはなんとなく判るが、「いち(一)はち(八)じゅう(十)の、ぼ〜く(木)ぼく(木)・・・」と綴れない、つまり<綴るという行為=筆順>がわからなくなっているという意味で「漢字が書けなくなった」と言う人が多いのである。

アルファベットと異なり、漢字はそれ自体が表意文字である。欧米人には漢字は複雑な図形に見えるそうだ。「ピクトグラム(絵看板)のようなものですよ」(本当のところは違うのだがあれこれ言うのも面倒なので)と説明すると彼らは頷首する。庶民に文盲が多かったその昔、識字できなくとも社会生活が送れるようにと欧米で発展した絵看板を以て喩えれば、「あああれか」ということになる。現代に於いて、万国共通に一目でその意味が判る車いすのマークや進入禁止のマークなどがその発展形である。絵看板も活字となった漢字も表面的には同じかもしれない。その形さえ記憶にあれば、綴れなくても似たような漢字の中から正しい漢字を<選択>することは欧米人でもできるだろう。

デジタルな日常生活はこの<選択>ばかりである。ネット上での情報の検索、ワープロでの文章作成、電子メールやラインも予め用意されている文字列の選択・組み合わせて行っている。 若い人が多用する(*^_^*)などの顔文字はピクトグラムそのものだが、選択・貼り付けるだけである。論理やパターンを先読みしてご丁寧にも選択肢を勝手に示してくれるインテリジェンスまである(日本語入力システム)。電子端末上で指先を上下し、撫でまわすことで<選択>は完了する仕組みなのだ。

従って、<綴るという行為=筆順>がデジタルな日常生活において要求されることはない。手書き入力があるではないかと言われそうだが、それは一昔前のこと。シャープの<ザウルス>といった電子手帳(PDA)では手描き文字認識機能があった。紙媒体の手帳の電子化であれば、ペンを使って電子手帳に文字を入力することは自然な発展形で、そこでは<綴るという行為>が残された。しかし、PDAは通信機能を持ったスマートフォンに吸収され、わざわざまどろっこしい手描き文字認識なんかよりも、喋った際から素早く変換する音声文字認識に機能が代替されてしまったようだ。そもそも漢字の筆順を覚えていられる人なら紙媒体の手帳を使うだろう。紙の上でペンを素早く動かす方が手っ取り早い筈だ。

活字となった漢字はピクトグラムとしてみれば絵看板と同じだろうが、その成立要件は異なる。絵看板は最初から絵看板であるが、漢字は最初から活字ではなく、筆順における連続的な軌跡が成立要件である。つまり、漢字は絵看板とは異なり、ペンや筆で紙に<綴るという行為=筆順>がそもそもの成立要件である。星の数ほどある漢字のそれぞれの綴り方を会得しなければ科挙(官僚)になれなかったその昔の隣国がその発祥であり、漢字は綴り(漢文・漢籍)と共に発展したとも言える。

このそもそもの成立要件に立ち戻ると、<綴るという行為=筆順>を飛ばして、漢字を活字としてだけ扱う場面は印章や経典の為の木版印刷が始まりであって、そこでは<認める・刷る>という目的でしかなかった。活字としての漢字を選択し貼り付けることで文書を作成するという変則は、デジタル社会になる前であれば、和文タイプによる浄書か、誘拐犯や爆弾犯が新聞の活字を切り貼りして作る怪文書しかなかった。後者は筆跡・出所素性を隠す悪意による。その浄書的又は怪文書的作業をソフィスティケートにシステム化したのが日本語ワープロ専用機であり、電子端末における日本語入力システムともいえる。

紙の上にペン先を走らせて仕事をする文筆家が未だに多いのも、<綴るという行為>=文字であり文章であって、その過程に於いて多分に創作力が発揮されるからであろう。そして彼らの原稿用紙が縦書きなのも、文字同士の連続的な軌跡は縦書きの方が易く、まさに立て板に水の如く一気呵成にペンを動かすことができる。ここでは、活字や横書きは出版社側の都合であって、文筆家の創作活動における要件ではない。

<綴るという行為>を飛ばして、活字としての漢字を扱うこと、それが違和感であった時代があった。ワープロでキーボードから文字を入力すると、いきなり活字として画面に表示される。今となっては当たり前の景色だが、ワープロが登場したての頃は、指先即活字の論理的飛躍に頭がついていけない人々が大勢いた。漢字を呼び出す為に、<綴るという行為>を飛ばして読み方をひらがなやローマ字で入力するというルール変更への生理的違和感である。頭脳とペン先が最短距離で直結した綴るという連続的な行為を、決められたルールに従って指先を動かすという遠回りで非連続な<変換作業>に切り替えることへの精神的疲労である。

文字を<綴るという行為>は書写・書道として後天的に学ぶ。単に文字の書き順を学び覚えるだけでなく、紙の上での文字の配置・収まりを考えなくてはならない。筆にあって書き損じは一から書き直すことになるのでそれらを先に考えてから筆を紙に置かなければならない。余白や行間も忖度しなくてはならない。その均衡に美意識や価値観を求めようとすると、書写(術)が書道となるのである。選択なる<変換作業>にどんなに励んだところで所詮は作業であって、術にも道にもならない。

究めれば<道>になる<綴るという行為>をいつしか日本人は忘れてしまった。ネット上で適当に<選択>してコラボレーションすれば、小保方さんや佐野さんが堂々と主張するような著作物?になる時代である。<綴るという行為>を飛ばしてもそれなりに成果らしきものが得られるが、それが本当の意味での精神的労力の産物であるか甚だ疑問である。皮膚感覚・条件反射的にポチッと<いいね>とクリックして済ませる<選択>にどんなに毎日励もうと真理に到達することはない。

スマートフォンを四六時中撫で回して<選択>に勤しむことで、人間はどんどん頭脳を使わなくなる。ピクトグラムにばかり反応するデジタル時代の文盲が増え、他者の意見に耳を傾けることもなく、複雑なことも二元論的に単純化して白黒と<選択>する社会から、法秩序の連続性すら簡単に断ち切る首相が生まれるのである。斟酌論考の軌跡のない出所不明の怪文書的政治に「この道しかない」と彼は言うが、<綴るという行為>を示さずにその先に道を見る事も究めることもできないのである。(おわり)
posted by ihagee at 17:35| エッセイ