2015年11月16日

なぜEXACTAだったのか(戦後編)

”IHAGEE-THE MEN AND THE CAMERAS”と題するPeter Longdenの著作物(2008年に英国 The Exakta Circleによる私家版)はihageeの歴史(1912-1987)を政治社会的背景に照らして考証する内容である。

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(”IHAGEE-THE MEN AND THE CAMERAS”)

Peter Longdenは第八章(1945-1949、再出発)において、”c”綴りを含むKine-Exaktaの戦後登場について多くのページを割き、Ihageeの再出発におけるそれらカメラに課せられた重責と、果たした役割について述べている。

1945年5月8日、第二次世界大戦が終わった。廃墟と化したドレスデンはソ連の占領統治下に置かれた。Ihageeの創業者Johan Steenbergenは1942年に米国に亡命していたが、戦前ドイツにおける彼の企業家・資本家の経験を鑑みた母国オランダ政府は、彼に働きかけ1946年、バーデン・バーデンを本拠とするオランダ軍の占領統治機関に招き入れたのである。これを足掛かりにソ連統治下のドレスデンに戻ってIhageeの再興をと願っていたSteenbergenはソ連側にその旨を幾度となく嘆願したが、ソ連は遂にそれを認めなかった(想いを断ち切れなかったSteenbergenは1959年に西独フランクフルトにIhagee Westを立ち上げ、商標権侵害承知で1966年にExakta Realを製造販売したが失敗に終わる)。

「ドレスデンのカメラ産業は灰燼に帰した。市内の工場の八割が使用不能の戦禍に見舞われたとHummelは見積もっているが、Ihageeの工場のあったStriesen地区は少々事情が違っていたようである。ここでの連合軍による空爆は主に焼夷弾に拠るものだったので、通りの破壊は免れた。多くの工場が火災にあったが、消防士によって最悪の被害は食い止められた。

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(戦禍を被ったSchandauer通りのIhagee工場)

(中略)生き延びたIhageeの労働者たちが機械類と材料を救い出し、Blasewitzer通りに借り受けたビルで製造を再開したのである。(中略) Ihageeは依然オランダ資本であった故に、他のドレスデンの会社とは異なり、ソ連占領統治下に独立して事業を継続していた。(中略)簡単な日用品の製造は1945年6月にこの転居先の工場で開始されたが、すぐにKine-Exaktaの製造に切り替えられた。店舗から回収された部品と新たに製造した部品を用い、Heidenauのダイカストメーカーがボディの鋳造供給再開にこぎ着けた。1945年の暮れまでに320台のKine-Exaktaが製造された。収入を得たかった従業員は割り当てクーポンと引き換えに新たに製造したカメラを引き渡し、50台余りが現金で赤軍の関係者に売られた。(中略)Schandauer通りにあった工場は倒壊し全ての記録と資料が失われ、それ以前のIhagee製品の明細書も技術図面も最早存在しない状況で再出発は不可能であった、とHummelは回想している。1945年5月中旬よりKine-Exaktaの基本図の作成が開始された。(中略)このタスクはOtto Helfrichtが主導した。彼は1925年7月からのIhageeの生え抜きで、Nüchterleinの設計チーム(1930年)の当初メンバーでこのカメラについて精通していた。」

ドイツは戦後賠償の一つとして、ヒトラー時代のドイツの財産権のソ連軍事当局者への引き渡し命令が1945年10月30日に発行された(Order No. 124)。特許権・商標権といった知的財産権についても戦後賠償としてソ連軍事当局者へ引き渡された為、フェドやキエフといったソ連の兵廠で製造されたLeicaやContaxのレプリカの「正当性」はこの命令が根拠となっていた。

「カメラとアクセサリーの供出が賠償の一つとなった。(中略)同様の要求はドレスデン、イエナのZeiss Ikonにもあり、Contaxの製造は、カメラボディ、レンズ、設備から技術図面、道具などと共に全てキエフに移された。(中略)戦後賠償として製造するKine-Exaktaの台数に関して、ソ連軍事当局者との交渉は1945年の秋、ベルリンで始まった。他の企業と同様に、必要な道具や材料はソ連側から供給され、費用はザクセン州政府が負担することになった。(中略)1946年1月3日、Ihageeは戦後賠償プログラムの一つとして20,000台のKine-Exaktaの製造を受注した。当時の会社報に“これは会社とフィナンスの再生にとってより健全な礎となる”とある。
Kine-Exaktaによる賠償は1949年まで続いた。この期間、ソ連邦へのKine-Exaktaの輸出が年々増加した。そしてその一部が西側に輸出された。(中略)1945年に370台であったKine-Exaktaの生産台数は1946年には4,500台になり1947年には12,000台を超えた。(中略)この期間に製造されたカメラは、Kine-Exaktaのみである。戦前のモデルと基本的に同じ構造であるが、細部に於いては変更箇所がある。ボディトリムはクロームではなく鏡面研磨された金属である。スローガバナーは1/10秒の代わりに1/5秒となり、スロー側のダイヤルはフライス加工の端部に加工溝がなくなった。ストラップ留も変更された。その他の変更点としては、カメラの背面の革に押されていたIhageeのロゴがなくなり、一部が西側に輸出されることを想定して”Made in Germany“が底面の革に押されている。カメラ収集家にとっては大切なことだが、賠償として製造されたモデルの銘板には”Exacta”と彫られている。”c”綴りのExaktaの存在は西側では全ての事実が判るまで、長らく謎であった。賠償モデルが最終的にどこに行ったのかIhageeが追いやすくするために”c”綴りのExaktaにしたというのが真相である。この期間にトータルで35,821台のカメラが製造され、そのうちの約16,920台が賠償目的で供給された(これらが全て”c”綴りのExaktaと想定される)。」

この時期の”c”綴りのKine-Exaktaの現存品は戦前モデルと比較すればカメラ・コレクションとしての稀少性は低いかもしれない。しかし、”c”綴りを含むKine-Exaktaにはその一台一台に、ソ連占領統治下、西側資本の民営会社という微妙な立ち位置にあって戦後賠償という重荷を負わされ、開発当初に関わった設計者が再び白紙から図面を描き直し製造されたという歴史が刻まれているのである。35,821台が元に、1950-1960年代のExaktaの成功とIhageeの繁栄があったのだろう。たかがカメラと云うなかれ、何とも感慨深い話だと思う。(おわり)
posted by ihagee at 18:26| Kine-Exakta