1972 年、ヨシップ・ブロズ・チトーは、ベオグラード訪問中のエリザベス 2 世女王が夜静かに眠れるよう、宿泊場所(ホワイトコート)周辺のすべてのカエルを捕まえるよう兵士たちに命じた。
「ここはとてもいいのですが、ここにカエルがいないことに驚いています。私はカエルの聖歌隊を聴いて育ちました。その歌声は私をとてもリラックスさせてくれます。」と女王は翌朝チトーに言った。チトーは兵士たちに命じて捕獲したカエルを全て元に戻した。(Miodrag Todorović回想録)

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チトーが率いる反ファシストのパルチザンが、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルを含む同盟国の助けを借りて1945年に国を解放した後、新しい共産主義政府は王室が権力の座に戻ることを禁止した。
1945年7月17日、ロンドンのブルック通りにあるクラリッジス・ホテル212号室のスイート・ルームで、亡命中のユーゴスラビア王ペータル2世とその妃のギリシャ王女アレクサンドラとの間に一人息子アレクサンダル2世カラジョルジェヴィチが生まれた。ユーゴスラビア王位継承者は同国内で誕生していることが王位継承の条件であったため、イギリス政府はこのスイート・ルームに対する主権を一時的に放棄し、ユーゴスラビアに割譲したとの話が知られている。アレクサンダルの洗礼の代父母を務めたのはイギリス王ジョージ6世とその長女エリザベス王女(後のエリザベス2世)であった。1947年には、チトーによってユーゴスラビアの市民権を剥奪され、王室の財産は没収され、アレクサンダルはイギリスの国民としてイギリス陸軍将校となり、後にアメリカに渡りシカゴの保険会社 Marsh and McClennanで働き、イギリスに戻って友人の石油と海運会社関係の仕事をした(存命中)。
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グリム童話に、お姫様が壁に投げつけたカエルに謝ってやさしく布団をかけると、金色の光がひらめいてカエルが王子に戻る話がある。

カエルなりの正当性(王位継承権)も、政治的変化によって薄れやがて消滅していく。
「私は普通の子供として育った。カエルにキスをして王子になったわけではない。米国では、私はただのアレクサンダー・カラジョルジェヴィチで、住宅ローンを抱え、電気代とは何か、子供の教育費とは何かを知っていた。」
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体が始まった1989年、アレクサンダルは10 月に初めてユーゴスラビアを訪れた。この短い旅行で、分断された国の将来に自分を必要とする多くの人々がいることを彼は知り、立憲君主制による民主主義の達成を望むようになった。「(チトー時代の)権威主義体制から民主主義体制への円滑な移行を提供できる(アレクサンダル)」
アレクサンダルは現セルビアにおける立憲君主制の復活を提案しており、もし王政復古が現実となれば自分が合法的な王として即位するつもりである旨、表明している。セルビアの放送局B92の記事によると、『SAS Intelligence agency』という団体が同国で行った世論調査で、39.7%が「議会制君主主義」に賛成、32.2%が(強く)反対、27.4%がどちらでもない、と回答したとのことである(wikipedia「アレクサンダル2世カラジョルジェヴィチ」より)
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1972 年の女王の東欧共産主義国(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)への訪問は西側メディアでは批判の対象となった。今はカエルとなってしまった東ヨーロッパの王族たちに、共産主義の牙城から女王は立憲君主制での王政復古を呼びかけていたのかもしれない。女王の強かさを伺い知ることができる「カエル」の逸話である。
(おわり)
余談:そのチトーの祖国解放戦争に抵抗するクロアチア独立国軍(親独・親ナチ主義者)に加わり捕らえられ、投獄され死刑を宣告されるものの、その死刑当日に収容所所長にピアノを弾くことを命令され、それを聴いた所長が「芸術家を死刑にするのは忍びない」と処刑だけは免れたのが、N響に何度も客演し名演奏をもたらしたロヴロ・フォン・マタチッチ(Lovro von Matačić)である。この大カエルにキスをして救ったのは、収容所所長の愛娘だったのかもしれない(後のマタチッチ夫人)。壁に一度は叩きつけられた大カエルならぬ貴族(フォン "von")が大指揮者になったというお話。ちなみに、マタチッチ夫人は他に3人いたと言われている。同様にフォンを名乗っていたカラヤン(Herbert von Karajan)に対して「おれは本当の貴族だからね」とマタチッチは言ったとか言わなかったとか。
